クロードくんの言うことを真に受けてはいけない。彼は素直な用兵をする人間ではない。
 皆がそう言うのも分かってしまえるくらいに、クロードくんは、何だか独特な雰囲気を持った人だった。
 明るく、人好きのする空気を醸す人だ。その目はいつも楽しげで、その癖周囲を俯瞰するように見ている。口が良く回って、だけどそこにはいつも決定的な説得力がある――。
 一筋縄ではいかない相手だからこそ、先生も、皆も、特に彼には注意を払っていたのだろう。明らかに彼と敵対する立場になる鷲獅子戦での間くらい、私も、もっと彼という人間の考えそうなことに目を向けるべきだったのだ。ドゥドゥーくんの件で彼に助けてもらったことのある私は、こんな時ですら彼の善性を信じていた。イグナーツくんの背を追いかけている間、何かおかしいって、ちゃんと考えるべきだった。
 私がフェリクスくんとシルヴァンくんたちから引き離されていること。イグナーツくんがつかず離れず、けれど確実に互いを見失わない程度の距離を保ちながら森を駆けていくこと。私がそれに少しずつ焦りを覚えてしまっていること。
 一度立ち止まることも、冷静になることもできなかったのは、先生が危惧していた伏兵の姿がどこにもなかったせいだ。その上、「今、私が絶対にイグナーツくんを倒さなきゃ」という凝り固まった思考が、私の視野を極端に狭めていた。
 イグナーツくんは、時折こちらを振り返った。押さえきれない肩からの血が、地面に赤黒い染みを作っていた。痛々しさに申し訳ない気持ちが芽生える一方で、鷲獅子戦を戦う一生徒として、焦りも覚える。もしも私が弓をもう少しまともに扱えるか、メルセデスちゃんのように魔法が使えたら、この距離を保ちながらでも彼に攻撃を仕掛けることが可能だったのに。そういう選択肢をそもそも持つことのできない自分が、歯痒くてたまらない。
 木々の合間をすり抜けるように走るイグナーツくんを追いかけているうち、段々耳鳴りがしてきた。横っ腹や、左腿のあたりが妙に痛くて、息切れがする。そんなに長い距離を走ったわけでもないのに、普段の自分ではないみたいだ。三半規管がおかしくなったみたいに、一瞬の眩暈を覚える。
 私がその木に手をついたのは、その根が地面からつきだしていたせいだ。足を取られそうになって、思わずそうした。軸が崩れて、次の一歩の幅が乱れる。すぐそこにはまた別の木の根があった。そう思った。
 だけど、それは違ったのだ。
 私の足が引っかかったのは、根ではなかった。



「えっ」



 私の足を捕えたのは、縄だった。そこに加えられた力に反応して作動したのだろう。連動する形で木の上から何かが落ちてきたと気がついたときには、視界が反転する。



「わっ!」



 思わず悲鳴が漏れたのは、身体が宙に浮いたからだ。ぎし、と軋んだ音がする。その音の正体はこの身体ではなく、私を包む、袋状に編まれた縄だ。
 罠。
 頭を過ぎるも、もう何もかもが遅い。太い枝に引っかかった網によって宙づりになる形で、私は文字通り「捕獲」されていた。



「……え、え!? なにこれ」



 驚いたせいで、イグナーツくんと交戦して以降、ずっと握っていた剣が手から離れる。大きな編み目の隙間から、それは無情にも地面に落下した。土の上に音をたてて落ちる剣を、目を見開いたまま見つめる。何が起きたか分からない。猟師の使う罠に、うっかりかかってしまったのだろうか。いや、この状況で、そんなことあるはずがない。考えられることといったら――。



