セテス様が開催したと言う釣り大会によって釣り上げられた大量の魚は、食堂で数日の間私たち生徒に提供されたけれど、それでも食べきれないものに関してはほとんどが日持ちする干物として処理されていた。お魚の料理は好きだし、毎日出されても苦では無いけれど、食堂が近いせいで寮の部屋の中にまで魚臭さが漂ってくるのには少しだけ参ってしまった。イングリットちゃんは、「匂いが部屋まで来るので、お腹が空いて困ります……」と私とは別方面で悩まされているみたいだったけれど。
イングリットちゃんは、件の釣り大会にも参加していたらしい。朝、教室へと向かうまでの道中、不意に「ベレト先生が優勝したんですよ」と教えてくれた。そうか、大会と銘打ってるくらいだから、勝者がいるんだ。「それって釣り上げた数? 大きさ?」と尋ねれば、イングリットちゃんは「大きさですね」と神妙にも見える面持ちで小さく頷いた。
「私はそんなに大きいものは釣れなかったのですが……。アッシュは私よりも立派な魚を釣り上げていましたよ」
「そうだったんだ。私も通りかかったけど、イングリットちゃんたちがいるのは気がつかなかったなぁ。二人がいるなら、私も混ざったら良かった」
「は釣りの経験は?」
「うちの領地はほら、川が流れてるでしょう?」
「ええと……そうでしたね。確かタラヌス川が」
「そうそう。だから川釣りだったら連れていってもらったことがあるの。小さいときだけどね」
厳密に言えば、釣りに必要な準備は全部お父様とお兄様がしていたし、私なんかは獲物のかかった釣り竿を持ったお父様に呼ばれて、その背を支えられるようにしながら釣り竿を握っただけだ。あれを「釣りの経験がある」と言って良いのかは甚だ疑問ではあるけれど、それでもあの日釣り上げた魚のあげた飛沫も、太陽の光に煌めいていた水面も、水を被って悲鳴をあげた私を笑ったお兄様の眦も、全部、全部覚えている。今となっては懐かしくも、良い思い出だ。
「へえ」
その時、不意に背後から短い声が聞こえた。
私たちの会話への相槌のようにも響いたそれに振り向いたけれど、そう感じたのはイングリットちゃんもだったらしい。ほとんど同時に背後を見た私たちの前にいたのは、クロードくんだった。
「二人とも、釣りなんか嗜むんだな」
「嗜む……」
「ああ、いや、言い方が悪いか。そういう風には見えなかったからさ。褒めたつもりだったんだ。気を悪くしたなら謝るよ」
眉尻を下げたクロードくんに、慌てて首を振る。私のは嗜みとも言えないものだ、そう思っただけで、気を悪くしたつもりなんかなかったから。
「謝るなんて、そんな。それに私、連れていってもらったことがあるくらいで、一人で釣りをしたことがあるわけじゃないの。だからクロードくんが褒めるのは、イングリットちゃんだけだよ」
同意を求めるようにイングリットちゃんに顔を向けたら、彼女は当然のように私たちの隣について歩くクロードくんを横目で見た後、私へと視線を落とし、その唇をそっと耳に寄せた。「。あなたはこんな男と付き合いがあるのですか?」耳打ちした割りに、クロードくんにも届くくらいのはっきりとした声量だった。棘を含んだようなその言い方は一度置いといて、イングリットちゃんこそ、クロードくんと面識があるなんて知らなかった。けれど私が何か言うよりも先に、私の右隣を歩くクロードくんが口を開く方が早い。
「おいおい、俺を捕まえて『こんな男』とは随分ご挨拶だな」
「不真面目を絵に描いたような人間じゃないですか。生徒の模範となるべき立場でありながら、品性の欠片もない上に口を開けば出任せばかり……。いいですか、。彼と付き合うなとは言いませんが、クロードの言葉は間に受けない方が良いですよ」
「いやいや、お前が真面目すぎるんだろ、イングリット。世の中いろ〜んな人間がいるんだ。もっと大らかに構えた方が得だと思わないか?」
「そうでしょうか? あなたと関わったら損することの方が多いような気がしますが……」
「意外。二人とも仲が良いんだね」
「良くありません!」
「うわ、傷つくな……」
それでもイングリットちゃんの表情はくるくる動いて、私はそれを見ていると、安心してしまう。
イングリットちゃんは否定するけれど、こうして二人の話を聞いていると、違う学級の生徒同士であることが不思議なくらい、二人は遠慮のない関係であるように思えた。既視感があるな、と思ったけれど、イングリットちゃんがシルヴァンくんを叱るのと、ちょっと似ているのかもしれない。のらりくらりと躱すクロードくんは、その口元にいつまでも笑みを携えている。
前節ダスカーに向かってからというもの、イングリットちゃんは少し元気がないように見えたけれど、こうしていると彼女は普段通りのイングリットちゃんだ。釣り大会のおかげもあるかもしれないけれど、それでも心の中でクロードくんにお礼を言う。学級の外の人と関わるって、なんて言うか、私たちではどうもしきれない蟠りのような毒素を、多少なりとも排出できるものだと思う。
