「それにしても、まさかが殿下を好きだったなんて」



 イングリットちゃんは長椅子に座ったまま、私ではなくほとんど空を見つめながら、どこか感慨深げに呟いた。人通りの少ない墓地付近とは言え、はっきりと口に出されてしまうと焦ってしまう。



「イングリットちゃん、しー! 内緒!」



 思わず唇に指を当てれば、イングリットちゃんは申し訳なさそうに「すみません」と声を潜めた。飛竜の節の乾いた風は、それでもイングリットちゃんの良く通るきれいな声をそのまま遠くに運んでしまいそうで、ちょっとだけひやひやした。
 イングリットちゃんがガルグ=マクに帰って来たのは、私たちが戻った翌日である、今日の昼頃だ。ガラテア伯から持たされたのだという英雄の遺産(何でもガラテアには他に紋章を持つ人が居ないため、屋敷に置いたままであるよりもイングリットちゃんの身を守るために使ってほしいとガラテア伯に持たされたのだとか)を抱えたイングリットちゃんは、先生と、そこに居合わせたドロテアさんに頭を下げた。
 イングリットちゃんがガラテア伯に今回の件を包み隠さず話した結果、件の同盟貴族との縁談は破談にしてもらえることになったらしい。あれだけの悪事を働く男だ。縁故を結べばガラテアが食い潰されることは目に見えると、ガラテア伯も判断したそうだ。そう報告されて、ドロテアさんは特に胸を撫で下ろしていた。私はそれを、少し離れたところから見ていたのだった。
 イングリットちゃんが私に「少し良いですか?」と声をかけてくれたのは、それから数刻が経った夕暮れ時だ。



「いつからその……殿下に恋を?」



 注意深く、私の耳元にだけ届くように唇を寄せてくれるイングリットちゃんの吐息がくすぐったくて、思わず身を捩って笑ってしまう。でも、笑ったのは、返答に困ったせいもあるのかもしれない。いつから。いつからって言うと、難しい。殿下のことは恐れ多いと言う意味で怖いとは思っていたけれど、最初から(尊敬と言う意味での)好意は持っていたし、ずっと特別だった。春から私の視界のどこかに必ず殿下はいて、その背を追いかけていた。きっと無自覚に、私は殿下のことが好きだった。



「その……好き、ってちゃんと思ったのは、でも……青海の節くらいかも。落ち込んでたときに、勇気づけてもらって……」

「青海の節……そうだったのですか。……全く気が付きませんでした」

「や、その方が安心だよ。知らないうちに周りにバレバレな態度を取ってたとかだったら、私もう、殿下の前に立てない……」

「それは大丈夫でしょう。……ただ私も色恋には疎いので、私だけが気付いていなかった可能性も」

「えっ! どうしよう!」



 思わず両手で頬を押さえて叫ぶ。「いえ、でも本当に、自然だと思いますよ、は」と取りなすように言ってもらえなければ、何日かは挙動不審になってしまっていたかもしれなかった。
 自然。本当に、そうだったら良い。私の思いなんか、密やかに手の平に乗せて、こうしてたまに広げるくらいで充分だ。殿下に伝えるつもりもなければ、何かを望んでいるわけでもない。見返りなんかいらない。身分だって、全然違うんだから。
 もしも私に紋章があるとか、それこそイングリットちゃんのように十傑の家系であるというなら、もう少しこの劣等感も小さくなるような気はするけれど、そんなもの無い物ねだりだ。
 殿下には、もっとなんていうか、美しく、凛とした立ち振る舞いの、立派なおうちの女性が似合う。美しくもなければ何の才能も無い、さらにお父様の後を継がなくてはならない私では、例え天地がひっくり返るような奇跡を起こし殿下の心を射止めるようなことがあったとしても、色んなものが許してくれないだろう。
 残りの半年、こうして傍で殿下のことを見ていられるだけで、私は充分幸せなのだ。
 そういうことを呟いたら、イングリットちゃんはどこか、寂しそうな顔で笑った。沈んでゆく陽に照らされるイングリットちゃんの横顔はどこまで美しく、その唇が慎重に開かれるのを、私はただじっと見ていた。








