横っ腹が痛い。
息はもうとっくに切れているし、酸欠で頭がくらくらしてくる。
皆の後に続いて階段を下りていくときは、その長さもさして気にはならなかったはずだったのに、今はどうしてこんなに果てしなく、終わりがないもののように思えるのだろう。一段一段の幅が妙に広いのが煩わしくて、必死で駆け上った。何度か踏み外しかけたけれど、すんでのところで転ぶのを耐えた。
早く行かなくちゃ。騎士団の人なら誰でもいい。でも、できたらすぐに動ける人、状況を即座に察してくれる人。助けてくれる人。
地下と地上を繋ぐ階段には、私一人分の足音だけが反響していた。爆発音と共に、灯りの乏しい石作りの壁と天井を白くするのは、階下で起きた魔法の明滅だ。多分、あれはアネットちゃんのもの。だから大丈夫。そう言い聞かせるしかない。
ようやく階段を上りきった私は、震える手で大聖堂へと続く扉を開ける。夏の匂いと光、熱気、濃い人いきれ、地続きの現実のはずなのに、まるで世界が違って見えた。
信徒でごった返す大聖堂の隅、私はそこに見知った人の姿を見て、逸る気持ちのまま思わずその細い肩に手をかけてしまう。
「うわっ」
声をあげた彼は、思わずと言った様子でその褐色の手を自身の口元に押し当てた。小柄な身体。私よりも低い場所にある飴色の目が、驚きに見開かれたまま振り向いて私を見る。
「アナタは確か……青獅子の学級の」
「おねがい、たすけて!」
喘ぎながらそう訴えたとき、レア様の従者であるパルミラ人の少年――ツィリルくんは、「は?」とその眉を八の字にさせた。
それは、今から数分ほど前のことだった。
「は、戻って騎士団に援軍を頼んでもらえないか」
「えっ」
ベレト先生が、私にそう言ったのだ。
先生の私を見る瞳は真っ直ぐだったけれど、どこか疲労のようなものがそこに滲んで見えたのは、私の気のせいだったのかもしれない。
先生の身体の奥にある光景に、一瞬だけ目を走らせる。私たちが到着するよりも早く聖廟に忍び込んでいたのは、一人や二人ではない。セイロス様の眠る棺の前に立つ魔道士然とした人間の他にも、そこには大勢の兵士がいた。恐らく信徒を装ってここまで潜り込んだのだろうが、私が思っていた以上に数が多い。
その中で一際異様に見えたのは、棺と入り口の間に立つ、仮面をつけた騎士の存在だ。遠目からでも、その手にある三日月型の鎌のような形をした槍の禍々しさに、背筋が粟立ってしまう。その姿は小さい頃読んだ物語に登場する死神を彷彿とさせた。あの鎌が自分の首を浚う絵があまりにも鮮明に脳裏を過ぎって、それだけで足が竦む。
先生が私に「ここを離れて援軍を呼んでこい」というのは、間違ってない、先生は、こういうとき、間違わないから。大樹の節から一緒に過ごしていて、いくつかの戦場を歩いて、私はもうそう確信している。先生を信頼している。だけど、すぐには返事ができなかった。言葉に詰まってしまったのだ。私も戦う覚悟をしたつもりでいたから。けれど。
「俺からも頼めるか、」
私の中の恐怖心を見透かすみたいに、殿下がそう言った。
首を横に振るなんてことは、できるはずがなかった。どうにか頷いた私に、どこか安堵したように目を細めてくれた殿下の顔が、ずっと目の裏側に張り付いている。
時機の悪いことに、丁度再誕の儀式が始まったところだったらしい。
私のぐちゃぐちゃな説明で、すぐに理解してくれたツィリルくんは、賢い子なのだろう。彼は私に、今はほとんどの騎士が、レア様の護衛のために女神の塔に詰めているのだと教えてくれた。ツィリルくんは一応、騎士見習いのという立場ではあるけれど、従士というのはそもそも序列が低い。「だから大聖堂にいたんだね」と言ったら、ツィリルくんはちょっとだけ困った顔をして、「そうかもね」と言った。彼の肌の色に目を落とさないように、その瞳だけを見ていた。
「女神の塔に行けば、カトリーヌさんたちがいる。ボクは……入れないけれど、アナタだったら問題ないはずだから、呼びに行って」
ボクは代わりに、一般の人が入らないようにここを封鎖しておく。ツィリルくんはそう続ける。
「もし増援のための敵が紛れ込んでいても、それなら入れないでしょう? その人達だって、ここで騒ぎを起こすわけにもいかないだろうから、無理に通ろうとはしないだろうし」
「ありがとう! すごく助かる……」
「ううん。いいから、早く行きなよ」
「うん、いってきます!」
ツィリルくんに最後にもう一度頭を下げて、私は再び駆け出した。
信徒の人たちの間を縫おうとしてはぶつかって、ごめんなさい、すみません、と何度も謝った。靴の踵を踏まれて、脱げかけた。それでもどうにか女神の塔へと続く出入り口まで何とか辿り着いたとき、強い陽の光に目が眩む。
そこに広がっていたのは、目が眩みそうなほど高い空だった。この手の平にその青を留めておきたいと願ってしまうほどに、美しい色をしていた。
吹き抜ける風が、髪を浚っていく。制服の裾から、それは私を諭し、慰めるように優しく吹いている。塔から響く鐘の音は、いつにも増して荘厳だった。この地下で、今、先生や皆が戦っていることが信じられなかった。
目の奥が、じわりと熱を持ったのは、どうしてだろう。
「いかなきゃ」
天に向かって高くそびえる女神の塔へと向かって、駆け出す。
腰には今も、無用の剣がぶらさがっていた。螺旋階段を上りながら、私はもう、ほとんど泣きそうだった。こんなことでしか役に立てないなんて、とちらつく思いを、足に力を込めることで、かき消した。
「苦肉の策よのう」
敵兵を切り伏せ、イングリットやシルヴァンに指示を出した直後に響いた幼い少女の声に、瞬きだけで返す。
ソティスが何の話をしているのかすぐには分からなかったのは、戦闘が始まってからそれなりに時間が経っていたせいだろう。だが、次の言葉で彼女が言わんとしていることは分かった。
のことを言っているのだ。
「些か強引ではあったが、ま、ああする他あるまいて」
緊張と恐怖でまともに動くことのできない生徒を守り切れなかった。それは、自分の責任だろう。どうしたって彼女は死んだ。炎に焼かれ、弓で射貫かれ、槍で腹を貫かれた。後衛に置いておけば、後からの増援に囲まれた。
この戦場から離脱させなければ、は生き残る道がなかったのだ。
自分が悪い。の心の内まで、汲み取ってやれなかった。自信をつけさせることができていなかった。彼女は人を切る覚悟はできていたようだったけれど、己の剣の腕を過小評価していた。それで普段よりも、全く動けずにいたのだ。
「……あれは次の課題だな」
誰にも気取られぬよう、小さく呟き、こっそり息を吐く。あの棺に眠っているであろうセイロスなる人物もさして知らない自分には、敵の狙いは勿論、その正体も全く分からない。それでも今はただ、「次」へと向かえるよう、目の前の敵を切る他ない。
仮面をつけ、三日月の鎌を構えたまま泰然と戦場に立つ男を視界に入れた。「傭兵」であればいざ知らず、「教師」という今の自分の立場を思えば、彼とは剣を交えない選択をする方が賢明だろうと、そんなことを考えていた。