「それ」は嵐の吹き込む薄暗いコナン塔の中、皮膚が震えるほどの声とも音ともつかぬ叫びをあげながら私たちの前に現われた。
 表皮らしきもののない、剥き出しの骨と、肉と呼ぶには硬質に思える繊維でできた、人間の数倍の背丈がある巨体。獰猛な口からはみ出した夥しい数の牙は鋭く、雷で白く明滅する塔内で、血のような色をした目だけが爛々と輝いていた。躊躇なく仲間を薙ぎ払うその手に、最早理性はなかった。
 背を向け逃げ惑う賊たちを、それは次々と殺した。その手で殴り、柱に叩きつけ、壁に擦りつけた。その度衝撃で、古くなった塔の天井から粉状になった石が降った。悲鳴と血と肉片が舞っていた。先生が剣――レア様から渡されたもので、聖廟の棺にあったものだと聞いた――を片手に、私たちに向かって指示を出している。私はそれを、息も出来ずに見ていた。
 この一節の訓練の甲斐あって、ほとんど初めて戦場でまともに動くことができたっていうのに、それを全部、この朽ちた床に置としてしまったみたいに、私は一歩も足を踏み出せなかったのだ。
 翠雨の節の終わりだった。
 私たちが取り戻しにきたゴーティエ家の持つ英雄の遺産は、シルヴァンくんのお兄さんであるマイクランさんを飲み込んで、異形の、黒い獣の姿へと変えさせていた。








「……ゴーティエ家の英雄の遺産が?」



 書庫に向かうために中庭を歩いていたとき、ドゥドゥーくんと一緒にいる殿下に呼び止められた。翠雨の節に入ったばかりの、酷く蒸し暑い午後だった。
 直前に向けられた言葉を思わず聞き返してしまった私に、殿下は重々しく頷く。その顔は真剣そのものだったし、そもそも殿下がこういった冗談を言うなんてことはありえないのだけど、それでもすぐには信じられなかったのだ。ゴーティエ家の所有する英雄の遺産が、何者かに奪われてしまっただなんて。
 ほとんど平生と表情を変えていないドゥドゥーくんと殿下とを交互に見て、何度か口を開けたり閉じたりしてから、ようやくもう一度、言葉を作る。



「ぬ、盗まれた……って……? 本当に……?」

「……ああ。俺も今聞かされたんだが……間違いないそうだ」

「………………い、一体誰が」



 ファーガスには、英雄の遺産と呼ばれる特別な力を持つ武具を受け継ぐ家が複数存在する。最北に位置するゴーティエ家もその一つだ。
 古来、紋章と共に女神から授かったと言われるそれは、外敵からフォドラを守る為に振るわれ続けた。ファーガスという国が今も連綿と続いているのは、少なからず遺産の力のおかげでもあるだろう。結果、ファーガスは紋章至上主義とされるようになる。紋章がなければ遺産の力を扱えないのだから、当然のことなのだけど。
 一体誰がそんなことを。
 私が思わず口にしてしまった疑問は、何か思い当たる節がありながら敢えて口にしてみせた、なんて、そういう意図のあるものではなかった。私の家は王国南部に位置していて、一方件のゴーティエ辺境伯領は最北に位置する。いくらゴーティエ家が英雄の遺産を所有する十傑の一つであるとは言え、隣のローベ家、とりわけガスパールとのような関係を築くことはなく、私からしてみたら、ゴーティエ家は同じファーガスにある(ラルミナと比べるまでもなく重大な役目を持つ)一貴族、という認識でしかなかったのだ。勿論、お兄様であれば各ファーガス貴族の抱える問題を、きちんと把握していたのかもしれないけれど。
 私の問いに言い淀むように言葉を探していた殿下と、ドゥドゥーくんの目線が、私の背後にほとんど同時に移る。それに気がつくのと、私の視界に影が落ちるのはほとんど同時だった。



「殿下」



 振り向くと、視界にその赤は映った。
 私はこれまであまり彼と話したことはない。彼の周りにはいつも大勢の女の子がいたし、そうでなくても彼の幼馴染みであるイングリットちゃんが良い顔をしなかった。彼が私に何か用事があって話しかけるときもイングリットちゃんがいつも一緒にいてくれて、だから個人的に親睦を深める、ということは、ここに至るまでしていない。何度か、私が荷物を抱えているときに代わりに持っていってくれたりしたから、良い人なんだとは思っているけれど。



