吐いた息が熱くて、視界は物凄い速さで点滅を繰り返していた。
起き上がらなくちゃって思うのに、身体がちっとも言うことをきかない。背中の痛みは今痺れに変わっていて、指先が微かに動かせるだけだ。
毒矢かもしれない。
浅い呼吸を繰り返しながら、そんな考えがちらりと脳を掠める。ドゥドゥーくんに加勢しなければいけないっていうのに、どうしてこんなときに。気を抜くなって言われたんだから、本当に、最後まで周囲の気配に敏感になっておくべきだった。
歯を食いしばり、小石が膝や手の平にめり込んでいく感覚を覚えながら、起き上がろうと身体に力を込める。どうにか四つん這いになれたとき、背中に腕を回して、手探りで弓矢を引き抜いた。私の血とは別の液体が混じり合った鏃を見た瞬間、思わずそれを投げ捨てる。遠くに投げるようなそんな力もなくて、それはすぐ傍に落ちただけだったけれど。身体に広がっていく痺れと倦怠感に、薄らとした吐き気を覚えた。少し頭を動かしただけで、視界が回った。なんてことはない、身体を支えていられなくて、そのまま仰向けに転がってしまったのだ。
薄い色の空が視界に広がる。耳の中に膜が張られたみたいに、自分の喘ぐような呼吸音が籠もって聞こえる。乾いた空気が喉に張り付いて、ともすればそのまま咽せてしまいそうになる。地面に押し付けられる形になった背が、ただ熱い。
「ぐ……っ」
私の足元の方で、ドゥドゥーくんのものとは似ても似つかない男性の悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。それから、斧ではない、もっと軽い武器が地面に落ちる音も。
敵兵は一人だったらしい。弓を持っていた相手であるなら、距離を詰めてしまえばドゥドゥーくんの敵ではないだろう。「今ならお前も見逃してやれる。……早く退け」と言うドゥドゥーくんの低い声が、籠もった耳に途切れ途切れに届いた。
遠ざかる、足を引きずるような音を聞きながら、私は霞む視界の中、ドゥドゥーくんの顔を見た。一瞬意識が遠のいてしまっていたのか、彼が私の傍に膝をついたことにも気がつかなかったらしい。彼は、私を覗き込んでいた。いつも表情筋を動かさないドゥドゥーくんは、今も、そこに何の感情も乗せていない。私を見て焦りもしなかったし、怒りもしなかった。けれど、どこかその眼差しが、哀しみをたたえているように見えた。ひゅう、と、吸った呼吸が微かな音を立てる。
「大丈夫か」
ドゥドゥーくんの声は、抑揚がなかった。
「……恐らく、毒矢だろう。ここにいるよりも、フレンの元まで戻った方が早い。……立てるか。無理なら言え。抱える」
「ごめんなさい」
自分が想像していたよりも、もっと、掠れた惨めな声だった。
ドゥドゥーくんの瞼が、ぴくりと動く。
「……ごめんなさい、足を引っ張ってしまって」
痺れた手足はもうほとんど自由に動かせなかったけれど、口だけは別だった。だから、良かった。何も言えないよりは、ずっと良かった。視界が徐々に滲んで、私はそれで、自分が泣いていることに気がついた。最悪だ。こんな目に遭って、心細くなってしまって、「ごめんね」と告げた途端に、解れかけていた心を自分自身で一気に割いてしまった。
ドゥドゥーくんには、だって、謝ることしかできない。
「何もできなくて、ごめんなさい」
空回りして、距離感がおかしくて、何が正解か分からない。ドゥドゥーくんを恨む人たちに、はっきりと文句も言えなければ、イングリットちゃんが抱えた蟠りをどうにかしてあげることもできない。ドゥドゥーくんの望むことと、私はいつも、真逆のことばかりしてしまっている気がする。ドゥドゥーくんの気持ちに寄り添えないまま、私がしていることといったら自分の感情の押し売りだ。「おれとはあまり話さない方が良い」と私を拒絶するドゥドゥーくんに、私はこうして近づいてしまう。迷惑をかけてしまう。殿下みたいに、何か力になりたいのに、何もできない。
繰り返し謝る私に、ドゥドゥーくんはややあってから、小さな声で呟いた。「どうしてお前が謝る」って。ドゥドゥーくんの胸元は、返り血で汚れていた。本来であれば、彼が被らなくても良いはずの血だった。「だって」と呟いた声が、歪む。ファーガスの南部、王都からは遠い小さな領土で生まれ育った私だから、こんな風に簡単に言えるんだろうけれど。
「……だって、本当はダスカーの人たちは、何も悪くないんでしょ」
だったら尚更、私はあなたの力になりたかった。って。
そのときであっても、ドゥドゥーくんは表情を変えたりしなかった。ただ、そうと分からないほど、微かに目を開いただけだ。
国王殺しの罪を着せられたダスカーの民。土地を追われ、家族や友人を殺され、何もかもを奪われた。ドゥドゥーくんの唇が、何かを発しようとして、躊躇うように閉じられる。血の巡る音がばくばくとうるさいくらいに頭に響いていて、耳障りで、仕方ない。
瞼を開けていられなくて閉じた瞬間、背中と膝の裏に、腕が差し込まれたのが分かった。ダスカーの白んだ空は、瞼を閉じていても眩しいくらいだった。「殿下は」と、身体に浮遊感と微かな衝撃を覚えた直後に、ドゥドゥーくんが言う。
「殿下は、約束してくださった。ダスカーの民に……おれたちに、居場所を作ると」
それは私の言葉への、肯定を意味していた。目を閉じたまま、「うん」と言う。短いその声だけは、掠れも震えもしなかった。きっと、真っ直ぐドゥドゥーくんの耳にも届いたはずだった。
「おれはあの方を、信じている」
うん、うん、と、私は泣きながら、何度も口にする。
殿下だったら、きっと絶対、何とかしてくれる。だって、今日だってこうしてダスカーの民を守ったんだもの。それがどれだけドゥドゥーくんにとっての希望になったか。ドゥドゥーくんの気持ちを考えたら、胸がいっぱいになった。喉や鼻が痛んで、どうしようもなかった。
指先の震えを誤魔化すように、ゆっくりと息を吐く。大股で歩くドゥドゥーくんの腕の中は温かくて、包みこまれるような安心感があった。力が抜けていくのは、身体に回った毒のせいだろうか。「」と呼ばれたことまでは、覚えているんだけど。
「すまなかった」
お前の厚意を、おれはいつも無碍にした、と。
ドゥドゥーくんがそう呟いたのは、夢だったのだろうか。
意識を失ったらしい私は、それがきちんと分からない。
私はその後、こちらに向かっていたフレンちゃんの手によって毒を取り除いてもらうことになる。気を失っていたおかげで、その時のフェリクスくんの反応を見ずに済んだのは良かったけれど、間違いなくため息は吐かれたことだろう。
殿下たちの向かった南の方でもほとんどのダスカー兵が撤退し、王国軍も本隊が合流するまでもなく撤収を終わらせたとは、後になって聞いた話だ。
多くのダスカー兵が生き延びたけれど、失われた命は確かにあっただろう。それでも、何もせずにいるよりは良かった。
「今日失われてしまった彼らの命にも報いたいと、そう思うよ」
帰りの馬車の中で目を覚ました私は、同じ馬車に乗っていた殿下とドゥドゥーくんが何か話をしているのに気がついたけれど、そのまま眠ったふりをした。閉じた瞼の裏で、殿下が息を吐いた音が聞こえた。それが少し、自嘲混じりだったのを、私は確かに覚えている。