一人か」



 頭の後ろから聞こえた声に、思わず振り向く。
 そこにいたのは、申し訳なさそうな顔で私を見ているイグナーツくんと、そして。



「ま、これはあくまでいざってときのために準備していたもんの一つだ。一人でも落とせたなら幸甚の至り、ってね」

「く、クロードくん……!」



 宙づりの状態で名前を呼ぶ私に、クロードくんは小さく笑って首を傾げた。「悪いな、」と。



「これも作戦なんだ」



 彼は目を細め、そう言った。








 メルセデスと、二人の戦闘不能。イグナーツがあげてくれた戦果だけを考えるならば、それは上々だった。
 だが、他が芳しくない。ヒルダには「つれるだけつってきてくれ」と頼んだが、結局森まで誘導できたのは一人。折角森の中にいくつか罠を仕掛けておいたが、これじゃあほとんど使わないまま終わることになりそうだ。
 イグナーツの話を聞く限りでは、東に回された青獅子の兵力がでかかったらしい。フェリクスとシルヴァンじゃあ、誘導するどころか相手をするので手一杯だったろう。そうでなかったとしても、戦い慣れしているあいつらにはこっちの思惑が透けてしまっていたとしてもおかしくない。



「ヒルダさんもローレンツくんも、良くて相打ちではないでしょうか。……いずれにせよ、恐らく今頃は二人とも、撤退させられていると思います。二人が苦戦している様子は窺えましたから……」

「なるほどねぇ……。俺もそっちに回るべきだったか?」

「そうなった場合、敵は指揮官であるクロードくんをまず落としにかかったと思いますよ。……仕方が無いです」

「…………」



 仕方が無い、か。まあ、そうだよなあ。
 イグナーツの言葉に緩く頷きながら、視線を彷徨わせる。
 指揮官がハンネマン先生だったら兎も角、俺では信頼ってもんが足りない。ローレンツが独断で先行しちまったのも、畢竟俺のせいだ。戦力の配分を考えるにしたって後手だったのは事実だろう。砦が俺の想像よりも早く青獅子の学級の手に落ちたことで、それを取り戻そうとエーデルガルトが動かした黒鷲の学級と砦南部でぶつかってしまったのも痛かった。
 そんで、報告によるとその南でも金鹿の学級の部隊はほとんど壊滅――。黒鷲との戦いに横槍を入れる形で現われた青獅子の部隊に、ベレト先生がいたのがでかかったらしい。
 要するに、今残っているのは手負いのイグナーツと俺一人、ってことだ。この状況で落とせるとしたら、せいぜい一人、二人。それで勝敗が動くことは、どう考えてもない。俺達は、ここまでだ。



「完敗だな」



 肩を竦めて言い切ると、未だ網の中で妙な姿勢になったまま宙づりになっているに目をやった。ここに至るまで、観念した野兎のように言葉もないままだったが、その目が何か言いたげに俺を見下ろしている。



「おいおい、なんだよその目は。今下ろしてやるって。……でも、剣をこっちに向けるのはなしだぞ。俺達も、お前も、ここで棄権だ」

「……クロードくんも棄権するの?」

「もう勝ち筋がないからな。今回は青獅子に勝利を譲るよ。……それに、ここからお前を運ぶのに人手がいるだろ?」



 負傷したイグナーツのみを離脱させ、俺自身はせめて一矢報いるために前線へ向かう。そういったことも考えないわけではなかったが、その場合を運べる人間がいなくなってしまうだろう。なんせ、イグナーツは腕を怪我してしまっているんだから。
 けれどは小さく首を傾げた。



「? 運ぶ? 私を?」



 不思議そうに丸くなるその瞳に、一瞬言葉を失ってしまう。気がついてないのか? まさかとは思うが、表情から判断するに、そのまさかなのだろう。



「…………お前、足から血が出てるぞ。イグナーツの矢が掠めたんじゃないか? それ、さっさと止血した方が良いだろ」



 自分の左腿を指で差して示してやれば、は見開いたままの目を落とし、間髪入れずに短い悲鳴をあげる。「え!? なんで!?」としきりに狼狽するその姿にイグナーツの方が困惑していたから、笑ってしまいそうになった。
 驚くのも当然。結構な出血だ。網の下の草は、滴った血で濡れている。その怪我で良くここまで追いかけてきたもんだと思ったが、どうも痛みを感じていなかったらしい。
 戦いに集中するあまり、自分の怪我にも気がつかないなんて、他学級ながら心配になるな。
 イグナーツに縄を切ってもらい、支えを失って木から落ちるの背に腕をまわし、網ごと抱き留める。なるべく足に触れないように、と思ったが、姿勢が悪かったらしく思い切り掴んでしまった。「いッ!?」と叫ぶに、「悪い悪い」と謝るも、は声にならない声で悶絶するだけだった。


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