「寝込んでしまったときに、お花をもらったんですね」
教室へと並んで向かう道中、がそう口にしたとき、心臓が止まった心地がした。
冷静になって考えれば、彼女が俺の前で何の気なしにそう言った時点で、動揺する必要はなかった。だって彼女は、「誰から」とははっきり言葉にしなかったのだから。
は何も知らない。恐らく、あの日イングリットは俺の頼み通り、彼女に何も伝えなかったのだろう。ならば俺は薄い笑みだけを貼り付けて「そうなのか」と頷いていれば良かったはずなのに、そこまで器用な男ではなかった。ほんの数秒ではあったが、思考が止まってしまったのだ。まさか今その話をされるとは思ってもいなくて。
「……は、花が好きなんだな」
「殿下?」と不思議そうに俺を見つめるに苦し紛れにそう言えば、彼女は俺が見せた動揺などすっかり忘れてしまったとでも言わんばかりに顔を綻ばせる。その腕にある若草の色をした本を、彼女は大切そうに抱えている。
「はい! 好きです」
俺の逡巡を追求されることなくそう微笑まれたことに、ほっとした。いや、もっと言うならば、それだけじゃない。俺が贈った花をずっと大事にしていてくれたことが、俺は嬉しかったのだ。
の目線が前方へと戻されたのを確かめてから、そっと目線を落とす。芝生の上に落ちる影が丸まっていないことに、俺は確かに安堵している。
ロナート卿の起こした叛乱の最中、がその手で民兵を殺してしまったことで落ち込み、翌日の授業を休んだことは、一節以上が過ぎた今でもはっきりと覚えている。
ガスパールからガルグ=マクへと帰還する道中のは塞ぎ込んでいた。数日は授業に復帰することが難しいのではないかと思ってしまう程度には、その背は頼りなく丸まっていて、顔は青白く、憔悴しきっていた。その背をイングリットが支えていた。俺はそれを、ただ見ているだけだった。
級長として、に何をしてやれるだろうか。
ガスパールから帰還した翌日、空っぽの彼女の席が視界に入る度、思い悩んだ。勿論いずれ話を聞いてやりたいとは思うが、未だその段階ではないだろう。今のは恐らく、自己保全の状態にある。そんな彼女に踏み込みすぎてしまうことは、その回復を妨げるだけだ。もっとさりげなく、けれどその身に寄り添えるもの。押し付けず、負担にならないものであるべきだ。
花を持っていこうと思いついたのは、その日、俺が温室の当番だったためだ。大仰なものでなければ迷惑ではないだろうと、少し悩んで、温室の片隅に咲いていたスミレを管理人の女性に断った上で頂戴した。控えめで小さな薄い空の色をした花弁は、俺の手の中にあると随分心許ないように思えたけれど、「級長」が「同じ学級の生徒」に贈るのには、これくらいが丁度良い気がした。
我に返ったのは、の部屋の前に来てからだ。
渡し方というのを、ここにくるまでの俺は考えていなかった。全く失念していたと言ってもいい。一体どうして俺が寝込む一同級生の部屋を訪れることができるだろう。異性である以上は平時であっても躊躇うものだと言うのに、休んでいると分かりきっている女性の部屋に、どうして顔を出せるものか。
「…………」
扉の前で、息を潜めて思案する。
授業が終わった後のこの時間、寮はひっそりと静まりかえっていた。彼女は寝ているだろうとは思うが、もし起きていて、俺の気配が伝わっていたらと考えたとき、肝が冷えた。
どうするべきか。
恥ずかしいことだが、俺はこと女性との付き合い方、正しい接し方というのがまるで分かっていない。シルヴァンには生真面目過ぎると言われるが、結局の所視野が狭いのが原因であると思う。「こうしたい」と思いつくまでは良い。その先を考えないまま動き出してしまうのだ。だからこうやって、花を持ったまま途方に暮れてしまう。
の部屋の前で立ち止まってから、これは彼女に直接渡せない、と結論づけるまでどれくらいの時間がかかったかは定かではない。俺はそっと踵を返すと、そのまま階段を下りる。このスミレは自分の部屋にでも飾る他ないが、そうなると何か容れ物が必要だろうと考えていたところだった。「殿下?」と声をかけられたのは。
階段を下りた先で、金色の長い髪が光に煌めいている。幼い頃から見慣れた、けれど美しい髪だった。
「……イングリット」
彼女がのところへ向かうらしいと気がついたのは、その手に食事の入った盆があったからだ。「にか?」と尋ねると、小さく頷いた後、今日は朝から何も食べていないはずだから、とイングリットは心配そうな声で口にした。
ガルグ=マクで初めて話をしたと言う二人は、気が合うらしく、大樹の節の頃から良く一緒にいた。お互いに良き友であると思っているのが、傍から見ていても分かる。人情に厚いイングリットは、落ち込んでいる友人を、俺よりも思っているに違いない。
早く元気になってくれればいいが、それで全てが解決するわけではないことも、俺は知っている。人の命を奪うことに、彼女が慣れることはこれからもきっとないだろう。それは人間として正しいことなのだ。少なくとも、俺よりも。
俺は持っていたスミレを彼女へと差し出した。「に、これを」と言えば、イングリットが僅かにその目を丸くする。
「俺からだとは告げずに渡してもらえないか」
「……私が、ですか?」
「ああ、頼む」
恋人でもない男から花など渡されては、彼女も気が重くなるかもしれない。そう考えた故の言葉だったが、イングリットは「殿下から直接渡してあげた方が、も喜ぶと思いますが」と微かに眉根を寄せていた。さすがにそれはないだろう、と小さく首を振って苦笑する俺を、イングリットはそれでも、何か言いたげに見ていた。幼馴染みである男の真意を探ろうとするような目だと思ったのは、俺の気のせいではない。それを笑ってねじ伏せる。良いんだと、訴えるように思う。良いんだ、俺の真意など。
好意のない相手に花を渡そうなどと考えるものか。
そんなことは、俺自身が一番良く分かっているのだ。
あれから二節近くがたった今、は表向きでは立ち直り、これまで通りに授業に出て、訓練に参加している。俺が彼女と向き合い、一度きちんと内心を吐露させたことが、その精神を安定させたのだ、と思うほど自惚れてはいない。ロナート卿を失い、民兵を殺してしまったことに深く傷ついていた彼女は本質的には救われていないし、その泥濘はこれからも彼女を蝕み続けるだろう。時折緩やかにその喉を絞めるだろう。俺が背負うあの手のように。
それでも、と思う。
それでも俺は、人として正しくあるが、どこまでも真っ当に生きていられたらいいと思う。
「もしも上手に育てられたら、お花を殿下に差し上げてもいいですか?」
まだ育て方も調べてもいないのに、気が早いかもしれませんが。教室に入る直前、本を抱きしめながらそう言う彼女の頬が赤らんで見えたのは、差し込んでいた光のせいだろう。
泣きじゃくったの手の柔らかさを覚えている。あの時のぬるさは、今もこの手に残っている。
頷いた俺に、は泣き出す寸前のような顔で笑った。それがあまりにもきれいだったから、俺は目を逸らすしかなかった。