イエリッツァ先生の部屋の扉を叩いても、反応はなかった。
 まだ日の高い時間帯だ。いくら最近訓練場に姿を現さないと言っても、イエリッツァ先生が自室に籠もっているとは考えにくい。殿下は判断を仰ぐように、「……不在らしい」とベレト先生の顔を見る。
 何かフレンちゃんの失踪に関わる重大な事実が判明したわけではない。マヌエラ先生の姿がここ数日見えないこと、恐らくイエリッツァ先生がその事情を知っているだろうこと、それだけで私たちは列を成して部屋の前までやって来てしまったのだけれど、いくら手詰まりの状況であったとは言え、少し大仰だったのかもしれない。
 しかし、一度出直すか、手分けして大修道院の中を捜してみることにするのはどうでしょうかと提案しかけたときだった。ベレト先生が、「中を確認しよう」とイエリッツァ先生の部屋の扉を何の逡巡もなく開けてしまったのは。



「あっ」



 思わず声を漏らしてしまったのは、私とイングリットちゃんだ。いくら鍵がかかっていないとは言え、部屋主不在の部屋を開けるなんて、とつい思ってしまったけれど、結果的に、この判断は間違いではなかったのだから、先生の嗅覚は侮れないだろう。イングリットちゃんと無言で顔を見合わせた後、皆の後に続いて部屋に足を踏み入れる。その中に、イエリッツァ先生の姿はない。
 イエリッツァ先生の部屋は、実に寒々しかった。
 寝台に、机、それから燭台に本棚。私物と思しきものはなく、今日ここを明け渡すようにと言われたとしても、この部屋ならばそれは可能だろうと想像がつく。そんな部屋だったから、床にうつ伏せの形で倒れていたその人の存在は却って目立っていた。殺風景な部屋には似合わない、微かな香水の匂いが充満していた。
 それから、血の匂いも。



「……っ!」



 思わず漏れかけた悲鳴を、慌てて口ごと手で押さえる。胸が一際大きく脈打った。
 そこに倒れていたのは、マヌエラ先生だったのだ。



「マ、マヌエラ先生……!」

「なぜここにマヌエラ先生が……」



 マヌエラ先生に駆け寄ったのは、アネットちゃんだ。「しっかりしてください!」と揺さぶりながら、その顔色を確認する。蒼白だけど、呼吸はあるらしい。だけど、怪我をしているのは間違いないだろう。アネットちゃんの隣に膝をつき、私も一緒にマヌエラ先生の名前を呼ぶけれど、やっぱり反応は見られない。
 どうしよう。血の気が引いて、頭の隅っこが冷たくなる。
 早く医務室に連れて行かなくては。意識がないから、誰かに運んで貰って、怪我の治療をして。助けなくちゃ。だけど、そうやってマヌエラ先生のことにだけ意識を割くわけにもいかなかったのは、閉めきられたはずの室内に、風の流れを感じたからだ。
 私が顔をあげるのと、アネットちゃんが気を失ったマヌエラ先生の指し示した先に目をやったのと、先生が口を開いたのはほとんど同時だった。



「…………この穴は?」



 イエリッツァ先生の部屋には、大きな穴が開いていた。
 「なんだろう……」と、アネットちゃんがそれを確認するために立ち上がる。
 普段は本棚で隠されているのだろうそこは、元からあったものとは考えにくい。無理に開けたものなのか、部屋の壁には幾つもの亀裂が生まれていた。人が通れるくらいの大きさの、深く、暗い穴だ。地面と水平ではなく、地下に向かっているように思えるが、どこに続いているのかは分からない。だけど恐らく、これが隠し通路であることには間違いなかった。そんなものがこの部屋にあるということが、信じられなかった。
 シルヴァンくんが「へぇ」と呟く。



「こりゃあただの痴話喧嘩……とかじゃなさそうだ」

「どこに続いているのかは分からないが……調べてみなければならないな」



 殿下の言う通り、まずは調べてみなくては始まらないのだけど、少なくとも、イエリッツァ先生には何か裏があるらしいことは間違いない。
 思いも寄らない事態だった。マヌエラ先生との一件が、何かフレンちゃんの事件の解決の糸口になってくれればいいのに、なんていうくらいの気持ちでやって来たというのに、もしかしたら全てが一本の線に繋がるのではないかと、ここにいる誰もがそう思っている。私たちは今、答えの入った箱に手をかけている。



「で、でもマヌエラ先生、怪我をしているみたい。安全な場所に連れて行かなくちゃ」



 私がそう口にした瞬間だった。「一体何の騒ぎだね」と、ハンネマン先生が部屋に飛び込んで来たのは。
 よっぽど騒がしかったのだろう。そりゃあそうだ。普段は昼も夜も静かな先生達の寮に、こんな大勢でやって来ているんだから。
 ハンネマン先生は、倒れたマヌエラ先生を見てさっと顔色を変えた。部屋の壁に空いた穴のことなんか、ちっとも気がついていないみたいだった。ただハンネマン先生は、この惨状を前に気色ばんでいた。犬猿の仲であるように思われていた二人だけれど、ハンネマン先生はマヌエラ先生のことをきちんと尊重しているのだ。



