翠雨の節はファーガスも晴れ間が多いけれど、その日は朝から纏わり付くような小雨が降り注いでいた。
雨除け用の外套を着るほどではない程度の、温い雨だ。ガルグ=マクを出立し、カロン領を抜けてガラテア領を歩いているうちはさほど問題ないように思われていたそれも、フラルダリウス領南部に到達した頃には少しずつ雨脚が強くなり始めている。
大樹の節からここに至るまで、体力もついたのだろう。私は遅れることなく皆と共に行軍が出来ている。剣の重さも、最早気にならないくらいだ。意識的に呼吸をしながら、そっと目線を彷徨わせる。
廃塔と呼ばれるに相応しい風情のコナン塔は、未だ遠景の中だ。
「…………ひどい」
誰かに聞かせるというよりは、思わず口から漏れてしまったというようなイングリットちゃんの声が耳に届いたのは、大木の根を越えたときだった。
丘の下、イングリットちゃんの視線の先には、かつて村であったものが広がっていた。炎が上がったのか、辛うじて残された家の残骸はどれも黒く焦げ、屋根と呼べるものが総じてなくなっている。元々生育に乏しかったであろう畑は踏み荒らされ、家畜を囲う柵は破壊されていた。人の気配は、そこにはない。血の臭いも、饐えた臭いも、ここには届かない。
「…………」
襲われたのだ。それも、恐らくあのコナン塔を根城にした賊たちに。村のものは根こそぎ奪われ、何も残されていない。住む家も、食糧も、ひょっとしたら、命すらも。恐らく数週間前には、既に。
そう思ったら居たたまれなくなった。何か言葉を発することすらもできなかった。私たちの知らないところで、民たちは死んでいく。私たちは皆を守る為に学び、剣を持っているのに、どうしたって追い付かない。
震える息が漏れそうになるのを、唇を噛んで耐えた。止まることなく進む隊列に遅れないよう、前を向くしかなかった。腰に下げた剣の柄に、祈る代わりに触れる。ここ最近は毎日のように訓練をしてきたせいで、私の手の平はそれにすっかり馴染んでいた。呼吸を整える。雨の降り注ぐ木々の中にいると、精神がなだらかになっていくように思う。だから、大丈夫だ。今日の私は、きっと戦える。いや、戦わなくちゃ。
賊を討伐し、英雄の遺産を取り戻す。
シルヴァンくんのお兄さんが、そこにはいる。
軽く閉じていた目を開けた瞬間、雨粒が丁度目に入った。「わ」と思わず声を漏らして目を擦ったら、アッシュくんが「、大丈夫ですか?」と尋ねてくれるから、慌てて首を振る。大丈夫、大丈夫だよ、って、いつかのように口にする。
泥濘んだ地面を歩いていると、私はどうしてもガスパールへと向かっていた花冠の節のことを思い出してしまう。あの日もこんな雨が降っていた。私の足は重石をつけられたように動かなかった。父同然と思えるような人の命を奪いに行くその道程をもう二度と歩きたくないと思っていたのに、今この場には、あの頃の私と同じような思いをしているであろう人物がいる、そう思うだけで胸が痛んだ。前方を歩くシルヴァンくんは、けれど前方を見つめたまま、遅れを取ることなくその足を進めている。私はそれを、ただ見ている。
今節の課題には、セイロス騎士団のギルベルトさんという方が同行してくださっている。
明るい色の毛髪にちらほらと白髪の混じった、父と同い年くらいであるだろう精悍な男性だ。背が高く、がっしりとしたその体躯は黒い鎧に包まれている。顔の作りは柔らかいのに、その眼差しはどこか鋭く、何か、一つの感情に満ちていた。それは多分、悲哀と呼ばれるものだった。
セイロス騎士団に属する以上、ギルベルトさんもまた敬虔な信徒なのだろう。何か深い悲しみを背負っている信徒の方というのは、少なくない。特に昨今のフォドラの情勢は荒れていて、貴族であっても多くの人が大切な人を失っているくらいだから。ギルベルトさんの瞳は、そういったものを思い起こさせるものだった。
