お父様の気持ちも、分からないわけではない。
 痩せた土地しか持たないガラテアに長く現われたなかったダフネルの紋章を宿して生まれた私は、ガラテアを蘇らせるため不可欠な存在ではあるのだろう。作物の不作による飢饉、長く続く財政難、先細りする一方のガラテアを救うには、紋章に縋る他ないのだから。
 紋章を欲しがる貴族に私を嫁がせる代わりに、ガラテアへの援助を要求することは間違った判断ではない。ガラテアへの延命措置としては、それは理に適っていると、私も思う。
 お父様は尊敬に値する、素晴らしい方だ。紋章を持たないながらも、大飢饉に見舞われたガラテアをどうにか生き存えさせている。紋章を持つ私と、そうでない兄弟を差別するようなこともしない、公明正大な人。父としても、領主としても、私はお父様を愛していた。だからこそ私は、葛藤していたのだ。己の気持ちと、お父様の望みを天秤にかけて。
 ガルグ=マクへ行ってしまえば、少なくともその一年は縁談を持ちかけられる回数も減るかしら。そんな淡い期待は、けれどすぐに打ち砕かれてしまった。お父様は私への手紙に、いつもそういう類の話を添えてくる。季節に一度、いえ、せめて一節に一度であれば兎も角、酷いときなんか三度も送ってくるのだから、流石に嫌気が差すのも仕方ない。むしろ顔が見えない分、お父様も遠慮がなくなっているんじゃないか、そんな風に勘繰って、場合によっては苛立ってしまいさえする。返事もせぬまま手紙を破いて処分したのだって、一度や二度ではない。



「イングリットちゃん、ご実家からお手紙がたくさんくるんだね」



 他意無くそう口にするの方は、私と比べればずっと、彼女のお父上であるラルミナ男爵から送られてくる手紙は少なかった。一度、失礼とは思いながらも「どんなやりとりをしているのですか?」と尋ねたところ、彼女は「普通だよ。風邪をひいてないかとか、周りに、特に殿下に迷惑をかけていないかとか。私が何か手紙で尋ねても、それの返事が全然ないのが困るけど……」この手紙、もしかして一方通行なんじゃないかって思っちゃうくらいなんだから。にしては珍しく、少しだけ語気を強めていたのが印象的だった。だけどそれについて何か考えるよりも、私は羨ましく思ってしまったのだ。
 には、煩わしい縁談話なんかないのだ。と。
 私だって、これが贅沢な悩みであることは重々承知している。喉から手が出るほど紋章を欲する人間が多い一方で、私は自らが宿したそれに感謝もしながら、それでも時に疎ましさに似た感情も覚えてしまうのだ。もしもこれが私にではなく、兄や弟に発現したものであるなら、何も問題はなかったはずなのに。そうしたら、お父様の苦労を思いやりながら、自らの「騎士になりたい」という夢を掲げて、何も迷うことなく真っ直ぐ生きていられたはずだった。
 だけど、そうでなくとも、もしもグレンが生きていたら、私は自分の夢も、ガラテアの存続も、どちらも叶えることができたのかしら。
 どうしようもない仮定の話だ。すぐに首を振って、頭からそれをかき消した。








 ここ一節、お父様がしつこく送ってきた縁談の相手を、ドロテアは「この人、ろくな男じゃないわよ」と一蹴した。
 相手は同盟領の新進貴族。商人として成功を収めたらしく、ここ最近爵位を受けたらしい。家名に箔をつけるため、王国の貧しい貴族であるガラテアから紋章を持つ私を娶りたいのだろう。多額の持参金を用意するとの申し出があるならば、悪い相手ではないように思う。勿論、ガラテアのことだけを思うならの話だ。
 けれど、ドロテアは首を振った。



「噂の域は出ないけれど、そのお金、綺麗なものじゃないはずよ。家の建て直しのために、そんな男の手を借りる必要あるかしら」



 帝都の歌劇団で歌姫として活躍していたドロテアは、この手の話には耳聡い。その説得力に、思わずたじろいでしまった。
 ベレト先生にこの男性の身辺調査を提案したのはドロテアだったけれど、それを許可する先生も先生だと思う。こんな個人的なことに、どうして皆を付き合わせることができるだろう。けれどここ最近の私を悩ませていたこの件を詳らかにするのに、先生や皆の力を借りる必要があるのは確かだった。
 偶然居合わせた殿下とは、頭を下げた私の申し出を快く受け入れてくれた。それでも、気遣うようなの視線が、少しだけ痛かった。








