「大丈夫そう?」
短い軍議を終えた後、ベレト先生はわざわざ私を呼び止めてそう尋ねた。
厚く重なった重たい雲からの雨は既に本降りになり始めていて、木陰はほとんど雨除けの役目を果たさない。そんなところでの軍議だったものだから、私もだけど、ベレト先生も勿論濡れていて、何だかそれが妙に不思議なもののように見えた。先生も濡れるんだ、って。そんなことを考えてしまった直後、私って先生のことを何だと思っているんだろう、と慌ててしまうけれど、少なくとも、人間離れした人だとは思っているのは事実だった。先生に教わるようになってから何節も経った、今も。
先生の濡れた髪が張り付いた頬は、何の傷もなく美しかった。その白い肌を見ていると、戦いが近づく中で薄ら芽生え始めている緊張感が小さくなるような気がした。戦いの始まる直前の空気に、私はちっとも慣れていなかったのだ。
「大丈夫……だと思いますが、緊張はしてます。……結構」
「……緊張?」
先生は私の顔をじっと見つめている。睫毛の先が濡れていて、瞬きの度に細やかに光って見える。表情らしい表情のない人だけど、ここ最近の先生は、ちょっとだけ変わった。大樹の節、初めて私たちの前に立ったときは喜怒哀楽の全部を削ぎ落としたような目をしていたのに、今はそこに目に見えないくらいの変化が生まれているように思うのだ。
先生は以前よりも人間らしくなった。私に対してだけではなく、皆に対しても。その眉が、微かに下がる。そうと分からないくらいに。
「……緊張の解し方、と言うのは、自分は教えられない」
「ベレト先生、緊張とかしなそうですもんね」
「……そうだね。多分、という言い方になってしまうけれど、したことはないと思う」
もうその返答が「緊張」っていう状態を知らない人の言葉だ。思わず「ふふ」って小さく笑ってしまった私に、先生は不思議そうに瞬きを一つするだけだった。
私たちの脇を、ドゥドゥーくんが通り過ぎていく。その後ろ姿を視界の端っこあたりで見送る私に、先生は「前も言ったけれど」と前置いて、話し出す。先生の声は、雨の音にところどころ、消されている。私たちの足元に、どちらから落ちたものか分からない雫が、一つ二つと落ちていく。
「……戦いになったら、周囲を良く見て。自分一人で戦っていると思わないこと。ここには自分も、ディミトリ達もいる。君は出会ったときよりも随分強くなったし、不安がらなくても大丈夫。心配はしなくていい」
「…………」
はい、と言いたいのに、声が喉に張り付いたみたいで、すぐには出てこなかった。私に直接触れているわけではないのに、先生の言葉は、私の不安を両手で包み込むみたいに優しいものだった。どうしようもなくて、大きく頷いた。自分では全然気がついていなかったけれど、私の髪もまた、頬にべたりと張り付いていた。
コナン塔の攻略に関して、私は部隊の真ん中あたりに配置されることになっている。最前線に立つ殿下やフェリクスくんが打ちもらした敵を、イングリットちゃんやアッシュくんと共に処理するのが私の役目だ。
恐らく賊の頭目であるマイクランさんは、破裂の槍を持ち、この塔の最上階にいると見ていいだろう。外壁にほとんど足場になるようなもののない作りをしたコナン塔の出入り口は、当然一つだ。塔の内部に侵入したとき、逃げ場が入り口以外にないのは賊にとっても私たちにとっても同じである。そうなった場合危険なのは、背後からの挟み撃ちだ。伏兵によって部隊が分断されたとき、私は後方部隊と行動を共にするようにと言われているけれど、それも状況を見て、臨機応変に動いてもらって構わない、とのことだった。私はこれからの行動を、そういう風に定められていた。
孤立しないよう配慮された配置であるのは、戦いに慣れていない私を安心させるためだったのだろうか。確かめるように先生を見つめるけれど、先生は相変わらず感情の読み取りにくい、けれど春の頃よりは温度のある目で私を見つめるだけだった。
塔の内部に侵入した私たちの存在に勘づいて様子を窺っているのか、その内部はやけにひっそりとしていた。
土埃の溜まる階段に、濡れた無数の足跡が残されていく。組んだ隊列の丁度真ん中あたりにいる私は、こっそり胸を押さえながら、前方のフェリクスくんの後ろを進んだ。
生活の痕跡は、塔の下の階層には見受けられない。荒れ果てた室内は、朽ちた毛布や脚の折れた椅子が無数に転がっていた。そこここに作られた蜘蛛の巣には、中身を吸われ、半透明になった虫の輪郭だけが残っている。
「……賊の気配がないな……やはり、最上階にいるのだろうか」
独りごちるように囁いた殿下の声は、私たちの足音に紛れて消えて行く。私たちを待ち受けているだろう賊たちは、間違いなく武器を手に取り抵抗するだろう。そもそも、話を聞いてくれるような相手ではないのだ。彼らは自分たちが生き延びるためには、私たちを殺す他ないのだから。脳裏を過ぎる、かつて村だったものの残骸を思い出して、そっと唇を噛んだ。彼らは全てを奪い尽くすほど、残忍だった。私たちは、これからそんな相手と戦わなければならない。
緊張は、未だ私の粘膜にべたりと張り付いているみたいだ。意識的にゆっくり呼吸をする。すっかり手に馴染んだ剣に触れたとき、隣を歩いていたイングリットちゃんもまた、細く長い息を吐いたのが分かった。その横顔に、いつものイングリットちゃんと違う、どこか思い詰めたものが滲んでいるように思えて、思わず「……イングリットちゃん、大丈夫?」と尋ねてしまう。そうしながら、いつもそう聞かれているのは私だったのにな、と思った。イングリットちゃんにもアッシュくんにも先生にも、私はいつもそうやって心配されていた。
イングリットちゃんはそっと私に視線を寄越すと、ややあってからその唇を微かに笑みの形にした。「すみません」謝らなくていいのに、どうしてイングリットちゃんはそんなことを言うのだろう。
「大丈夫です。も、どうか無理はしないで」
もう癒えたのだと言う左腕を、イングリットちゃんはほとんど無意識とも思える仕草でさする。その目が、前を歩くシルヴァンくんへと向けられた。美しい瞳だった。何かを追い求めるように、それは青く澄んでいた。前方を見るばかりのシルヴァンくんは、そんな視線に気がついてなんかいないだろうに、振り払うみたいに、微かにその頭を下げた。
私たちは、彷徨う羊の群れ。
昔どこかで読んだ本の一節が、ふと頭を過ぎったけれど、それが一体何の本に記されていた一文だったのかを、今の私はもう思い出せない。
無数の人間の気配は、最上階へと近づくごとに濃くなっている。
先生は、前節セイロス様の棺に入っていたと言う剣を教団から借り受けていた。それは英雄の遺産にも対抗しうる、すごい武器らしい。マイクランさんが持ち出したと言う破裂の槍の存在は、やっぱりどうしても恐ろしいもののように思うから、先生がいてくれるだけで安心する。それは、でも、天帝の剣と呼ばれるそれを先生が持っていなかったとしても、きっとそうだったんだと思うけれど。
先生はどんなときでも私たちを守ってくれる。私なんか、本当だったらもう何回死んでてもおかしくないはずなのに、大きな怪我をすることもなくこうして今も生きていられる。それこそが私にとって、先生が信頼に足る証拠なのだ。
「不安がらなくても大丈夫」先生がくれた言葉をお守りのように抱えて、そっと目を伏せる。戦いはもう、始まろうとしている。