眼前にそびえるコナン塔は、北方の民の監視のために作られたものであることが容易に想像がつくほどに高い。石作りのそれはところどころが朽ち、荒れ果てて、最早その役目を果たすことはないだろう。とは言え元は軍事拠点だ。「攻略には骨が折れるでしょう」と先生と殿下に話をするギルベルトさんに、殿下が何かを返しているのが聞こえる。そっとそちらを窺って殿下の顔を見た、たったそれだけでどきどきしてしまうのだから難儀だ。せめて戦闘の前くらい、こういう気持ちも麻痺してくれたらいいのに。
こっそり胸を撫でる。身体の内側で、どくどくと脈打っているのが分かる。殿下を意識的に視界から外さなければ、それは当分落ち着かなそうだった。
「……ガラテアに程近いこんなところが戦場になってしまうくらい、北方の民の侵攻が凄まじい時期があったなんて、本では知ってたけど、実際残された建物を見ると変に実感しちゃうね……っ」
私の隣にアネットちゃんが立ち止まったのが分かって、雑談のつもりでそう声をかけた。緊張とか動揺とか、そういう色んな感情を誤魔化すためだったのだけど、私の言葉にアネットちゃんは何も返事をしない。いつもだったら、こういう話に真っ先に答えてくれるはずなのに。
あれ、と思って目線をその顔に向けた。アネットちゃんはただ、殿下と先生、ギルベルトさん、今し方彼らの会話に加わったらしいシルヴァンくんの四人の姿を見ている。それで私も、あ、と思った。シルヴァンくんのことは、私も何もできないまでも、気になっていたから。
殿下はシルヴァンくんのことを気に掛けている。花冠の節、私やアッシュくんにそうしてくれたように。実の兄と戦わなければならないシルヴァンくんの心を思いやっている。本当に後悔はないのか、と、確かめている。ベレト先生が、何かを見透かすような細めた目で、シルヴァンくんを見ていた。「後悔だって?」この場に不釣り合いな、乾いた笑いを、けれどシルヴァンくんは漏らす。それは私たちの間に広がる無数の空白を埋めるには、全然、足りなかった。
「…………ほんと今更、勘弁してくださいよ」
自嘲気味な笑いの混ざった、すかすかの声だった。
強くなり始めた雨音を縫うように、シルヴァンくんの声は耳に留まって、いつまでも残っていた。アネットちゃんは息を潜めていた。イングリットちゃんも、フェリクスくんも、皆。それぞれが、それぞれの思いを抱えているように思えた。それはきっと、私も、アッシュくんもそうだった。
ほんと今更、勘弁してくださいよ。口の中だけで、そっと呟いた。そうしたところで、私には何もしてあげられなかった。寄り添うこともまともにできなかった。後悔なんて、でも、本当にそう。今できる後悔なんて、彼には何もないのだ。私がそうだったように。
シルヴァンくんは緩く首を振って、その場を立ち去る。その背中は雨の描く線の中、薄らいで消えて行く。誰も彼を追いかけられなかった。誰にもがその権利がないと、恐らく思っていた。
その背を見届けた殿下が、私たちに向きなおる。伏せられた睫毛が雨に濡れているのを、じっと見た。私たちは、皆が皆、無力だった。
「……そろそろ軍議を始めよう」
この雨は嵐になりそうだ、と。
殿下の言う通り、空からの雨は徐々に強くなっていた。髪や頬が濡れて、鬱陶しいくらいだった。コナン塔を見上げるギルベルトさんを、アネットちゃんは今も何か、訴えるような目で見つめている。二人の髪の色が同じだということを、私はこの時、発見と呼ぶには思考の隅に留めるくらいの意識の中で気がついたけれど、口にすることはしなかった。