ダスカー地方へと向かう馬車の中、私はアッシュくんと隣り合って座っていた。
セイロス騎士団が手配した馬車は広く、私とアッシュくん、それからメルセデスちゃんとアネットちゃんが座っても、充分なゆとりがあった。けれど、そんなゆとりがあっても私の心は落ち着かない。そろりと視線を外に向ける。月明かりがあるとは言え外はもう夜の闇に飲まれていて、今私たちがどのあたりを走っているのかは、もう見当もつかなかった。
「……今って、どのあたりなんだろうね」
少し前から眠っている二人を起こさないよう、小さな声で隣のアッシュくんに耳打ちする。元々外を眺めていたアッシュくんは、「朝にはダスカーに着くと言ってましたし、イーニッド領あたりじゃないでしょうか」と、目線をこちらに寄越した上で、やっぱり小声で返してくれた。恐らく何の意識もなければ他意もないだろうとは言え、クレイマン領ではなく、ダスカーと呼ぶ彼に、ちょっとだけほっとする。アッシュくんは、ドゥドゥーくんを気に掛ける素振りを見せる人だった。
昼間、殿下はレア様に教団が派遣する兵に青獅子の学級を加えてもらうよう願い出た。レア様も王国領内で起きた反乱である以上、そういった申し出が殿下よりあることは見越していたのだろう。青獅子の学級が騎士団に加わることを、快く了承してくれたらしい。
一方で、事情を聞いたらしい先生も同行の許可を出してくれた。こういうときにそれを拒む先生ではないと分かっているとは言え、これには私も胸を撫で下ろした。
ダスカーの民が起こした反乱を止めに行く。
殺すわけではない。私たちは彼らと交戦するふりをしながら、戦場からダスカーの民を逃がす。撤退させ、彼らを生き延びさせる。四年前、彼らが命を失うに至ったのと同じ轍を踏まぬよう。
イングリットちゃんは殿下と先生の言葉を、唇を引き結んで聞いていた。何も言わなかった。目線をそうと分からないくらいに落としたイングリットちゃんは、まるで何かを自分に言い聞かせているようにも見えた。
「、寒くないですか?」
「あ、うん。毛布もあるから……」
それならよかったです、って、穏やかな声色で微笑むアッシュくんに、私も笑みを返す。そうしながら、ふと考えた。
アッシュくんは、イングリットちゃんがどうしてあそこまでダスカーの民を毛嫌いするのかを知っているだろうか。
アッシュくんとイングリットちゃんは波長が合うらしく、良く二人で話し込んでいるのを見かける。授業のことでなければ、大抵が過去に読んだ本に関することで、時折私を手招いて、感想を話し合うこともあった(残念ながら、私は彼らのように文章を諳んじられるほどには騎士道物語を読み込んではいないため、大抵は相槌を打つのみだったけれど。)そんな彼だったら、ひょっとしたら、って思ったけれど、でもそれで、私はどうするんだろう。第三者から彼女の傷を見聞きして、同情するのだろうか。訳知り顔で、寄り添おうとでも言うのだろうか。そんなこと、できるわけがない。
清廉で、真っ直ぐな騎士道精神を持つイングリットちゃんだ。恐らく何か、よっぽど大きなことがあったんだと思う。自分の半身を抉られるくらいの何かが。けれど、いくら想像したって答えなんか出なかった。イングリットちゃんのご兄弟の話は聞いたことがあるけれど、亡くなったとは聞いていないし、ガラテア伯だって現役なんだから。そういうことを脳内で考え続ける私は、よっぽど趣味が悪い人間であるように思えた。人のことをあれこれ想像して、それで分かった気になろうなんて、傲慢だ。
「……アッシュくん」
膝にかけられた毛布の端を握りながら、そっと彼の名前を呼ぶ。アッシュくんは木々の奥に見え隠れする月を見上げながら、「今日はすごく夜空が綺麗ですね」と、ほとんど独り言のように呟いた。それが、私の彼を呼ぶ声をかき消してしまって、けれど私はもう言い直すことなく、それに小さく頷いた。
アッシュくん。飲み込んだ言葉を、口の中だけで繰り返す。
アッシュくんは、ダスカーの人たちを恨んでいる?
