コナン塔を拠点とする賊を討伐し、盗み出された英雄の遺産を取り戻すこと。
そう言い渡されてから数日が経っても、教室の空気はどこか澱んだままだった。本来ならきちんと流れるはずの空気があちこちで止められて、不純物として蓄積されているのが、肌で分かる。四隅に溜まるそれは先生にも殿下にも、勿論私にもどうすることもできないもので、私はせめて、ただ万事が最善になるようにと祈る他ない。こうなった時点で最善も何もないというのは重々承知なのだけど、それでも、と。
来たる日に足手纏いにならないよう、訓練を重ねる他ないのが情けなかった。私はそこにある傷に迂闊に触れることのないよう最大の注意を払いながら、ただシルヴァンくんを、それから彼を心配するイングリットちゃんを見守っていた。「歯痒いな」と殿下が言うのに、ただ頷くだけだった。この頃の訓練時、私はイングリットちゃんから五本のうち二本を奪えるようになっていたけれど、胸を張ることができるほど、私は視野が狭くも、おめでたくもなかった。
私がその日温室を訪れたのは、水やりの当番のためではなく、部屋に飾る花をもらうためだった。
書き物をするための机の上に置かれた一輪挿しは空になって久しい。イングリットちゃんからもらったスミレが枯れてしまって以降、部屋から色が一つなくなってしまったのがどうにも寂しく思えていたのもあるし、鬱屈した気分を変えたかったというのもある。
訓練続きの毎日ではなかなか花を見繕う余裕もなかったけれど、休日の今日は少し時間に余裕ができた。それで、ハンネマン先生への課題の提出を済ませた後、その足で温室へと立ち寄ったのだ。そこでドゥドゥーくんに出会ったのは、だから、全くの偶然だった。
「あれ、ドゥドゥーくん」
何かを思うよりも先にその大きな背に声をかければ、ドゥドゥーくんは私を振り向く。その手には如雨露があったけれど、体格の良いドゥドゥーくんが持つと、それはやっぱり小さくて、なんだか玩具みたいだった。
「…………か」
名前を呼ばれて、どうしてか胸が音をたてる。ドゥドゥーくんに呼ばれるには、私の名前はまだドゥドゥーくんの低い声に馴染んでいないみたいに、すわりが悪く聞こえた。何となく気恥ずかしくて小さく会釈をした私に、ドゥドゥーくんは静かな瞬き一つで応えるだけだった。
ドゥドゥーくんは寡黙な男の子だ。斧を使っての戦いも得意だけれど、料理や土いじりも好んでいるみたいで、そういうときは、比較的話しかけやすい空気を纏っていると思う。実際、料理が好きなアッシュくんと彼が話をしているのも、何度か見かけたことがあった。その時のドゥドゥーくんは、思いやるみたいに優しい目をしていた。
だけど、そうでなければ彼は殿下以外の人とはあまり話をしなかった。元々の性格もあるのだろうけれど、それだけではないことを私は知っている。誰かの耳打ちする声も、ドゥドゥーくんを見るイングリットちゃんの目に混ざった怒りのようなものも、そこにあるものすべて、わざわざ説明されなくても分かるから。
ダスカー人である彼は、多くの人から向けられる負の感情を一身に受けている。
「……お前は、今日の当番ではなかったと思うが」
「えっ?」
ぼんやりしていたところに不意に尋ねられて、ちょっとだけ慌ててしまった。
彼が言っているのは、温室の水やりのことだ。実際もう誰かが済ませた後だったのか、植えられた薬草たちの葉には、既に水滴が光っている。水分を含んだ土の匂いは温室いっぱいに広がっていて、私はそれを胸いっぱいに吸い込んでから、「うん」と、短く口にした。
「そう、当番じゃないんだけど。……今日はお花をもらいたくて」
部屋に飾っていたお花が枯れてしまったから、新しく飾りたいの。部屋にお花があると、ぱっと明るくなる感じがするよね。もしも何か会話が続くようだったらそんなことを言おうと準備していたのだけれど、ドゥドゥーくんは私の言葉に細やかな沈黙を作った後、「そうか」と頷くだけだった。肩すかしを食ってしまったようで、仕方ないから心の中だけで繰り返した。当たり前だけど、答えなんかなかった。それが何だか寂しくて、「ドゥドゥーくんはよくここにいるね」と言ったのだけど、会話は続かない。でも、これは私が悪いだろう。せめて質問をするべきだった。そうじゃなければ、答えがないのも無理はない。
