翠雨の節に入ってからというもの、ベレト先生は今まで以上に私に身を入れて指導をしてくれるようになった。
再誕の儀のときに私が皆の役に立てず落ち込んでいたのを先生が見抜いてくれたのか、というと、それはちょっと分からない。指導をしてくれる先生はそういう過去の出来事について言及することは滅多になく、朝も授業中も夕方も、淡々と私の相手を務めてくれるだけだったから。
足の動かし方、目線、振り終えた直後の身体の動き。一つ一つを丁寧に指導される。それは「良くなっている」とだけ言ってくれていた以前よりも、ずっと具体的なものだった。なかなかその通りに動けない自分が悔しかった。だけど、先生は根気強く傍に居てくれる。私が足手纏いにならないように、勝手に打ちのめされないように、と言うよりも、自分がそうするべきだと思っているからだ、と言わんばかりの目で、そこにいてくれる。
先生は普段から美しい佇まいをしているけれど、剣を持つと、その周囲の空気は一変した。しなやかな腕の動きに合わせて、先生の手にした剣は呼吸を与えられたようになる。頬を撫でていたはずの風は感じなくなり、ただ、薄い胸の間を冷や汗が伝っていくのを感じる。
訓練用の剣ですらその雰囲気に飲まれてしまうのだから、戦場で彼の前に立つ人は、どれだけの絶望を与えられることだろう。そんなことを考えていたら、「ちゃんと呼吸をして。相手だけじゃなく、視界の全体を見るんだ」と言われた。
「視野を広くすること。戦場は広い。目の前のことだけを見ていてはいけない」
先生は私が、そういう空気に飲まれるとほとんど動けなくなってしまうことを、どうしてか熟知しているようだった。
「はい」と返事をすれば、先生はその眉尻を微かに下げた。表情の変化が滅多に見られない先生のそれは、なんだか珍しいものであるように思えた。
先生の特訓が終わると、私はいつも、泥のように眠った。夢も見ないくらいだった。筋肉痛は段々少なくなって、徐々に身体は引き締まっていくようだった。前節から部屋に飾っていたスミレは少し前に枯れてしまって、そうするとどうにも部屋が殺風景に見えたのだけど、代わりに別の花を生けるような余裕も、今の私にはなかった。
自身の生家であるゴーティエ家から破裂の槍を奪ったマイクランさんは、現在ゴーティエの南に隣接するフラルダリウス領内にて根城を構えているらしい。
数百年前、国境を越える北方の民の監視と防衛のために作られた要塞の一つだったと言うコナン塔は長くその役目を果たしておらず、そのため賊が拠点にするのにうってつけだったのだろう。けれどフラルダリウス領に住まう民は、彼らの略奪行為に苦しんでいる。燃やされた村は後を絶たず、家や家族を失う者が大勢いるらしい。多忙を極めるゴーティエ辺境伯に代わり、フラルダリウス伯であるロドリグ様――フェリクスくんのお父様だ――がガルグ=マクに賊討伐の協力の申し出に訪れたのは、不思議なことではなかった。
「ご無沙汰しております、ロドリグ殿」
ロドリグ様にご挨拶に行きたいのだというイングリットちゃんに付き添って騎士の間へと向かったとき、私はそれはもう緊張していた。ちょっとお腹が痛いくらいだったのだ。イングリットちゃんと違って、フラルダリウス公とお話をする機会なんて、これが初めてだったから。
騎士の間は騎士団の詰所として作られた建物だけれど、小さな訓練場の奥には武術や戦術の教書やフォドラ各地の資料が保管されている。その本棚の前に、ロドリグ様はいらっしゃった。丁度、殿下と何かお話をしていたところだったらしい。ロドリグ様と殿下の目線が、こちらへと向けられる。
「おお、イングリット殿ではないですか。随分ご立派になられて」
そう言って顔を綻ばせるロドリグ様は、目元こそフェリクスくんに良く似ていたけれど、表情とか、雰囲気は彼よりもずっと柔らかい。勝手にフェリクスくんが大人になったような方だろうと想像していた私は、それだけで随分ほっとしたのだ。
イングリットちゃんとロドリグ様は、懐かしむような穏やかな目でお互いを見つめ合い、言葉を交わしている。そこに信頼以上の何かがあるように思えるのは、きっと彼女とフェリクスくんが幼馴染みであるということに起因しているのだろうな、とぼんやり考える。
殿下とフェリクスくん、シルヴァンくん、それからイングリットちゃんは、小さい頃から付き合いがあったらしい。以前殿下の言っていた「血は繋がらないけれど恩義のある人」というのも、もしかしたらロドリグ様のことなのではないだろうか。殿下が穏やかな顔で二人の会話を見守っているのを視界に入れながらそんなことを考えていたら、ロドリグ様の涼しげな目がこちらへと向けられて、思わず背筋を伸ばしてしまう。
「そちらのお嬢さんは」
微かに目を細められ、慌てて頭を下げた。「その、初めまして。ラルミナ男爵家の、=アンリ=ラルミナと申します」とご挨拶をすると、ロドリグ様は、そうと分からないほどの沈黙を作る。恐らく、私にしか分からないくらいの、細やかなもの。
そっと顔を上げたとき、薄い髭のあるその口元が、ああ、と動いたのを見た。記憶に引っかかっていた何かを思い出すというよりは、確かな温度の籠もったものだった。大事に置いておいてくれたもの。それを両手で丁寧に掬い上げるように、ロドリグ様はその薄い唇を開く。
「……では、あなたはキリアン殿の」
懐かしみ、慈しむように発音されたお兄様の名前は、それだけで、何か優しい糸に包まれたように思えた。こんな風にお兄様を呼んでくださる人に、お兄様が亡くなられて以後、私は初めて出会ったのだ。
微かに頷いた私に、ロドリグ様が、兄の冥福を祈る旨の言葉を捧げてくれる。すばらしい若者でしたと、言ってくださる。初めてお会いしたというのに、それだけで私はロドリグ様を好きだと思った。お兄様を覚えていてくださる人がいることが、何よりも嬉しかった。
ロドリグ様は、今回の問題が解決するまでは、そのままガルグ=マクに滞在することになった。討伐は今のところ翠雨の節の終わりに予定されているから、数週間は留まることになるのだろう。
家族が近くにいることが気恥ずかしいのか、或いは煩わしいのかは定かではないけれど、フェリクスくんはそれをとても嫌がった。ロドリグ様が良く顔を出す騎士の間には決して寄りつかなかったし、「万が一あの男に俺の所在を尋ねられても知らぬふりをしておけ」と先生に伝えているのに出くわしたこともある。びっくりしてその顔を見ていたらうっかり目が合ってしまって、舌打ちされた。ロドリグ様は決してそんなことをなさらない方だろうから、益々驚愕してしまう。私は未だに、フェリクスくんとの距離感を掴めずにいる。もうすぐで、入学してから半年が経とうというのに。
一方で、シルヴァンくんは授業にすらあまり顔を出さなくなってしまった。女の子を連れて歩くその表情はいつも私の位置からでは見えなかった。彼のことを思うには私たちは親密とは言えず、私はいつもその背を目で追いかけていただけだったけれど、イングリットちゃんはきっとそうではなかった。
花冠の節を思い出していた。私とアッシュくんが今もあそこから本質的には抜け出せていないように、彼らもまたそうなってしまうのだろうかと考えたら、胸が引き攣ったように痛んだ。