ここからは視認できない砦の南側から、怒声にも似た戦い特有の音が聞こえる。
砦で別れた殿下たちは今頃、黒鷲と金鹿の戦いという混戦に身を投じた頃合いだろうか。三学級が集うそこは私たちの今いるこの地よりも、より「鷲獅子戦」の色が濃く表れているのだろう。余裕があるわけでもないのに、ちらりと頭の端を掠める。
鷲と獅子、それから鹿の三つ巴の戦い。
主戦場がそちらであることは疑いようがなかったけれど、私たち四人もまた、一触即発の空気の内に居た。シルヴァンくんとフェリクスくんが間合いを計るように各々武器を構え、メルセデスちゃんは後衛、私は三人の中間地点に立つように剣を握っている。向かい合うは金鹿の学級のローレンツくん、ヒルダさん、それから弓を構えたイグナーツくんだ。
数だけで見れば、こちらが優位である。
だけど、元々私たちは突出したローレンツくんを叩くことを目的として向かわされた。個で戦うことを強いられた場合、金鹿の学級の生徒を「確実に」落とすことはどうしても難しくなる。いくらフェリクスくんとシルヴァンくんが戦いに慣れていると言っても、向かい合う彼らもまた優秀な生徒たちなのだから。
馬上で槍を構えるローレンツくんは、貴族として必要な訓練を幼少から積んでいるのは想像に難くない。それに胡座をかくことなく、向学心のある男性だと言うのは、以前、メルセデスちゃんからも聞いた(曰く、彼もまた、一時期ではあるけれど王都の魔道学院に在籍していたのだとか。)
ヒルダさんは小柄で可愛らしい女の子だけれど、彼女の家はあの武勇名高いゴネリル家だ。パルミラの攻勢からフォドラを守っているホルスト将軍は勇将として名を馳せていて、そんな彼の実の妹である彼女が才を持たないとは考えにくいだろう。
平民でありながらガルグ=マク士官学校で学んでいるイグナーツくんの優秀さは、言わずもがなだ。先ほど彼が放った矢は、剣を弾く程度には重かった。森の中を駆けて切れたらしい息ももう整っているところを見ると、男の子にしては小柄な身体でも体力は備わっているに違いない。
イグナーツくんは、腰に剣を下げてはいなかった。ならば、接近戦に持ち込めれば、どうにか隙をつけるだろうか。そう考えていたときだった。
「おい、」
不意にフェリクスくんに名前を呼ばれ、目線だけをそちらに向ける。彼は目だけで私を振り返り、口元だけで「お前はイグナーツを落とせ」と短く言った。
ローレンツくんとヒルダさんと戦うには、私では分が悪く、力不足なのは否めない。勿論本当だったら、イグナーツくんとだって対等ではないのだ。私たちの間には、兵としてははっきりとした力量差がある。それでも弓兵の懐に忍び込むことくらいはできるだろう。フェリクスくんは、そう言っている。私が考えていたのと同じように。
「できるな」
有無を言わせない、強い声だった。
「で」
できるだろうか。自問するも、正直に言えば自信は無い。
それでも、「できない」とは言えなかった。言葉を探すために一度視線を落とす。やがて出てきた言葉は「……頑張ってみます」っていう、フェリクスくんにしてみれば頼りないものでしかなかったのだけど、それでもフェリクスくんは「充分だ」と、小さく頷いてくれた。それだけで、少し心が救われた。
「無茶しないでくれよ、。お前に何かあったら、俺達がイングリットにどつかれる」
「……貴様は他人の心配をしている場合か? 万一あいつらに遅れを取るようなことがあれば、俺が引導を渡してやるからな」
「はは、勘弁願いたいが……まあ、頭には入れておくか」
そう言うと、シルヴァンくんは改めて得物を構え直す。
フェリクスくんはメルセデスちゃんにも呼びかけると、「メルセデスはの援護を」と続けた。フェリクスくんとシルヴァンくん、二人がそれぞれ、援護のないままにローレンツくんとヒルダさんの相手をするということなのだろう。それでも、そこに口を挟む時間はもうなかった。
「任せたぞ」
向こうの三人にも届くよう、フェリクスくんが声を張る。
それが、戦いの合図になる。
そのときヒルダさんがイグナーツくんに何か囁いていたのが、視界の端に引っかかっていた。
無理はするなよ、って殿下に言われた。先生も、注意を払えって。功を急いてはならないと分かっていたのに、冷静に判断して動くための実戦経験が、私は皆と比べて、極端になかった。
視野の広さ、状況を見極める判断力、勘、それから剣術。それらのうち何か一つでも水準に達していれば、少しは役に立てたのだろうか。ううん、そこまでじゃなくても、足を引っ張らないことができただろうか。メルセデスちゃんに怪我を負わせずに済んだだろうか。