 は私にとって、ガルグ=マクで初めて出来た友達だ。
 寮の部屋が隣で、読書が好き。のんびりしたところがあるけれど努力家、決めたことはきちんとやり通す気概のある、芯の通った少女。王国南部、ローベ伯領に隣接する小さな領地を持つラルミナ領、その第二子として生まれた彼女は、紋章を持ってはいなかった。



「だから随分のんびり過ごしたよ。お陰で今がすごく大変」



 彼女の手の平はまめの一つもなく、あまり日に触れたこともないだろう肌は陶器のようにつるりとしていた。「もう少し、普段から訓練とかしておくべきだったな」そう独りごちるは、けれど、何か一つでも間違えていなければ、そもそもガルグ=マクに来る必要なんかなかったのだ。彼女はそれに関する話をしないから、実際のところ、それは私の思いこみである可能性も否めないのだけど。
 には兄がいた。紋章を持ち、当主としての資質を備えた人物だった。事故によるものだったと聞いている。それがどういった類の事故であるのかは、詳しくは知らないけれど、それでも彼女もまた、喪失を知っていた。それが私に親近感を抱かせたわけではないと言ったら、きっと嘘になってしまうだろう。
 は、優しい子だった。いつだって公平で、人の痛みを正しく理解できる子だった。だから、もしも私がお父様からの手紙の内容を打ち明けたら、きっと一緒になって悩んでくれただろう。「難しいね。だって、イングリットちゃんは騎士になりたいわけじゃない? 二つを同時に叶える道はないのかな?」なんて風に。それを望まなかったとは、言わない。だけど、それがいつか根を伸ばし、私の隠した箱に触れたとき、私は果たしてその中身を提示せずにいられるだろうか。私はそれが怖かった。
 私にはかつてグレンという婚約者がいたこと。
 彼は四年前、ダスカーの悲劇により命を奪われたこと。
 今尚ダスカーの民を許せずにいること。
 ダスカー人に悪感情を持たないどころか、普段からドゥドゥーを気に掛ける素振りを見せるに、そんなことを話せるわけがなかった。
 私たちは互いに中身の見えない箱を抱えていた。本当はずっと、そのままでいるつもりだったのだ。少なくとも、私の方は。








ちゃんにはそういう縁談話みたいなのはないのかしら?」

「えっ!?」



 ドロテアがにそう話しかけたのは、同盟領内でことが片付き、ガルグ=マクへと帰還するその道中の馬車の中でのことだった。
 少し調査をしただけで、例の貴族の悪事は次から次へと湧いて出た。ドロテアの言う通り、私を娶ろうとしたあの男は多くの同業者を騙し、時には殺してのし上がってきたらしい。それらの証拠を掴んだ私たちを捕らえるために現われたごろつきたちの相手をするのは煩わしかったけれど、雇われの男たちなんて、ここ数節で実戦での経験を積んだ私たちの敵ではなかった。怪我人もないままこうして帰路に就くことができたのは当然の結果とも言えたけれど、それでもには疲労の色が見えていたのは事実だ。「ドロテア」彼女に軽々に話しかけるドロテアに窘めるように声をかけたとき、けれどは私のそれよりも大きな声で「そんな、そんなのは全然!」と首を振った。



「うちは小さな領地ですし、私自身に紋章もないので……」

「そうなの? でもちゃん、とっても可愛いじゃない。私が男だったら放っておかないんだけどなあ」

「か、可愛い? そんな、そんなこと言われたことないです、もう、ドロテアさん、やめて」

「ふふ、真っ赤になっちゃって。ねえ、じゃあ好きな男の子はいないの? お付き合いしたいなあって思ってる人とか」

「ええ、い、いや、そんな、ないです、ないです全然」

「……ドロテア、あまりをからかわないでください」

「やだ、グリットちゃん。拗ねちゃった? グリットちゃんも可愛いわよ。可愛いし、かっこいいし、それにとっても素敵」

「わかります、イングリットちゃんはかっこよくて可愛くて、素敵」

「…………」



 二人とも、性格や趣味嗜好は真逆にも思えるのに、こうして私と仲良くしてくれていることが不思議だった。「ね〜」と顔を見合わせて微笑み合う二人に、こっそりこめかみを押さえる。生まれも育ちも違う二人は、案外話が合うらしい。
 馬車の外はとうに薄暗くなっていて、このままいけばガルグ=マクに明朝頃着くことになるのだろうけれど、私は一度お父様に今回の件を話すため、ガラテアに一人立ち寄ることになっていた。この顔触れで馬車に乗ることになったときは少し心配したけれど、この様子ならば私がいなくなっても問題はないだろう。いずれにせよ、ドロテアもも、早朝から活動しているためにもうそのまま瞼を落としてしまいそうだけれど。
 二人はそれからも私を交え会話を続けていたけれど、ガラテア領に差し掛かった頃、ドロテアが先に寝息を立て始めた。「寝ちゃったみたいだね」と呟くは、先ほどよりも幾分か声音がはっきりしている。