イングリットちゃんがちょっとでもいつもの調子を取り戻せたなら良かったな。二人の歩幅が私のものよりも広いせいか、いつの間にか一歩二歩程度遅れてしまっていることに気がついたけど、視界に入る二人の肩は何だか新鮮で、それを見ているだけで嬉しかった。
イングリットちゃんの表情がまた翳り始めたのは、けれど、それから数日も経たない頃だった。
理由は判然としない。ダスカーに関わる諸事は、恐らくイングリットちゃんの中でそう簡単に解決する問題ではないだろう。例え前節、あの反乱に関して殿下や先生がダスカー兵を救うための策をとったことに思うことがあったとして、半月近く経った今イングリットちゃんがそれを理由に落ち込むというのは考えにくかった。ならば他に何があったって言うんだろう。
イングリットちゃんはぼんやりしていることが増えた。食事はしっかり摂っていたけれど、食べるのが遅くなった。課題の提出を忘れていたのも彼女にしては珍しかったし、名前を呼ばれても一度では振り向かなかった。
イングリットちゃんから打ち明けてくれるのを待つべきか、それともそれとなく尋ねてみるべきか。ガルグ=マクに来るまで、同年代の女の子と長く一緒に過ごすという経験がなかったせいで、そういうものの塩梅が私には良く分からない。聞いてみても良いのだろうか。でも、私が下手に踏み込んで、イングリットちゃんを困らせてしまったらどうしよう。そうでなくてもイングリットちゃんは、私には一歩引いたところがある。そう思うときが、実はある。
夕方の教室、イングリットちゃんと先生、それから黒鷲の学級の、歌姫と名高いドロテアさんが話しているのを偶然見かけたのは、それからさらに数日が経ってからだった。
ドロテアさんは、暗い表情のイングリットちゃんを心配そうに見つめながら、その手を取っている。それを見て、イングリットちゃん、ドロテアさんと仲が良かったんだ、って、恐らくイングリットちゃんが私とクロードくんに思ったのと同じくらいの衝撃を受けてしまう。教室に忘れ物を取りに来たというのに、何だか入るに入れなくなってしまった。何食わぬ顔で「どうしたんですか?」って入って行く時機を、私はもう見失っていたのだった。
手紙。縁談。同盟領の新興貴族。ダフネルの紋章。持参金。相手を知っているけれど、あれはろくな男じゃない――。
そういう単語が、途切れ途切れに耳に入ってくる。ああ、どうしよう、盗み聞きなんて、本当に趣味が悪い。でも、これらの言葉を繋ぎ合わせれば、イングリットちゃんがどうしてここ数日暗い顔をしていたかの想像がつくのも事実だった。こうして耳に入れてしまったことに後ろめたさを覚えてしまうなら、早く立ち去るべきだったのに、と後悔もしてしまうけれど。
その時、肩に何かが触れた。
「、そんなところで何をしているんだ?」
「ひっ!?」
「先生。この相手の男のことを、きちんと調べに行きませんか?」
私が後ろから声をかけられて悲鳴をあげたのと、教室にいたドロテアさんがベレト先生に向かってそう言ったのは、ほとんど同時だった。それでも私の声が一際響いたものだから、教室の三人の視線が、真っ直ぐこちらに突き刺さる。イングリットちゃんが「!」と私の名を呼ぶのが、居たたまれなくて、どうしようもない。
私に声をかけてきた人物――殿下は、その状況が上手く飲み込めなかったのだろう。「……邪魔をしてしまっただろうか」と、困惑した声音で口にする。邪魔は、どうだろう、してしまったと思う、でも、それで言うならば盗み聞きをしていた私の方が罪深いし、そもそも邪魔をしたのは私の悲鳴だ。
ベレト先生は、けれど殿下のそれには答えなかった。「ちょうど良かった。ディミトリ」そう口にする先生の声は相変わらず抑揚に薄く、なのにびっくりするくらい、良く通る。
「課外授業だ。明朝同盟領へと向かうと、皆に伝えてもらえないだろうか」
明朝。私の背後で、殿下が復唱する。顔色を変えたのはイングリットちゃんだ。
「……構わないが、随分急だな」
「先生、私はそんな……!」
「グリットちゃん、こういうときはね、すぐ行動に移した方が良いのよ。身辺を調べるついでに、破談にしてやりましょ」
勿論私もついていくわ。マヌエラ先輩も首を横には振らないでしょう、と。そう言って微笑むドロテアさんに、イングリットちゃんは眉尻を下げ、それから考え込むように視線を下げた。
手紙。縁談。同盟領の新興貴族。ダフネルの紋章。持参金。相手はろくな男じゃない。
さっき耳にしたばかりの単語が、いつまでも耳の中で反芻してやまない。イングリットちゃんはやがて「そう……ですね、わかりました。よろしくお願いします、先生、ドロテア」と歯切れ悪く頷くと、私と殿下の方に顔を向け「殿下とも、鷲獅子戦前の大事な時期だというのに、付き合わせてしまって申し訳ないです」と頭を下げた。どう答えたら良いのか分からなくて、私はただ首を振る他なかった。