「グレンさん」



 イングリットちゃんと別れて自室に戻ってから、私は彼女が教えてくれたその人の名前を、そっと舌に乗せた。
 グレンさん。フェリクスくんのお兄さんで、イングリットちゃんの婚約者だった人。清廉で、高潔な騎士だったと言う。子供の頃から、ずっと彼に憧れていた。槍を教えてくれたのも、彼だった。そうイングリットちゃんはぽつぽつと話してくれた。まるで遠い過去のことのように。いや、過去のことなのだろう。なぜならこの世に彼はもういない。
 グレンさんは四年前、ダスカーの悲劇で命を失った。殿下を守り、その命を全うした。損傷の激しい遺体はフラルダリウスに戻らないままだった。空の墓石に花を供えていたのだと言うイングリットちゃんは、「実は実感もそれほどないのです」と、眉尻を下げて笑った。



「まだ、この世のどこかにいるのではないか、私の知らないところで生きているのではないか。記憶を失い、名前を変え、ファーガスのどこかで子供たちに槍を教えているのではないか……」



 殿下がその死を見届けたと聞いているのに、私も往生際が悪いですね。続けられたイングリットちゃんの言葉は、場違いに明るかった。微かな震えすらもなかった。



「ただ、騎士としての務めを果たしたのですから。……立派な最期だったと思います」



 イングリットちゃんは泣かなかった。もう彼女は、そのための涙をもう持っていないのかもしれなかった。ならば尚更私が泣くべきではなかったのに、四年前のイングリットちゃんを思ったら、泣けて、泣けて、仕方なかった。



「私は彼を誇りに思っています。今も」



 イングリットちゃんは、嗚咽を漏らす私に何も言わなかった。ただ、長椅子に置いていた手に、そっと自身のそれを重ねてくれた。大聖堂の向こうに沈んでいく陽が私たちの視界全部を飴色に染めていた。ひんやりした風の匂いも、遠くから聞こえる士官学校の生徒の笑い声も、私の足に頭を擦りつけた猫のやわらかな温度も、感触も、私はきっと忘れないだろうと、そう思った。
 イングリットちゃんがドゥドゥーくんを遠ざけ、ダスカーの民を嫌悪するのは、そういった事情があったためなのだろう。そこにまで話が及ぶことはなかったけれど、そう推察することはできた。私がダスカーの民を差別することなく、むしろ好意的に接しているのを知っていたから、きっとイングリットちゃんは今までグレンさんのことを私に打ち明けなかったに違いない。想像でしかないけれど、そう思う。
 うつ伏せになるように寝台に倒れ込んで、そのまま顔を敷布に押し付けた。声にならない声を出せば、それは唸りになって部屋に響く。
 人の数だけ、信条や思想があって、変えられない過去がある。そこに囚われるのは、けれど悪ではないのだ。それにイングリットちゃんは、それを私に――他者に押し付けることをしない。だからこそ、今までずっと黙っていたのだろう。
 ならば私がすべきことは、これまで通りに振る舞うことだった。これまで通りにイングリットちゃんと付き合い、ドゥドゥーくんと話をし、殿下への好意をひた隠しにして、生活を送る。それは決して難しいことではないだろう。
 殿下への気持ちとはまた別の温度でもって、イングリットちゃんの傍にいたいな、と思った。友人として。半年後、ガルグ=マクから離れ、自分たちの領地に戻っても、彼女の力になりたかった。そう思える友人が出来たことが、嬉しかった。
 今節の終わりには鷲獅子戦がある。それを思い出したら少しだけお腹が痛くなったけれど、先生も殿下も、皆もいるのだ。きっと大丈夫。私も頑張って、少しでも力にならなくちゃ。そのためにも、寝る前にもう一度訓練場に行こうかな、そう思ったのに、ここ数日の疲労が溜まっていたのだろう。身体は寝台の魔力に取り憑かれ、気がつかないうちに瞼が落ちていた。夢にお兄様が出てきたのは、きっと、グレンさんの話を聞いたせいだろう。翌朝目が覚めたとき、敷布が少し濡れていた。


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