生きるのって難しい。
人の思惑とか思想、価値観、そういった色んなものが複雑に絡み合う世界で、どれだけ隅っこを歩いていても、知らないうちに足を絡め取られている。私たちはいつも何らかの問題を抱えていて、いつか向き合わなければならない日が来ることを知りながら、それらの全てを土の下に埋め、真っ直ぐ歩いているつもりでいる。
極寒の地を襲う飢饉、ダスカーの悲劇から始まった国の混乱、西方教会によるセイロス教会への叛意、そして今回は、紋章至上主義が生んだと言っても過言ではない、英雄の遺産にかかわる騒動。こんなに多くの問題を抱えて生きているのが、ファーガスに生まれたせいなのか、そうでないのかは、国の外を知らない私には分からない。ただ帝国にも同盟にも、顕在化していないだけで問題はどこかにあるだろう。私は別にファーガスという国自体を嘆いているわけではなかった。ただ、ここ数節の流れについていくのに必死になっているだけで。
「難しい問題よね〜……」
頬に手を添えて、小さく首を傾げるメルセデスちゃんの瞳は、夏の日差しにそぐわない翳りを持っていた。その眉を八の字にして「……うん、本当に、すっごくすっごく難しい話だと思うな」と呟いたのは、アネットちゃんだ。二人の視線がやがてこちらに向けられたので、私も目線を落として頷いた。丸い机の真ん中には、メルセデスちゃんが焼いてくれたお菓子がある。
談話をするために作られた、庭師によって手入れされた小さな中庭は、生徒や信徒の憩いの場になっている。昼食後、偶然通りかかったところを二人に声をかけられて三人でお茶を飲み始めたときは、課題がどうの、街にあるお店がどうの、って話が話題の中心であったのに、最近街に出ると噂の死神の話にひとしきり怖がった後、とうとう今節の課題についての話に移ってしまったのだ。意識的に避けていたのに、私たち全員が意識しすぎるあまり、却ってどうしても浮かび上がってしまい、言及せざるを得なくなってしまった。そういう感じだった。
コナン塔へと向かう日は、数日後に迫っている。
「いくら廃嫡されたって言っても、お兄さんだもんね。もしあたしがシルヴァンと同じ立場だったら……やっぱり辛いよ」
「ええ……。私も、苦しいわ〜……」
「……うん、そうだよね」
あまり褒められた人物ではありませんでした。二人に同意をしながらも、脳裏を過ぎるのは、イングリットちゃんの声だ。
マイクランさんは、粗暴なところがあったと言う。きっと、廃嫡されても仕方が無い人物だったのだろう。私のお兄様や、クリストフ兄様のような人ではなく。だけど、実際何があって彼がゴーティエ家を廃嫡されるに至ったのかを、私は知らない。兄弟の間にある問題を、他人の私が知ることはない。
極寒の地であるゴーティエに生まれた、紋章のなかった兄に、そうではない弟。それだけでその心情も、状況も想像できるような気がしたけれど、でも、だからこそ私の想像の中で彼の行動の善悪を決めることはできなかった。そういう判断を部外者がするのは、どうしたって乱暴なことであるように思えた。
シルヴァンくんの苦しみを、アネットちゃんやメルセデスちゃんのように、共感してあげることだけが、正しかったのだ、きっと。
メルセデスちゃんたちとのお茶会を先に抜けさせてもらったのは、書庫に行く用事があったからだ。
書庫は好きだ。紙の匂いに包まれていると安心するし、壁を埋め尽くすだけの本を見ていると、それだけでどきどきしてしまう。勿論理学に関するものとか、専門的なものは開いたところでちんぷんかんぷんなのだけど、それを求める人にとってはそれこそ素晴らしい価値を持つのだろう。
書庫番のトマシュさんも穏やかな人で、私が探す本は彼の皺の刻まれた手によって、いつも簡単に探し当てられた。「あなたにとって少しでも学びがあるといいですね」と祈りを捧げる聖職者のように言うその声は静かで、どこか神秘的だった。