硝子玉のような瞳はどこか作り物めいていた。ドゥドゥーくんが改めて私に背を向けるのを見送る。彼の耳朶で揺れている金の飾りは、この辺りではなかなか見かけないくらい、精巧な作りをしている。
私たち生徒が持ち回りで世話をしている薬草のある畝とは別に植えられたものを確認しているドゥドゥーくんとは、丁度一節前にもここで出会った。あの頃はまだレア様の暗殺の裏に隠された何かが全く見当も付かなくて、ドゥドゥーくんに色々話しかけてしまったっけ。そうしていないと落ち着かなかった、というのもあの時は勿論あったけれど、寡黙なドゥドゥーくんと一緒にいると、何だか張り詰めていた神経が少しずつ解れていくような感覚になる。もしかしたら、植物に囲まれているせいでもあるのかもしれないなともふと思ったけれど、殿下やフェリクスくんとここで二人きりになったらと考えたらそれぞれ違う意味で緊張してしまうだろうことは想像に難くなかったから、やっぱりドゥドゥーくんの雰囲気がそうさせるんだろう。土をいじるドゥドゥーくんの背中はどっしりと大きくて、私を安心させるから。
ドゥドゥーくんが自分の作業に戻ったのを見てから、そっと息を吐く。私も早く、本来の目的であるお花をもらっていこう。そう考えて、温室の奥の方へと進んだ。
温室には色んな花が咲いている。大きな花弁を持つもの、一つの枝に無数の花を咲かせるもの。香りだって、自分のことなんかどうぞおかまいなく、とでも言うみたいに慎ましいものから、誰にも分かるくらいに華やかなものまで多種多様だ。あのスミレは部屋の片隅をこっそりと彩るだけだったけれど、花が変われば雰囲気も大きく変化するだろう。飾り気のない一輪挿しはどんな花をも受け入れる寛容さを兼ね備えているように思えるけれど、それでもやっぱり好きな花を選びたい。
温室に咲く花を一つ一つ眺めていた私は、だけどふと、口を開いていた。思考と口とが、ほとんど一緒に動いていた。そういうところが、私の悪いところの一つだった。
「……お花を育てるのって、難しい?」
今温室には、私とドゥドゥーくんしかいない。
だから、私の質問がドゥドゥーくんに向けられたものである、ということは、ドゥドゥーくんも分かっているはずだった。ドゥドゥーくんが、小さく息を吐いたような気がして、それでちょっと、「あ」と思った。思ったけれど、撤回するのもおかしい気がする。私にも花が育てられるかどうか、なんて、でもそんなのただの思いつきだ。もしも自分で育てられたら、そしてそれを部屋に飾ることができたら、それってすごく素敵だなあって思っただけ。他の意図なんかなかった。ドゥドゥーくんを困らせるつもりも、なかった。
ドゥドゥーくんは答えない。立ち上がって、こちらを振り向くこともないまま、「」と呼んだそれは、やっぱり少し、硬かった。まだ私の名前は、ドゥドゥーくんの声に馴染んでいなかった。
ややあってから振り向いたドゥドゥーくんは、いつもと変わらない、聡く、静かな、けれど険しい目をしていた。ドゥドゥーくんはいつも、こういう顔で殿下の傍にいる。目の前にあるものの一切を見逃さないと言わんばかりに。覚悟の決まった目を、彼はする。
ドゥドゥーくんは、それからそっと口を開いた。一つ一つの音を指で触って確かめるみたいに丁寧な声だった。じんわりと染みこんでいくような音だったのに、それは私を拒絶した。
「おれとはあまり、話さないほうがいい」
それが私のためだと言いたいのだ、彼は。
ドゥドゥーくんは「おれは、もう行く」と呟くと、如雨露を道具入れに片付けて、そのまま温室を出て行ってしまった。私はいつかみたいにその後ろ姿を、ぼんやり見送っている。だけどあの時のように、「またね」と言えない。
ダスカーに生まれたドゥドゥーくんの髪は白く、緩く拳になったその手の平は、私のものよりも、ずっと色が濃かった。王国に育った多くの人は、彼を疎んでいた。