鷲獅子戦は例年、帝国領中央に広く領地を持つベルグリーズ領、グロンダーズ平原にて行われる。
 しかしガルグ=マクから直接帝国領へと繋がる道がないため、グロンダーズに行くにはまずレスター諸侯同盟領を通過する必要があった。ガルグ=マクの東に隣接するバーガンディ領を抜けた後、同盟国領最南のフレゲトン領から伸びるミルディン大橋を渡り、そうしてようやくアミッド大河を越えた先にある帝国へと足を踏み入れることができるのだ。



「わあ……!」



 士官学校に入学するまでファーガスから出たことのなかった私にとって、ミルディン大橋は本の中でしか見たことのないものだった。
 見事な景観に、思わず椅子から腰を浮かせてしまいそうになる。「本当に大きい〜! 見て見て、あの塔なんか、本に載ってた絵と一緒!」と馬車の中から指をさせば、向かいに座っていたアッシュくんが「ああ、本当ですね」と微笑みながら頷いてくれる。ロナート様の蔵書にあった図録を二人で広げて眺めていたのは何年か前のことだけど、記憶の共有ができていることが何よりも嬉しい。
 ミルディン大橋は歴史ある建造物で、軍事要塞にもなっている。千年近い歴史を持つ大修道院よりも古くから存在する、歴史的にも価値のある橋なのだ。その下を流れるアミッド大河は、大河の名を持つ通り、広く、雄大だ。「タラヌス川と全然違う」とぼやく私に、アッシュくんは「川幅なんか、ゆうに五倍はありますね」と答える。本当に、五倍、ううん、もっとかも。釣りはできても、泳いだりはできそうにない――。



「お前達は、随分暢気だな」



 その時不意に低く響いた声に、思わず背筋を伸ばした。ミルディン大橋に差し掛かる前まで、私は彼の存在を常に意識し、不必要な言葉をほとんど吐かないようにしていたのだ。その意識は壮大な橋を前にすっかり頭から消え去ってしまっていたのだけど。
 アッシュくんの隣に座ったフェリクスくんは、腕を組んだまま、その榛色の瞳を軽く伏せている。咄嗟に謝れば、彼は小さく鼻を鳴らした。「今から緊張していたら、持ちませんよ」と朗らかに笑うアッシュくんがいてくれなければ、この閉鎖空間は随分重苦しくなったのかもしれなかった。
 アッシュくんと違って彼に軽口を叩けるほど気安い関係を築けていない私は、膝の上に握りこぶしを作ったまま、視線をそこに落とす。イングリットちゃんの婚約者だったグレンさんの弟であるフェリクスくんは、イングリットちゃんが語るグレンさんの面影を、僅かにも持ってはいない。フェリクスくんとアッシュくん、それから私と、武器の乗せられた馬車はそれでもゆとりがあるはずなのに、フェリクスくんがため息を吐くと、ぎゅうと狭くなったような気になった。








 グロンダーズ平原はフォドラ最大の平原だ。
 大部分は農耕地であるけれど、鷲獅子戦の行われる一部分はそれに適さない荒れ地であるらしい。中央の丘には細やかな砦が設置されていて、北に陣を広げる私たちは、そこを奪取するのが第一目標である。
 定刻にはまだ時間があった。剣を腰に差したまま、落ち着かずに辺りを歩く。「川の向こうには渡らないように」と言われているから、疎らに生えた木々の、乾いた土を踏みしめた。岩石の含有が多い地面では、草木もなかなか生えないらしい。
 三学級による三つ巴の戦いが、間もなく始まろうとしている。川の向こう岸、ここから南東の森林地帯にはクロードくんの率いる金鹿の学級が、南西の開けた地にはエーデルガルトさん率いる黒鷲の学級がそれぞれ陣容を整えているはずだ。さらに言うなら、黒鷲の学級は件の、ここからでも良く見える、中央高台にある砦を押さえた状態である(これは先に、話し合いだか、公正なくじだかで決められたらしい。)そこには弓砲台があって、恐らく弓の扱いの得意な生徒がそこから矢の雨を降らすだろうと先生は見ている。矢の雨なんて、もう聞いただけでぞっとしてしまう響きだっていうのに、殿下も皆も、実に落ち着いていた。「あの高台はクロードたちよりも先に叩いてしまおう」と淡々と話し合っているのだった。
 私はフェリクスくんの言う通り、暢気だった。ミルディン大橋を眺めていたあの瞬間だけは。でも、ここに来て緊張している。心配と不安でいっぱいになっている。私が皆の足を引っ張ってしまったらどうしよう。私のせいで負けてしまったらどうしよう。私が何か(良く分からないけど、悪い意味での何か)をしてしまったらどうしよう――。悲観的というよりも、それは全て緊張によるせいに違いない。皆がいるから大丈夫。「不安がらなくても大丈夫」。私の中にあるありとあらゆる「大丈夫」を駆使しても、今日はどうしようもなくドキドキしていた。どうしても皆と勝ちたい、っていう思いが、私を不必要なまでにドキドキさせてしまうのかもしれなかった。