本を借りた後、教室へと戻る道中、階段を下りた先で「」と声をかけられた。振り向いた先、そこにあった殿下の姿に、心の準備ができていなかったせいもあって、思わず抱えていた本を持つ手に力を込めてしまう。
「でっ……!」
「書庫に行ってきたのか?」
私の動揺に全く気がつく様子もなく、殿下は私の持つ本を見て首を傾げた。それに「は、はい」と頷きながら答えたら、殿下は何か、眩しいものでも見るみたいにそっと目を細めて、「熱心だな」とだけ言った。
訓練を見て貰ったり、教室でその背を見ている分にはこれほどには動揺しないのに、こうして偶然殿下と一緒になってしまうと、私は分かりやすく狼狽えてしまう。心の準備が何もできていないせいだ。私は一人、どうしよう、どうしよう、って考える。適切な話題を探して、表情に色んな感情が漏れないように気を付けて、声が上擦らないようにして。一人の男の人として殿下を好きだと自覚してしまった私は、前節からずっとこんな調子だ。
建物の外に一歩出ると、容赦の無い午後の日差しが私の頭を照りつける。強い陽を受けた地面からの熱気に、あつ、と思った、思ったけれど、そういう軽口は、イングリットちゃんやメルセデスちゃん、アネットちゃん、あとはアッシュくんくらいにしか、言えない。私は今、とても緊張している。こっそり息を吐いたら、殿下もほとんど同じように息を吐いたから、びっくりした。思わず殿下を見上げたら、殿下もまた、ちょっとだけ驚いた顔で私を見下ろしている。
「ええと」と言葉を句切ってから言葉を発したのは、殿下の方だった。
「……何の本を借りたのか、聞いても?」
「えっ」
「ああ、いや、不躾だな。すまない」
「いえ、そんなことは」
殿下の問いい答えようと、慌てて抱えていた本の表紙を殿下に見せる。隠すものではないし、会話のきっかけを作ってもらえるのは、むしろ有り難かった。「植物の本なんですけど」と口にした私に、殿下がゆっくりと瞬きをする。
「前節寝込んでしまったときに、お花をもらったんですね。とってもきれいなスミレで、すごく嬉しくて……。毎日大事にお水をあげてたら、随分長く咲いてくれていたんですけど、でも、それが先日とうとう枯れてしまって。そしたらちょっとだけ部屋が寂しくなってしまって……それでまた新しくお花を、と考えたときに、自分で種から育てるのって大変なのかな、と思って、それで、植物の育て方を知りたくなりまして」
私たちが当番制で水をやっている薬草たちは、ほとんど苗からだったし、水やり以外の雑多な手入れは温室の管理人さんがしてくれている。だから育った植物を簡単に得られているのであって、一人で全てやるとなると、やっぱり難しいんじゃないか、と思ったのだ。
そこまで一息に話してから、けれど我に返った。もしも殿下に、「植物のことならドゥドゥーが詳しい」なんて言われてしまったら、先日のやりとりの仔細を打ち明けないまでも、上手く濁して躱さなければならなくなってしまうと思ったから。
だけど殿下は、私の顔をじっと見たまま、考え込むように口元に緩く作った拳を当てていた。その目が僅かに見開かれていたのは、私の気のせいだったのだろうか。「殿下?」と呼びかけたら、殿下は一度大きく瞬きをして、きちんと私を見た。その後「ああ、いや」と、殿下は困ったように視線を彷徨わせる。
「……は、花が好きなんだな」
そう口にする殿下の顔が、いつもの殿下のものよりも微かに赤らんで見えたけれど、それはきっと、今日が酷く暑いせいだろう。「はい! 好きです」と答えたら、殿下はやっぱり、眉尻を下げて小さく笑った。黒く濃い影の伸びる、夏の午後だった。若草色の表紙の本は、私の汗で少しだけやわくなっていた。