イグナーツくんから放たれる矢は、私ではなくメルセデスちゃんに向けられた。魔法に集中させないためだったのだろう。私が切り込もうにも、私が駆け出せば彼は即座にこちらに目標を切り替えた。曲射と直射をきっちり使い分ける弓術は器用で、彼の性格が窺えるように思えた。
だから、私たちにできることと言ったらどちらかが囮になって、そうではないどちらかがイグナーツくんに致命傷を負わせることだったのだ。
それに先に気がついたのがメルセデスちゃんだった。メルセデスちゃんは、彼女を出来る範囲でその矢から守ろうと射線に立つ私に、「私には構わないでいいわ」と口にした。
「はイグナーツの死角へ」
彼女の意図がそれだけで伝わったけれど、頷く他なかった。
「わ、わかった。……気を付けて」
柔らかく笑ったメルセデスちゃんに、私は背を向けて走り出す。
イグナーツくんは、早撃ちだ。彼のその視界、特に直線上に入れば、即座に撃ち分けて敵に狙いを定められる。ならば私たちは数の利を使い、彼の死角から飛び込むしかないのだろう。例えどちらかが危険な目に遭っても。
イグナーツくんとの戦いのさなか、気付けば私たちは、砦の東から離れ、ほとんど森の中にいた。シルヴァンくんとフェリクスくんらはもう視界のどこにもいなく、彼らが今どういった状況に陥っているのかも分からなければ、主戦場の喧噪も遠い。
今頃皆は、どうしているのだろう。怪我を追うことも、離脱することもなくいるだろうか。西で黒鷲の学級の生徒たちを押さえているイングリットちゃんとアッシュくん、南に向かった殿下たち、いつの間にか姿の見えなくなったフェリクスくんとシルヴァンくん――。皆が心配だった。
それでも、今更後には退けなかった。木々は私が身を隠すのを助けてくれたし、射線だって防いでくれたから。
メルセデスちゃんと別れ、イグナーツくんの背後に回る。メルセデスちゃんは私の視界の端で、少しわざとらしいくらいにその姿を露わにしていた。それでも、魔法を放つためと思えば、かろうじて不自然ではないくらいの。そうなるとイグナーツくんも彼女に注意を払わなければいけない。私に切りかかられるよりも、彼女からの魔法を受ける方が余程致命的なのだから。イグナーツくんの視線に注意しながら身を低くする。鼓動と、自分の呼吸音が煩い。緊張のせいだ。こんなに煩くて、イグナーツくんに聞こえてはいないだろうか、ぎゅうと唇を噛んだら、微かに血の味がした。
限界まで引かれた弓、そこから放たれた矢がメルセデスちゃんへと向かうのを見た瞬間、私は地面を蹴っていた。その懐に飛び込んだとき、しかし遠くでメルセデスちゃんの悲鳴が聞こえた。矢が当たってしまったんだ。血の気が引く感覚に襲われるけれど、ならば尚更、今ここで決めなければ――。
足を踏み込む。柔らかな地面に微かに足が沈み込む感覚を覚えながら、剣を振り上げる。イグナーツくんが振り向いたのと、瞬間彼が握る弓から矢が放たれたのとはほとんど同時だ。彼はこうして隙をつかれることを読んでいたのだろう。
「……ッ!」
どうにか身を捻ってその矢を避け、振り下ろした剣は、イグナーツくんの右腕を掠めた。丸い眼鏡の奥で、イグナーツくんが苦悶の表情を浮かべる。「くっ……」その唇から漏れた声が、聴覚を支配する。皮膚が総毛立って、五感の全てが研ぎ澄まされたような感覚になる。
切った。
浅いけど。これが本当の戦場だったら、全然足りないくらいだけど。
でも、右腕を押さえたイグナーツくんは、弓をもう扱えないだろう。だったらそれで充分だ。だってこれは戦争ではなくて、鷲獅子戦。相手を戦闘不能に追い込めば、それで良い。
けれど彼は膝をつくことも、棄権の意を示すこともしなかった。言葉もないまま、森の奥へと駆け出したのだ。
「えっ」
思いもよらないその行動に、思考が停止する。
どうしよう。どうしよう。
メルセデスちゃんを振り返ったら、彼女は肩口を押さえ、地面に蹲ったまま首を振った。多分、メルセデスちゃんの方はそのまま棄権をせざるを得ないのだろう。「メルセデスちゃ」そちらに向かって駆け寄ろうとした私に、けれどメルセデスちゃんは、「行ってちょうだい」と言った。
「私は一人でも大丈夫よ」
私たちは、イグナーツくんを任された。方角からして、彼はクロードくんの居る本陣へと引き返しているのだろう。そこで治療をされてしまったら、今の戦いの意味がなくなってしまう。ならば追いかけて、手負いの彼を倒してしまうべきだ。それだったら、一人でもできる。
私はメルセデスちゃんに大きく頷くと、イグナーツくんを追って駆け出した。まだ、身体の中を血が巡る音がうるさかった。私は役に立ちたかった。この鷲獅子戦という部隊で、少しは殿下に認めてもらいたかったのだ。