異形の獣と化したマイクランさんにとどめを刺したのが一体誰だったのかは、イングリットちゃんと共に後方に下がっていた私には分からない。
だけど、無数の傷を作った彼が苦悶の叫びを上げながら空を仰ぎ、最後には糸が切れたように床に沈んだ後、彼を覆っていた骨や硬質の繊維があっという間に溶けていくのを、私は見た。糸が解けるように、彼を包み込んでいたそれらは、闇と共に消えて行く。肉を引き裂いた爪も、柱を薙ぎ倒した尾も、禍々しく光っていた目も、蒸発する。一瞬の熱波に、思わず息を止めた。再び目を開けたとき、それは跡形もなく消えていた。
獣が消滅したその場所に横たわっていたのは、マイクランさんだった。
破裂の槍を手放し、ぴくりとも動かない彼が既に事切れているのは、誰の目から見ても明らかで、けれど、それでも動けなかった。私たちは誰しもが疲弊していて、目の前で何が起きていたのかを、ちっとも理解できていなかったのだ。
それでも、資格のない者が英雄の遺産を扱った末路であることは、私にも理解できた。彼を飲み込んだ破裂の槍は、今、マイクランさんの身体の脇で静かに転がっている。
紋章を持たない人間が英雄の遺産を扱うことはできない。その意味を、私たちは知ってしまった。
「…………槍を回収し、引き揚げよう」
やがて発された殿下の言葉が、私たちしか残らない塔の中で静かに反響する。
どれくらいの賊が私たちの手によって殺められ、マイクランさんによって命を落としたのか、そしてどれだけの人数がここを脱出したのか、私たちには分からない。壊滅した村の光景が脳裏を過ぎった。同じ事が、生き延びた彼らによって行われるのかもしれない。そう思うだけで動悸がしたけれど、今はこの槍を持って、帰還する他ないのだろう。あまりにも無力で、嫌になる。
幾多の屍が重なり合い、獣となったマイクランさんの残した傷痕が生々しく残るコナン塔は、私の目には墓場のように映った。私たちは、誰しもが言葉少なだった。身体はぼろぼろで、即座に動ける人も多くなかった。あれだけ激しい戦いを経て、誰も異形の姿となったマイクランさんの手にかかることがなかったのが、奇跡みたいだった。
「…………」
そっとため息を吐いてから、イングリットちゃんに目線を送る。終わったね、って言おうとした言葉は、だけど喉に引っかかって出てこなかった。イングリットちゃんは、真っ直ぐ、シルヴァンくんの背中を見つめていた。いつも美しいその背は、今、微かに丸くなっている。
シルヴァンくんは、マイクランさんの身体へと一歩歩みを進めた。破裂の槍の柄に、その爪先が触れた。がらんと、空虚な音だけが響いていた。
「兄上」
彼の口から吐き出されたのは、途方に暮れた、子供のような声音だった。シルヴァンくんの持っていた槍から落ちる真新しい血は床に滴って、小さな円を作っている。いくつも、いくつも。
亡骸に寄り添う破裂の槍。そこにはめ込まれた石は、今はただ、沈黙している。
ガルグ=マクに帰還したベレト先生は、破裂の槍をレア様にではなくシルヴァンくんに渡した。
曰く、「ゴーティエ家に戻す必要のあるものなら、別に彼であっても構わないだろう」と言うことらしいけれど、これに関してはシルヴァンくんと先生との間で、何らかのやりとりがあったのかもしれないとは薄ら思っている。
だって、英雄の遺産を易々と奪われてしまった時点で、ゴーティエ家はそれを保持する資格なしとセイロス教会に判断されてもおかしくなかったのだ。よって教会は、そのまま破裂の槍を没収する可能性だってあった。だから、ゴーティエ家の後継として、シルヴァンくんが上手く立ち回ったんじゃないか。むしろ、そういう風に動くようシルヴァンくんのお父様からの指示があってもおかしくはないだろう。ゴーティエ家からしてみたら今回の件は本当に危ない橋を渡ることになったと思うから。なんて、これらは全て私の想像に過ぎないのだけど。
結果、破裂の槍は無事にゴーティエ家の嫡男であるシルヴァンくんの手に戻った。自領に戻る用事があるまでは自室にて保管するとのことだったけれど、彼はその前にそれを教室に持って来た。彼の持つそれを、アネットちゃんと一緒に見せてもらう。「わぁ……」とアネットちゃんが漏らすのに、私はじっと息を止めていた。
こうして改めて近くで見ると、何だか不気味な槍だった。穂の根元に埋め込まれた石は相変わらず妙な存在感があって目を引くし、太刀打ち部分に幾本もの足のような突起物がある。こんな形状の武器はそうそう見ず、何だか得体の知れない生き物に見えなくもない。でもまさか英雄の遺産にそんな感想を言えるはずもなく、何と言えば良いものかと言葉を探す私に、シルヴァンくんはそっと口を開いた。
「気味が悪いよなぁ、これ」
その言い方に、迷ったけれど、「ちょっとだけ」と素直に言ったら、シルヴァンくんはややあってから、眉尻を下げて笑った。
「だよなぁ」
私はその時、初めてきちんと、シルヴァンくんとお話をしたように思えた。大樹の節に士官学校に入学してから、何度も会話をしたことはあったはずなのに、シルヴァンくんが困ったような顔で私を見て笑ったその瞬間、初めてだ、って、そう思った。
もう一度、彼の手にある槍を見る。彼の兄の命を食べた槍だった。私にはそれが、彼の遺品であるようにも思えた。
ゴーティエ家は勿論、それからファーガスの生まれである私たちにとっても今回こうして槍があるべき場所に戻ったことは喜ばしいことではあるのだけど、ベレト先生の行動は士官学校の教師としては決して褒められたものではないだろう。セイロス教会の大司教たるレア様に意見をするなんて、下手をしたら首が飛んだっておかしくない。実際レア様も破裂の槍の処遇に関しては難色を示されたらしいのだけど、それでも最終的にはベレト先生の意見が通ったのだから、驚いてしまう。ベレト先生ではなく別の人が同じことを主張しても、きっとそれは撥ねのけられたはずだ。
前々から思っていたけれど、レア様はベレト先生を特別視している。天帝の剣を授けて、通常ではなかなか与えないような課題を選び、先生の非凡さを讃える。大修道院の中、何度か見かけたことのあるレア様は、信頼とも恋慕とも違う目でベレト先生を見ている。先生はそれに、きっと少しも気がついてはいないけど。
自分とは直接関係ないことなのに、ついつい考えてしまう自分にちょっとだけ疲れて、こっそり息を吐いた。
教室の隅で、難しい顔をしてドゥドゥーくんと話をしている殿下を見る。怪我がないようで、何よりです、って言いに行きたいのに、意気地の無い私には、そんな言葉をかけるためだけに殿下の元へ向かう勇気がなかった。
フレンちゃんがいなくなった。
私たちにそう先生が知らせたのは、その翌日。角弓の節に入ったばかりの、昼下がりのことだった。