太陽が落ち、薄暗くなり始めたガルグ=マクは、人の気配も疎らだ。
 女神再誕の儀式も滞りなく……とは言い難かったけれど、どうにか終わった。カトリーヌさんたち数人の騎士が私の要請を受け聖廟へと向かった後、女神の塔もまた何者かに襲撃されたと言うのだから、混乱が起きなかったと考える方がおかしい。そちらはセテス様や残ったセイロス騎士団、他学級の生徒たちが収めてくれたらしく、レア様は勿論、大きな怪我を追うような人もいなかったらしい。
 信徒は戦いに巻き込まれることもなく、今はそれぞれ帰路に就いている。彼らがその仔細を知ることがあるとするなら――それは「知る」と言うよりも「察する」に近いものだとは思うけれど――事を起こした、西方教会の司祭らが処断された後になるだろう。
 ローベ伯領の東に領地を持つ西方教会。そこに属する彼らがロナート様の叛乱から始まる今回の一連の件にかかわっていたことはセテス様の調べにより間違いないとは言え、何を目論んでいたのかは、杳として知れない。セイロス教の権威たるレア様に叛意を持ち、儀式を穢したその罪は、彼らの命で贖われることになるだろう。ロナート様がその首を切られたように。
 中庭の椅子に座り、腿の上に緩く組んだ手を見下ろす。一人分の長い影が、手入れされた芝生の上に伸びている。日中は眩暈がするほど暑かったと言うのに、日が翳れば随分過ごしやすかった。頬を撫でる風はぬるく、私を労るように優しい。無意識に吐いた息は、だけどほとんどため息と変わりなかった。
 食堂では他学級も交え、皆が今日のを労をねぎらっている。私も途中までは一緒に食事をしていたのだけど、皆の顔を見ているうち、どうしてもご飯が喉を通らなくなってしまった。お祭りの日、っていうのもあってか、とても美味しい食事だったのに、食べているうちにお腹のあたりがむかむかして、どうしようもなかった。それで、イングリットちゃんが他の学級の女子生徒に声をかけるシルヴァンくんに気を取られているとき、こっそり席を立ってしまったのだった。メルセデスちゃんとアネットちゃんに、ちょっと風に当たってくると一言断りを入れはしたけれど。



「……はぁ」



 食堂から聞こえる賑やかな笑い声に紛れるように吐いたはずのそれは、存外、はっきりと耳に残ってしまった。
 私はやきもきしている。自分の内側にいくら仕切り壁を作っても、隙間から漏れ出てくる靄を抑えることができずにいる。
 聖廟での戦いは終わった。先生も殿下も皆も誰一人欠けることなく、敵の狙いであったと思われる棺を守り通し、生き残った侵入者は後から到着したカトリーヌさんたちセイロス騎士団が取り押さえた。私はそれを、カトリーヌさんたちと共に下りてきたばかりの階段を背に、ただ見ていたのだ。地上と違って薄暗い聖廟は、血の臭いで充満していた。微かな吐き気を催すほどだった。だけど、口や鼻を押さえることなんてできるはずがなかった。皆は生死にかかわるような重大な怪我をしていないというだけで満身創痍だったし、その足元には多くの、もう動かない肉の塊が転がっていた。殿下の青い外套は、その中で、代えのきかない貴いものとしてそこにあった。見慣れない剣を手にしていた先生を、殿下はずっと見ていた。私たちの到着にも気がつかずに。
 あの時私だけが、円形に作られた安全地帯にいた。それだけは間違いなかった。



「ん?」



 視線を足元に落としたままでいたせいか、どうにも気持ちが晴れなかったせいか、私はそこに自分ではない何者かの影が落ちるまで、その人の存在に気がつかなかった。「よ」と短く声をかけられ、そっと視線を上げる。橙色と薄い紫とが混じり合う空の下に、彼女はいた。



「カトリーヌさん」

、アンタ一人か?」

「はい」



 昼間、女神の塔で行われていた儀式の際にも着ていた手入れの行き届いた鎧に身を包んだまま、彼女は私に「こんなところで何してるんだ?」と尋ねた。その目線が一度食堂の方角へと向けられる。「どうしてあっちにいないんだ」って、言いたいんだろう。だけど、言葉は上手く出てこなかった。何と答えても、決まり悪いものにしかならない気がしたのだ。
 だって、どう伝えろと言うのだろう。「居心地が悪くて」も「食欲がなくて」も、カトリーヌさんに口にするには個人的で、言うのが憚られた。信頼していないわけではない。私は聖騎士としての実力を備えたカトリーヌさんを尊敬しているし、彼女自身のことだって好きだ。口ごもってしまうのは、だからこそなのだ。
 自分が随分と子供じみた感情を抱いていることを、私は自覚していた。
 いくらそれっぽい言葉で取り繕っても、結局私は拗ねて、落胆しているのだ。たくさん訓練をして、命を背負うだけの覚悟もして今日を迎えたのに、私だけが戦場から離脱させられた。戦力外であると指摘されたことに落ち込んでいて、そしてそれと同じくらい、失望している。戦わずに、今回も死なずに済んだと安堵している自分がいることに。
 そんなの士官学校の学生として、全く相応しくない。



