「ああ、。もう身体は大丈夫なのか?」
「でっ」
殿下に声をかけられたのは、ダスカー地方からガルグ=マクへと戻って来た数日後のことだった。
士官学校に帰ってから改めて適切な処置はして貰ったとは言え、毒の回った身体は本来の調子を取り戻すのに時間を要して、結局二日ほど授業を休んでしまった。それで、復帰する日は少しでも早く教室に行っておこうといつもより早く寮を出ようとしたところ、丁度自身の部屋の方から歩いてきたらしい殿下と出くわしたのだ。
殿下は恐らく、他に何か用事があるのだろう。そうじゃなければ、こんな風に早く寮を出る必要なんかないもの。部屋の扉を開けてすぐに顔を合わせるになるなんて、と梳かしたばかりの髪が乱れていないか気になって、そわそわと頭に触れてしまう。殿下は髪も、制服も、級長を示すその外套も、靴の先までだって、いつも整っていて、きれいだ。
「寝ていなくても良いのか?」
「は、はい。えっと、もうすっかり良くなりました」
「……良かった。イングリットからも様子は聞いていたが、顔を見られて安心した」
イングリットちゃん!
この二日、食事や薬を届けてくれたイングリットちゃんには、寝間着にぼさぼさ髪の姿を惜しげも無く披露していたことを思い出して、お腹のあたりがひゅ、となる。だけど普通に考えたら、そんなことを殿下に教えるはずもないだろう。「そ、そうなんですね」としどろもどろになりながら、殿下と一緒に外へと続く階段を下りていく。数日間寝込んでいた身体は、毒の影響が残っているのか、そうでないのか、まだ少し重い。
「殿下。その、ご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」
課題やそれに類する遠征の後にお休みをもらうのは初めてではなかった。しかも、今回は明らかに気を抜いていた私の失態だ。こんな調子で呆れられてはいないだろうか、と恐る恐る殿下に視線を向ける。そうしたとき、ひんやりとしたガルグ=マクの風が頬を撫でた。飛竜の節。そういえば、もう一年の半分が終わってしまったんだ。こんなときにそれに気がつく。空は一層白んでいて、夏と比べればずっと緩やかな日差しに、けれど思わず目を細めてしまう。空気の匂いが、私が部屋に閉じこもってる数日の間にまた少し変わってしまったみたいだと、頭の端で考える。
殿下は私から視線を外すと、目を伏せて笑った。その整った横顔に目を奪われてしまう。色素の薄い睫毛は長く、光の粒子が散らばっているみたいだった。
「心配はしたが、迷惑はかけられていない」
その言葉に、どれだけ脳を揺さぶられたような思いがしただろう。
「……で、でも」
「も真面目が過ぎるな」
でも、それは殿下もじゃないですか。
言いかけた言葉は、流石に喉のあたりで飲み込んだ。
殿下は真面目だ。私なんかよりもずっと。色んなものをその肩に背負って、抱え込んでいる。ダスカーの悲劇についてもそう。彼はダスカーの民、ファーガスの国民双方が抱える憎悪を一人でどうにかしようとしている。そんな重責、私だったら一日だって抱えていられない。殿下はすごい。年だって、私と一つしか変わらないっていうのに。殿下が抱えたその荷物を、少しでも誰かに渡してくれたら良いのに、殿下はそういうことをしない。きっと、これからも。
じっと見ていたら、殿下と目が合った。
「どうしかしたか?」
そう首を傾げられて、慌てて首を振る。こんなに真剣に心配しても、そうやって穏やかな声で話しかけられるだけで胸の内側に熱が籠もるんだから、私も大概だ。
寮の建物に沿うように教室へ向かって歩いていたら、途中で金鹿の学級の男の子と出くわした。「おお、ディミトリくんじゃねえか!」と親しげに殿下に声をかける彼の大きな上背を見ながら、私はどうしたら殿下の、そしてドゥドゥーくんに力になれるかを、じっと考え込んでいる。
飛竜の節となる今節は、士官学校でも一大行事となる鷲獅子戦が行われることになっていた。
帝国領グロンダーズにて行われる、学級対抗戦だ。大樹の節に行われたものよりもずっと大規模なもので、三つ巴の戦いが繰り広げられることになる。通例では担任もそこに参加することになっているらしいのだけど、今回は前節の件でまだ無理をできないマヌエラ先生と、ハンネマン先生も不参加を決めたとのことだった。
ベレト先生はと言うと、マヌエラ先生たちとの話し合いの末、予定通り参加することにしたらしい。マヌエラ先生たち曰く、「自分たちが出なくても、生徒には教えるべきことは教えてあるから大丈夫」なのだとか。他の学級の生徒には不平等と思われてしまうかもしれないけれど、これにはほっとした。やっぱりベレト先生が傍にいるといないとじゃ、安心感が違うから。
グロンダーズ鷲獅子戦は、この半年あまりの成果を内外に伝えるためのものだ。伝統的な行事で、生徒の親が見学にくることも珍しくはない。先日お父様から頂いた手紙に、公務が忙しく見学には行けないという旨が書かれていたことは、記憶に新しかった。
勝者としての栄誉は士官学校を卒業してからも続く。社交界に出れば今でも過去の勝利をその口に上らせる人がいるくらいなのだから、学校中にその盛り上がりが伝播しているのも頷けるだろう。
一方で私はというと、周囲の高揚についていけず、緊張のあまりずっとお腹の痛みを感じるような人間だった。
先生から「鷲獅子戦」という言葉を聞いてから数日、私は何をしていても落ち着かない。いくら課題やその他の課外授業で武器を持つ機会が増えたとは言え、最近の自分を振り返ったところで、何か活躍をした試しはないのだ。直近で毒矢に射られたのが、元々手の平に収まる程度しかなかった自尊心をさらに小さくさせたのだろう。お父様が見学に来られないことに、ここに来て心底安心している。もしも来られるようだったら緊張が二乗三乗になって、まともに動けなかったと思うから。
鷲獅子戦で、皆の足を引っ張らないでいられるかな。
頑張れるかな。
…………本当に大丈夫かなあ。
フレンちゃんのため、セテス様が突発的に開いたらしい「釣り大会」とやらも遠巻きに眺めつつ素通りして、私は緊張を紛らわせるため、一人教室前の長椅子に座り細く長く息を吐いていた。休日のこの日、人気はこのあたりにはなく(恐らく釣り池が賑わっているせいもあるだろう)いつもに比べれば、ずっと静かだった。目と鼻の先である訓練場から、人の声や武器のぶつかる音が響いているくらいで。
思い悩む暇があるなら剣を持て、ってフェリクスくんだったら言いそうだけれど、生憎私は身体を動かしていてもな悩みが解消されない種類の人間だ。こういうときは経験上、ちょっと気を落ち着かせてから、武器を振るくらいが丁度良い――。
ため息を吐ききってから、両手で頬を叩く。思ったよりも小気味良い音が響いて、自分でもちょっとだけびっくりしてしまった。
熱を持つ頬をそのまま両手で挟み込みながら、先生が前に私に言ってくれた言葉を思い出している。「不安がらなくても大丈夫」って。それを思い出す度、私は自分の背中に乗っかった小さな石を、一つずつ袋に入れて、安全な場所に片付けているような感覚になっている。それがどれだけ私の心を軽くしてくれているのかを、先生はきっと、知らないのだろうけれど。