「ああ、君達もボサっと見ていないで、彼女を医務室に連れて行くのを手伝いたまえ!」



 指差された同士、思わず顔を見合わせる。マヌエラ先生の傍にいた私と殿下を指し示して言ったハンネマン先生に、しかし他意は無かった。決して。








 あのとき、もしもこの部屋の付近をハンネマン先生が通りかからなければ。思わぬ光景に狼狽したハンネマン先生が、彼女の治療のために率先して指示を出さなければ、少なくとも、マヌエラ先生の治療のためにその場を離れることを、殿下は命じられたりしなかっただろう。もう一人選ばれるにしたって、魔法の使えない私みたいな人間よりも、メルセデスちゃんかアネットちゃんの方が適役であったことは間違いなかった。
 だけど私たちはハンネマン先生の勢いに押されてしまった。
 殿下はマヌエラ先生を軽々と抱きかかえ、ハンネマン先生は先頭を、私は殿下の斜め後ろを追いかけるようにイエリッツァ先生の部屋を出、走った。そうやって大修道院内を駆ける私たちはそりゃあもう目立っていただろう。体力作りのため、一人で走り込みをするのとは訳が違うんだから。
 医務室に到着したところで、ハンネマン先生は、私たちが治療術の類を一切使えないことに関して大きな反応を見せはしなかった。



「一向に構わん。ただし、我輩の手伝いはしてもらう」



 そう言うと、寝台に寝かせたマヌエラ先生の服をさっさと脱がせてしまった。わあ、と思ったけれど、わあ、となっていたのは私と殿下だけだった。ハンネマン先生はただ、その傷を見て顔を顰めただけだった。それがマヌエラ先生の怪我の深刻さを教えてくれた。マヌエラ先生は、何か鋭利な刃物で刺されていたのだった。
 私は薬の匂いの充満する医務室で、マヌエラ先生に治療術を施すハンネマン先生の指示を受け、(これもまたハンネマン先生の指示により棚から薬や包帯、綿紗を探して持って来てくれた殿下からそれらを受け取り)彼女の皮膚の血を拭い続けた。絹のような滑らかな肌だった。こんな美しい人に傷がついてしまうなんて、と思ったら、悲しくなった。痕が残らなうようにと願うしかなかった。
 マヌエラ先生の負った傷は深く、ハンネマン先生は「一体マヌエラ君はどうしてこんなことになっているんだね」と憤るように口にするけれど、しかし私たちはそれに何も言えない。その答えは恐らく、あの穴の先にあるのだろう。先生たちはもしかしたら、今まさにあの先で何か重大な事実と向かい合っているのかもしれない。そう思うと、胸がざわざわした。早く戻らなくちゃと思う反面、だけどこんな状態のマヌエラ先生を放って行くことなんてできないとも思った。
 けれど、殿下だけでも戻った方が良いのではないか。



「傷が塞がるまでもう少しだ。頑張るんだぞ、マヌエラ君」



 マヌエラ先生の肌を極力見ないようにするためか、寝台から離れた場所に立つ殿下に、「殿下は、先生たちのところへ。ここは私がついていますから」とこっそり声をかければ、殿下はけれど首を振った。「いや、流石に放ってはおけまい」と。その瞳があんまりにも真摯なものだから、そんな場合ではないと分かっているにも関わらず、胸が締め付けられる。



「マヌエラ先生の無事が確認できるまでは、ここにいるよ」



 それに返事をすべきだったのに声が出なくて、私はただ、小さく頷いた。私の手の中で、血で汚れた綿紗がぐちゃぐちゃになっている。取り替え続けたこれがもう何枚目になるのかを、私は覚えていない。
 耳につく鼓動から意識を逸らすため、私はハンネマン先生の手元をじっと見つめていた。魔法の才のない私には、今マヌエラ先生の身体の内側でどんなことが起きているのか、ちっとも分からない。けれど「もう少し」の言葉通り、薄く膜のはりはじめたその薄桃色の皮膚は、マヌエラ先生の負った傷に蓋をしていった。その色は、猫のお腹みたいに、頼りなかった。それを見つめながら、覚えていようと思った。この手順を。この目で見たものを。それがいつか何かの役に立つことになるはずだからって。それくらいしか、できないから。
 本当は、お腹が痛くてたまらなかった。脂汗が出て、眩暈がしていた。マヌエラ先生の傷はあの日のものと違ってきちんと塞がっていこうとしているにもかかわらず、私の手は微かに震えていた。
 細く、長く息を吐く。頭を振って過去の記憶を払う代わりに、私は、マヌエラ先生を抱えて走った殿下の背を思い出している。左肩から落ちる外套の青を、瞼の裏に浮かべている。


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