「シルヴァンくん」



 びっくりして思わず名前を呼んだら、その垂れ目がちの瞳が私を一瞥した。目が合った瞬間少しだけ、その瞳が細められる。けれどすぐにそれは、殿下へと向けられた。いつもの彼よりも、それはどこか、取り繕ったもののように見えた。



「……うちの馬鹿兄貴が、すみませんね」



 笑みの形を作るその唇が、微かに震えていたのを、殿下もドゥドゥーくんもきっと、気がついていた。



「俺が、ちゃんと兄上の尻拭いをしますから」



 柔らかな芝生の上に落ちていくには、その声は、少しだけ強張っていた。








 ゴーティエ家に伝わる英雄の遺産である「破裂の槍」が、屋敷に侵入した賊によって奪われたというのは、セイロス教会にとっても重大な問題であるらしい。
 遺産一つが持つ力が強大すぎる故に、一領主の力で解決できるものではないと考えているのだろう。しかし現在セイロス騎士団は西方教会の件で立て込んでいる。そのため、前節敵の目論見を暴き、聖廟にてそれを阻止したベレト先生が担任を務める青獅子の学級に、課題として賊の討伐が指示されることになったのだ。
 賊を率いる頭目の名はマイクラン=アンシュッツ=ゴーティエ。
 三年前にゴーティエ家を廃嫡された、シルヴァンくんのお兄さんだった。



「……彼は、紋章を持っていなかったんです」



 傾いた日の中、寮までの道中を、イングリットちゃんはぽつぽつと話しながら歩く。
 教室にやって来た先生が今節の課題について言い渡したとき、私はイングリットちゃんが微かに俯くのを見た。フェリクスくんは小さく舌打ちをして、殿下は気遣うようにシルヴァンくんに目線を寄越した。それらの全てに気がつかないふりをするように、シルヴァンくんは真っ直ぐ、先生の顔を見つめていた。
 幼馴染みである彼らの間に横たわる日々を、外にいる人間が触れて、分かった様な気になるなんて烏滸がましい。だけどイングリットちゃんは、私がそう考えているのを分かっていて尚そうしているのだと言うように、そこにあるものを撫でながら、話して聞かせてくれる。それがどうしてか、胸を締め付けられるようだった。



「ゴーティエ家は特に、侵略してくるスレンから王国を守らねばなりません。破裂の槍を扱えることが、何よりも家督を継ぐ者として重要視されるのです。ですから……」



 掠れる言葉の続きは、聞き届けなくても理解できた。
 シルヴァンくんは、その身体に紋章を持って生まれた。紋章の有無がゴーティエ家の、いや、ファーガスの存亡にかかわる以上、彼の誕生がどれほど待ち望まれていたか。そして、一方でそうではなかった彼の兄がどのような扱いを受けるに至ったかは、想像に難くない。
 紋章が全てを左右するのは珍しいことではない。王家だって例外ではないのだ。むしろ、その筆頭と言うべきなのかもしれない。実際ダスカーの悲劇で亡くなられた前ランベール王は第二子であったし、現在空位である王の代わりとして摂政を務めるリュファス様は、その兄だ。ブレーダッドの紋章を持つ者でしか王位を継げないことが、そこに顕著に表れている。
 痩せた大地、寒さに喘ぐ王国において、紋章の力がどれだけ人々の救いになったかを無視することはできない。だけど、シルヴァンくんの背を見ていると、どうしても苦しくなる。何かが一つでも違っていたら、何もかもが上手くいく未来があったかもしれないのに、って、そんなことを思ってしまう。
 イングリットちゃんの方が、私なんかよりもよっぽど心を痛めているのだろうけれど。
 ちらりと隣を歩くイングリットちゃんを見る。包帯の外れた腕は、よく見ると、薄ら傷痕が残っている。それが私にはまるで、彼らの置かれた境遇を物語っているように思えた。


PREV BACK NEXT