「はぁ〜……」



 木の陰に座り込んで、顔を覆う。地面は乾いていたけれど、土が発する芳醇な香りは、濃く漂っていた。剣の鞘が邪魔で、腰から外してしまう。ごろりと落ちた剣は、今でも私には不釣り合いなもののように思えている。
 鷲獅子戦での勝利って言うのは、名誉であり勲章だ。勿論人によるけれど。遠い親戚のおじさまが、十何年も前の勝利を今でも自慢するように、士官学校最大の行事って考えている人だって多い。よっぽど顔に出ていたのか、「そんなに気負う必要はないよ」と馬車から降りた私に先生は声をかけてくれたけれど、三つ巴っていうのがまた私の頭を悩ませるのだ。だって、黒鷲の学級と金鹿の学級が手を組んだりすることも考えられるわけでしょう? そうしたら、いくら先生も殿下もいる、って言っても、上手く切り抜けられないんじゃないかな。
 膝を抱えて小さくなりながら悩んでいたせいで、私は自分に近づく人の気配に全然気がつかなかった。「」と呼ばれて、それで私は、自分の正面に殿下が立っていることに気がつく。
 慌てて立ち上がろうとしたら、殿下は小さく笑って緩く首を振った。中腰になりかけたけれど、制止されては仕方ない。地面に正座をする私に、「そこまで畏まる必要ないだろう」と笑うから、最後には足も崩した。



「な、何かありましたか!」



 例えば作戦変更とか、開始時間が変わったとか?
 だけど、少し離れたところにいる皆が慌ただしく動いている様子はない。「何もないが……先生が、お前が不必要に緊張していると話していたから」と言われ、思わず目を瞬かせる。生徒一人一人に関する情報共有は必要なんだろうとは言え、知らないところで話題に上っていると思ったら、急に恥ずかしくなってしまった。



「ご、ごめんなさい。ドキドキしてしまって……」

「それは仕方がないだろう。俺も高揚はしている」



 高揚と緊張のドキドキは違う、と思ったけれど、殿下の瞳が思いやるように優しいから、口には出さなかった。殿下は、不意に片膝を地面についた。目線を合わせるためだったのだろう。それに呼吸が止まってしまいそうになった。そんなんだったら、やっぱり私が立ち上がるべきだったのだ。「殿下」と首を振ろうとした私は、崩した足をもう一度正座の形に戻す。立ち上がろうと、一度地面に手をつこうとする。
 だけど。「大丈夫だ」って、殿下は言った。
 そよ風に揺れる木々の影が、殿下の髪に、肩に、疎らな模様を作っていた。その双眸は真っ直ぐに私を見つめていた。思慮深く、穏やかな眼差しだった。私が恋した、殿下の目だった。



「俺がついている……と言っても頼りないかもしれないが、先生もいる」



 唇の端から、「殿下」と、虫の鳴くような声が漏れた。そんな微かな声すら拾ってくれる殿下は、薄く笑って答えてくれる。



「……俺も今節は調子が良いんだ。……だから、安心してついてきてくれないか」



 眩暈がしたのは、姿勢を変えたことで視界に入った、陽の光のせいではなかったと思う。
 顔が酷く熱かった。でも、押さえて隠すにはきっと不自然だった。殿下は、多分、全員にこういう話をして回っているんだ。単なる激励だ。そう言い聞かせた。私にだけじゃない。だからこの熱が、殿下にばれていなければいいと思った。
 立ち上がりかけた妙な姿勢のまま、「は、はい」と言ったら、声は頼りなく裏返った。私の足元には今も剣が転がっていた。思わず握りしめれば、それは思いのほか、私の手に馴染んでいた。


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