ファーガスの最北にあるゴーティエは、呪われている。
長く続く、紋章の呪いだ。俺達は目には見えないそれに、運命を定められる。母の胎からこの世に生まれ落ちた瞬間、母親の腕に抱かれるよりも先に、紋章の有無を調べられる。俺達は選別される。大義を背負うゴーティエには、それが許されているのだ。笑えるよな。
北方の民の侵略から王国を守る為に与えられた英雄の遺産、それを扱うための資格たる紋章がなければ、当主と認められることはない。領土を守る、その責務を果たせないのだ。紋章至上主義と言われるファーガスにおいて、王家に次ぎそれを顕著に体現しているのが、ゴーティエ家だろう。俺達は雪深い白い大地に落ちる血を見ている。その赤がこのファーガスを浸食することのないように、武器を振るっている。
俺はさ、だけど、いや、だから、の間違いか。そこに関わる父上の気持ちも、兄上の気持ちも分かるんだ。国を守るという役をその背に背負う父上が、どれだけ紋章を持つ子供を待ち望んでいたかも。俺の存在に安堵したかも。スレンの攻撃によって母親を失った兄上が、後妻が産んだ紋章持ちの俺にどれだけの絶望を与えられたのかも。
だから、だから仕方ないんだよ。こうなるのは。
枯れ井戸の中には、秋に落ちた葉が溜まっていた。湿った、濃い土の匂いがした。俺を包み込む円柱の筒だった。底から目だけを上に向けたとき、丸くくり抜かれた空に兄上の顔が覗く。目が合ったけれど、兄上からはどうかな。暗闇を覗くだけの兄上は、俺が生きているかどうかも分からなかっただろう。目が霞んでいたおかげで、その表情がはっきりと見えなかったのは、幸運だった、きっと。
死んでくれよ、頼むから。
そう言われたのだ、俺は。
背中の感触を覚えている。確固とした意思を持った、兄の手。一度も繋がれたことなんかない。俺は兄に、産まれたその瞬間から死だけを願われて生きている。これが呪いじゃないなら、なんだって言うんだ。
だから、仕方ない、仕方ないよ、兄上。こんな思いをするならさ、俺も紋章なんか持たずに産まれりゃ良かったな。そうしたら俺達、紋章のないもん同士力をあわせて戦えたんじゃないか? 英雄の遺産なんか使わなくたって、スレンを追い払う。そういう未来もあったんじゃないか?
「………………痛い」
産まれてからずっと誰にも吐き出せなかった弱音が、井戸の底で微かに反響する。
兄上から全てを奪った俺が口にしてはいけない言葉だ。俺はそれを分かっているから、口にしてしまった自分に絶望する。何もかもを台無しにしてしまったような気になる。いっそここで死んじまえたらいいと、思う。暗く、温いそこは、母の胎のようだった。死ねたら良かった。生まれ落ちるその前に。
幼い俺は、あの日の記憶を何度もこの脳に焼き直している。あの日は狩りをしていた。フラルダリウスやガラテアの人間も交えてのものだった。そうじゃなかったら、俺はあの井戸の中で死んじまってたはずだった。
俺を見つけてくれたのは、イングリットだ。俺の姿が見えず探していたところ、井戸の外に俺の使っていた弓が落ちていたから、もしやと思ったらしい。それでグレンやフェリクスを呼んで、ほとんど意識を失いかけていた俺を助けてくれた。
兄上も、どうせ突き落とすんだったらさ、そういうのも全部、まとめて処分しておいてくれれば良かったのにな。詰めが甘いんだよ、いつも。
そうしたら俺だって、なにもかも諦められたのに。
英雄の遺産をゴーティエから盗み出した逆賊、それが今の、俺と半分血を分けた兄に与えられた肩書きだ。
三年前にゴーティエから廃嫡された男は、こうして賊の頭目となった今でも俺を恨んでいる。家族の愛を、領民からの信頼を一身に受け、次期当主として相応しい教育を施された俺を今でも「お嬢さん」と揶揄し、憎悪の目を向けている。恐ろしいよな。二十年も、この人は俺だけを憎んでいるんだから。
破裂の槍を手にしたこの人を討つことに、躊躇いなんかない。俺が腹の底では妬み、恨んでいる先生にお膳立てされて、俺はこの人と自分とを断ち切ろうとしている。槍を振るい、逆賊たる男を討とうとしている。
成長した俺は、諦めることを覚えた。後悔なんかするか、今更。過去のどこに戻ったって、俺達は分かり合えないんだから。そう思っていた。これが俺のけじめだった。終わらせてやる以外なかったのだ。これから先も呪いを背負うのは、俺だけで良かったから。
こんな終わり方を望んだわけではなかったのだ。
「……あにうえ」
喉から漏れた声は、折れた柱によってかき消された。
破裂の槍に飲み込まれた兄上は、異形の獣となって、見境なく人間を嬲り殺している。逃げ遅れた賊らは巻き込まれ、辺りが血の海になる。一体何が起きたのか、説明できる人間はここにはいないだろう。先生ですら、珍しくその顔に微かな動揺を滲ませているのだから。
「戦える人は前に。彼を討伐する」
先生は、あんな風になっちまった存在であっても「彼」と呼んだ。
あれは兄上だった。英雄の遺産に飲み込まれた人間の、成れの果て。血のように濡れた赤い目は見上げなければ見えず、肉片のこびり付いた爪は理性もなく塔を破壊する。「は後ろに」その音に紛れるように、イングリットの声が耳に届いた。兄上の挙動にも注意を払いながら、目線を後方へと走らせる。
「で、でも」
「もう体力も限界ではないですか。お願いですから、後方にいてください」
戦えるやつは前にっていう先生の言葉を受けて、どうにか出てきたらしい。でもなあ、こんな蒼白の顔した女の子、戦わせるわけにはいかないだろう。「後ろにいなよ」と声をかけたら、は初めて俺の存在に気がついたとでも言うかのように俺を見上げ、その目を瞬かせた。
王国の南に領地を持つ男爵家の娘だ。半年前に嫡子を失った、後は恐らく、緩やかに終わりを迎えるだけの小さな家。それでもこんなところでその命を散らせるのは忍びない。
「イングリットも」
そう続けた俺に、イングリットがその目を微かに見張る。「その左手、まだ本調子じゃないだろ」それで隠せていると思ってるなら、お前もよっぽどだよ。言葉を失うイングリットに、俺は笑った。上手く笑えているかは、定かじゃなかった。だけどそうする他なかったのだ。
「俺が終わらせたいんだよ」
天井から粉状の石が降り注ぐ。塔全体が揺れて、獣は泣き喚くように叫んでいる。原形を留めない人間の身体。あちこちに広がる血溜まり。到底この世の光景とは思えない。紋章を持たない人間の末路があれだって言うのなら、悪い夢でも見ているみたいだ。既に獣に攻撃を仕掛けている先生や殿下の背を見ながら、「頼むよ」と口にする。
イングリットが俺に何かを言った。「気を付けて」そういう、短い一言だった。と二人、素直に後方へと下がるその姿を見て、俺はこんなときに、あの井戸の中を思い出す。俺の背を押した兄上の手は、はっきりとした熱を持っていた。死んでくれよ、頼むから。あれは掠れた声だった。獣が叫ぶ。空気が振動して、俺の身体を撫でていく。黒い獣は、俺を見てはいない。なあ、なあ、兄上。小さく声に出したところで、きっと届くことはないだろう。でも俺は、あの時俺を殺そうとした両手の感触を、熱を、今でも覚えてるんだ。
馬鹿だよな。