「ドロテアさん、話しやすくてびっくりした。一度お話がしてみたかったの。イングリットちゃんのおかげだよ」

「私のおかげだなんて……そんなことはないですよ」

「ううん。楽しかった……あ、でも楽しかったなんて言ったら、今回大変な目に遭ったイングリットちゃんに失礼だね」

「気にしないでください。私としては、一つ厄介に思っていたことが解決して良かったですし。こそ、付き合ってくださってありがとうございました」



 は微かに笑いながら首を振る。それからは、しばらくの間黙り込んでいた。星明かりの照らす見知った道が、領都が近いことを知らせている。そろそろだ、こんな夜更けになってしまったから、お父様とお会いできるのは明日になるだろう。その間にガルグ=マクへの馬車も準備してもらわなくては。
 荷物を軽く整理しながら、向かいに座るドロテアの膝から落ちかけた毛布に手を伸ばしたそのときだった。が意を決したような声色で、「あのね」と囁いたのは。
 彼女の方に目線を送る。は薄闇の中、私のことをじっと見つめている。
 私たちは、互いが互いの全てを打ち明けているわけではない。は私がどうしてドゥドゥーを避け、ダスカー人を憎んでいるかを知らないし、私もがどう彼女の兄の死と向き合っているのかを知らない。踏み込もうとしないは、賢明だ。だけど、の手が私の手に触れたとき、それが私の輪郭を手探りで探るようなものに思えた。「さっき、好きな人はいないって言ったけど」柔らかい声だった。私はそれが、嫌だとは思わなかった。



「私、本当は殿下が好きなの」



 領都の灯りが近づく。馬車が速度を落とし始めている。寒々しく見慣れた街並みの中、私はそこにグレンを見る。



「好きなだけで、どうにかなりたいなって思ってるわけじゃないんだけどね」



 小さく首を傾げて、はにかむように笑ったは、黙ったままの私の言葉をそのまま封じ込めるように「それだけなんだけど」と、少しだけ声を張り上げた。



「もう着いちゃうね。じゃあ、いってらっしゃい、イングリットちゃん。ガルグ=マクで待ってるね」



 館の前に馬車が停められたのを確認して、が微笑む。私は、何か気の利いた言葉を言わなければならなかった。時間がないなんて言い訳だった。だって、は恐らく私の抱えた蟠りの正体を感じ取った上で、敢えて打ち明けてくれたのだ。は、私に選択肢を与えた。その上で私を見送る言葉を口にする彼女は、私がどちらの選択肢を選んでも良いのだと、暗に伝えている。



「…………帰ったら」



 言いかけた言葉が、一度喉のあたりで引っかかった。グレンの横顔が脳裏を駆け巡る。私を認めてくれた人。いつか私を妻と迎えてくれるはずだった人。今も彼が特別だなんて、もう、誰にも言えない。
 それでも、と思った。



「帰ったら、話をしましょう、



 御者が扉を開ける。懐かしい風の匂いに、喉が痛む。随分と肌寒い夜だった。あと何節かすれば、ガラテアにも雪が降る。



「私もあなたに話したいことが、たくさんあるんです」



 その言葉に、は一度、大きくその目を瞬かせた。
 返事を待たず馬車を降りた私の背に、が「うん、約束」と声を張るのを聞く。
 話したいこと、ずっと打ち明けたかったこと、それでも口にすればを苦しめてしまうかもしれないと思っていた、すべて。だけど彼女は、受け入れてくれるだろうと思った。私の手を取って、一緒に泣いてくれるような気がした。ダスカー人を憎む私を、責めずにいてくれる気がした。
 このままガラテアに残るのが、惜しいと思ってしまう。振り返った瞬間、御者の手により扉が閉められる。この位置からでは、もうの顔は闇に飲まれて、輪郭すらも見えない。
 短く挨拶をする御者に小さく頭を下げた後、遠ざかる馬車をいつまでも見送った。夜の空気に晒されながら、けれど、胸の内側はいつまでも温く熱を持っていた。


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