は、魔法でその傷を癒し続けるハンネマン先生の隣で、ずっとその手伝いをし続けていた。マヌエラ先生の血を拭い、声をかけ、患部の様子を慎重に窺っていた。
 俺はと言えばありったけの綿紗を準備し薬や包帯を並べておくのみで、大して役になど立っていなかっただろう。いくら怪我人とは言え、女性の肌を見るのは失礼だろうと、一定の距離から先は近づくこともできないまま、一人時間が過ぎるのを待っていただけだった。
 これならば本当に、の勧めてくれた通り、先生たちに合流した方がまだ何か役には立てたのかもしれない。イエリッツァ先生の部屋に空いていたあの穴の先、あそこに何があるのかを俺は知らないが、「何か」があるのは確かだった。さらに言うならば、あれからそれなりの時間が経っているにもかかわらず誰一人として医務室に様子を見にやってこない時点で、先生たちがまだあの穴の先にいるだろうことは想像がついていた。だが、この状況において一人戻るという選択肢が、俺にはなかったのだ。
 それに、先生たちならば、何があろうと大丈夫だろう。
 ここに至るまでに築いた信頼のみでそう思えるなんて、少し前までの自分では想像もできなかったけれど。
 寝台に横になる、マヌエラ先生の足が視界に入る。こちらに背を向ける形でハンネマン先生の指示を聞くは、心なしか、いつもより小さく見える。








「…………よし、あとはもう、大丈夫だろう」



 ハンネマン先生がため息と共にそう言ったのは、治療を初めてからどれくらい経った頃か。出血も止まり、傷はきちんと塞がったらしく、既に着衣を整えられたマヌエラ先生のその身体には包帯が巻かれている。その顔色を見れば、イエリッツァ先生の部屋で彼女を抱きかかえたときよりも、ずっと血色が良いように思えた。



「後はマヌエラ君の生命力に託す他あるまい。まあ、血の気の多い彼女のことだ。明日には平気でその辺りを歩いているだろうさ」



 ハンネマン先生はそう続けるが、俺にはそれが冗談なのか本気なのか判別がつかなかった。恐らく、困ったように笑っているも。



「何はともあれ、助かった。礼を言おう。君達が手伝ってくれたおかげだ」



 その片眼鏡の奥の瞳が、と俺の双方に向けられる。慌てたように「そんな」と首を振ったのはだった。



「殿下は兎も角、私なんて、ただここに立っていただけですから」

「……いや、俺こそ立っていただけだろう」

「殿下はマヌエラ先生をここまで運んだじゃないですか」

「それを言うならだって、俺の分まで治療を手伝っていたじゃないか」

「でも殿下も……」

「こらこら、病人の前だ。静かにせんか」



 ハンネマン先生に注意されて、慌てて「すみません」と謝れば、声が揃ってしまった。それが面白かったのか、頭を下げたまま、は「ふふ」と小さく笑っていたけれど、ハンネマン先生には届いていなかったのだろう。



「我輩はもう少しマヌエラ君の様子を見ておくことにする。君達はもう行きなさい」

「はい。失礼します」

「失礼します」



 は俺の後をついて医務室を出る。何だか妙な気分だった。医務室を一歩出た途端、ようやく現実に戻って来られたように思えた。
 「はぁあ」と気の抜けたような声を彼女が出したのは、廊下を少し歩いた頃だった。足を止めて振り返れば、は胸に手を当てて、微かに俯いている。安心したのだろう。疲労と安堵の混じり合った顔は、ともすれば、泣き出す寸前のようにも見えた。



「マヌエラ先生が無事でよかった……」

 
 
 俺に聞かせるものというよりは、それはほとんど独り言のようだった。証拠に「そうだな、本当に」と言えば、は驚いたようにはっと目を開いて俺の顔を見る。窓のない廊下はまだ日が落ちていない時間であってもどことなく薄暗く、彼女の顔を一層白く見せている。



が居てくれて良かった。俺一人ではあそこまで手際よく手伝えなかっただろうから」

「そんなこと。私もいっぱいいっぱいでしたし……それに私なんかより、メルセデスちゃんやアネットちゃんの方が適役でしたよ」



 魔法を使えるあの二人と比べればそうかもしれないが。小さく笑うが、彼女はさして気にも留めていないように俺に笑みを返す。



「でも、勉強になりました。魔法は使えないけど、治療のお手伝いだったら次もできそうです」



 そう言うと、「先生たち、大丈夫でしょうか。早く戻らないと」と続けながら、は歩き出す。石作りの床に、その足音は反響している。
 謁見の間の玻璃硝子から漏れる光は、微かに橙色が混じっていた。その構造上、窓のない医務室からでは時間の経過が分かりにくかったが、どうやらもう夕方近くになっているらしい。ならばの言う通り、早く先生たちのところに行かなければ。恐らく何か、あちらでも問題が起きているに違いないから。
 けれど、ふと前を行くを見た時、何か違和感のようなものが胸にちらついた。その足取りが、微かにふらついていたように見えたのだ。疲労、というよりは、別のもの。白い手が、その足首を掴みかけたように見えた、幻覚だと知っていたのに、俺は彼女との距離を詰めて、後ろからその手を掴んでしまう。
 突然触れられたことに驚いたのか、或いは俺が力を加えてしまったことで痛みがあったのか、双方か。は小さく悲鳴をあげた。身体の軸を崩したせいで、一瞬よろける。けれど、その身体に実体が、温度があることにほっとした。



「で、殿下……?」



 振り向いたの顔に息を飲んだのは、彼女の顔がほとんど蒼白だったせいだ。
 窓のほとんどない室内にいるせい、ではない。の顔からは完全に血の気が失せていた。いつからだ? 記憶を探るが、医務室を出たとき既に顔色が悪かったことに気がつく。マヌエラ先生の治療をしていたときはどうだったろう。しかし俺は、その背しか見ていなかったのだ。自分自身への苛立ちから、掴んだ彼女の手首に力を込めてしまう。は、痛いとは言わなかった。その眉が寄ったのを見て、慌てて力を緩める。こんなときですら加減のきかない自分が、嫌になる、本当に。



「……、顔色が」



 悪い。そう言い切る前に、言葉が詰まる。のこめかみについた血がついていたのだ。恐らく、マヌエラ先生の血がついた手で触れてしまったのだろう。ほとんど無意識にそれを親指の腹で拭った。「ひ」と声を漏らすの目の横で、それは消えきることなく伸びてしまう。
 は理解できないと言わんばかりの目で俺を見上げていた。見開かれたそれは微かに潤んで、唇が何度か、閉じたり開いたりを繰り返している。



「な、な、なに……っ?」

「…………すまない。血がついていて……」

「びび、びっくりした、言ってくださいよ、もう」



 自由になった手で、は俺に触れられたそこを何度か擦っている。「ここですか?」と俺に尋ねるの顔は、今、赤みが増していて、先の蒼白が嘘のようだった。色づいた頬は、彼女をより柔らかい印象にさせる。
 気のせいだったのだろうか。
 伸びた血の痕は、なかなか落ちない。「手巾を濡らして拭いた方が良いかなあ」と独り言のようにが呟くのに、何か答えてやることもできないまま、彼女の顔を見ていた。それは、もうほとんど平生の彼女であるように見えた。


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