ダスカーの人たちがいなければ、クリストフ兄様はダスカーの悲劇に加担することなく、その罪で処断されることもなかった、って思う?
石でも踏んだのか、馬車が大きく揺れる。声が漏れそうになるのをどうにか飲み込んで、毛布を引き寄せた。眠気は全然なかったけれど、「私もそろそろ寝るね」と目を閉じれば、眠気は脳の端っこから、紙に水を浸すみたいに、じわじわと私のことを飲み込んでいった。
眠りに落ちる寸前、私は誰かの影を瞼の裏に見たような気がした。
戦場は、ダスカー地方――クレイマン子爵が治める領地の南にある山岳地帯にあった。
角弓の節の終わるこの時期は、流石にまだ雪が降ることはないけれど、早朝なのも手伝ってか、空気が冷えて乾燥している。なだらかな斜面は木々があまりなく、開けていた。身を隠す場所がほとんどないこの場所では、遠目からでも戦いの様子が良く分かる。
クレイマン子爵からの救援要請を受けて駆けつけたのだろう王国軍は、既に先遣隊が到着していたらしい。教団の先遣隊と共にダスカー兵を相手取って戦い始めていたようだったけれど、地の利があり、散らばるダスカー兵を相手に手こずっているようで、連携が上手く取れているとは言い難かった。指揮系統が統一されているか、どちらかに優秀な指揮官でもいればまた戦況は大きく違っていたのだろうけれど。
「頭の痛い話だが、今回はむしろ好機か……」
それでも、このまま放っておけばダスカー兵が殲滅されるのは時間の問題であるのは明らかだ。
「……兵士の練度が全く違うね」と先生が微かに首を傾げながら口にする。そりゃあ、故郷を追われ、散り散りになった彼らダスカーの民が訓練されたファーガス王国の騎士たちに敵うことは、いくら慣れた戦場であったとしてもよっぽどないだろう。でも、だからこそ私たちが彼らをこの戦場から逃がさなくてはならない。それを叶えるには、王国軍の本隊が到着していない今でなければならなかった。
「いいか、皆」
荒涼とした山岳を背に、ベレト先生の隣に立った殿下は私たちにだけ届く程度に声を張り上げた。
風でたなびく青の外套は、ダスカーの地に良く映える。金色の髪が、束になることなく舞っていた。痛いくらいに真っ直ぐな瞳が、私たち一人一人を見据えていた。
「王国軍の本隊が到着する前に、俺達の手でこの戦いを終わらせる。ダスカー兵と交戦し、彼らを撤退させるように。彼らと王国軍と戦わせるな。……二度と彼らを、虐殺させてはならない」
腰に下げた剣に、ぎゅう、と力を込めた。「頼んだぞ」と、確かめるように口にした殿下の真摯な瞳は、まるであの事件で自分だけが生き残ったとは思えないような優しさに満ちていて、私はそれで、ようやくその時、あれ、と思ったのだ。おかしな話だ。そんなことを言うなら、殿下の隣に立っていたドゥドゥーくんの存在をみとめたあの大樹の節に、気付いていて然るべきだったのに。
もしかしたら、殿下は、何かあの事件に関する重大な事実を知っているんじゃないか。
それは私たちには隠されたものなんじゃないか。
ダスカーの民は、「国王殺し」の濡れ衣を着せられているのではないか。
だって、そうじゃなかったら、こんな風に仇の彼らを助けようとなんてしない――。
遥か頭上で鳥の鳴き声が響いて、顔をあげる。そのとき、丁度私の視界の真ん中に、イングリットちゃんの横顔があった。槍を握り、山肌をじっと眺めるイングリットちゃんの瞳は美しく、そこに汚れも曇りもないはずなのに、どうしてか、私は声がかけられなかった。イングリットちゃんは、何かを思い出すように、一人、じっと息を潜めている。