「腹、空いてないのか?」

「……お腹は……そう、ですね、今は」



 歯切れ悪く目線を落とした私に、カトリーヌさんは首を傾げたらしかった。視界に入った影の動きだけで、それが分かったのだ。だけど、私は再び顔を上げることになる。カトリーヌさんが口にした言葉によって。



「じゃあ、一丁前に反省か?」



 カトリーヌさんの瞳が、真っ直ぐ私を見据えている。
 日に焼けた肌に、首の後ろでまとめられた髪。その中で、睫毛に縁取られた瞳は力強かった。同情や思いやりが込められたものでは、決してなかった。頬が熱くなったのは、彼女の言葉に殴られたように思ったからだ。だけどカトリーヌさんは、小さく首を振った。別に侮蔑でも揶揄でもないのだと、そう言われた気がした。



「アンタが落ち込む必要なんか、一つもないだろ」



 カトリーヌさんがどこまで私の心情を汲み取っているのかは定かではない。けれど、それでもその何の裏表もなさそうな物言いに、ごわごわしていた心に一滴の水が落とされたような気になる。



「……そう、でしょうか」



 思えば、カトリーヌさんには「こういうところ」を見られてばかりだった。マグドレド街道で行軍について行けず、カトリーヌさんが馬を飛ばしてくれたことは記憶に新しい。今日は今日で、戦いに参加すらさせてもらえずに伝令のために走った私を間近で見ているのだから、私がこうして皆の輪から離れて項垂れていれば、察するものもあるのだろう。
 カトリーヌさんの瞳が、何か適切な言葉を探すように宙を彷徨う。何度かそれが瞬いて、「あー」と場を繋ぐための言葉が発せられるのを、私はじっと聞いていた。それはそこに何か大切な教えがあるのを待つ、生徒のようだったのかもしれない。私が従順にそうしていることに気がついたらしいカトリーヌさんは、そっと眉を八の字にした。



「……アタシはアンタのとこの先生とは違うからさ、気の利いたことは言えないが……武器を持って戦うのも、アンタがやったみたいに伝令として動くのも、部隊には必要なんだよ」



 結果を見れば、実際誰一人犠牲にもならず、侵入者を捕らえることができた、そうカトリーヌさんは続ける。
 沈みゆこうとしている太陽を、カトリーヌさんは背負っていた。殿下のものより少しだけ色素の薄い金色の髪は少しだけ透けていた。うつくしいものだった。瞬きをした瞬間、喉の奥が微かに痛む。



「アンタはアンタのできることを最大限やったんだから、胸を張りゃ良いんだって」



 今の私にとっては、もしかしたら、それこそが一番欲しい言葉だったのかもしれなかった。








 聖廟での戦後の処理を終えて再会したとき、イングリットちゃんの腕には、痛々しい包帯が巻いてあった。



「見た目は大袈裟ですが、大したことはないのですよ」



 利き腕でもありませんしね、そう言って微笑むイングリットちゃんを前に、どうして後悔せずにいられただろう。
 もし先生の指示に首を振ってイングリットちゃんの傍にいたら、イングリットちゃんは怪我をせずに済んだだろうか。自分の身だって守れるか怪しいくせに。そんなことを考えて、気持ち悪くなった。何が正しいのか、分からなくなってしまったのだ。
 でも、カトリーヌさんは「これで良かった」って言ってくれた。あれが私のできる最大限であったと。戦場における「もしも」なんて、結果の前では何の価値もないと、諭すように、そう教えてくれた。
 カトリーヌさんに背を押されるようにして食堂に戻ったとき、私を探していたらしいイングリットちゃんと目が合った。イングリットちゃんの瞳が安堵と喜びに見開かれるのを見て、私はどうにか、ぎこちなく笑みを返した。左腕に巻かれた包帯は痛々しく、私はそれが視界に引っかかる度に胸が痛くなるけれど、それでも自分が選んだ道の先を歩くしかないのだろう。これからも。
 後悔なんか、もっと先に取っておけよ、最後にそう言ったカトリーヌさんの声を思い出す。その表情は、逆光で見えなかった。だけど、その絵ごと、私の記憶には強く残ったのだ。まるでその瞬間を切り取って、直接瞼に貼り付けたみたいに。


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