女神再誕の儀当日のガルグ=マク大修道院は、市場も、大広間も、勿論大聖堂も、どこも人で混雑して賑やかだ。
普段とさして様子の変わらない場所と言ったら、学生の寮や教室のある側の区画くらいだろうか。しかし「さして変わらない」と言っても、勿論そこに広がる空気はいつもと違う。濃い人の気配は、教室にいても空気に運ばれてくる。
警戒しなければならないことなんか何もない例年と変わらない祭日だったら、信徒として訪れる側ではなく、迎える側として楽しめたはずなのに。だけどそうもいかない。背筋を意識的に伸ばしながら、そっと息を吐く。
今日の最終確認のため、青獅子の学級に所属する生徒たちが喧噪から離れた教室に集まったのは儀式の始まる一刻ほど前のことだった。殿下と先生を中心に円になるように顔を合わせるのも、今となっては慣れたものだ。それでも落ち着かないのは、ガルグ=マク全体が、祭日の賑々しさや高揚感に混ざり込むには相応しくない緊張を孕んでいるせいだろう。そわそわしているのは私だけで、皆は決して、そんなことはないようなのだけど。
一人も欠けないていないことを確認した殿下が、私たちの顔を見回して「よし」と口にした瞬間だった。
「こっちはなあに?」
「わっ」
突然その場にそぐわない無邪気な声が響いたのに、思わず声をあげて肩を震わせてしまう。慌てて口を押さえながら入り口の方を振り向けば、少し癖のある金の髪をした、品の良さそうな男の子がいた。貴族の子供が見学がてら、好奇心のままに教室にやって来たのだろうか。
男の子は青獅子の学級の教室内を、きらきらした瞳でぐるりと見回すのだけど、その直後、母親らしき女性に手を引かれた。後ろ髪を引かれる様子でこちらを幾度か振り返りながらも大聖堂の方角へと向かう男の子に、メルセデスちゃんが緩く手を振っているのを、私はどことなく落ち着かない気持ちで、そわそわしながら見つめている。
「あらあら〜。あの男の子、とっても可愛いわ〜」
そう呟くメルセデスちゃんは、ずっとその子の背を見守っていた。メルセデスちゃんがあんな風に、何か宝物にするみたいにして子供を見送るのは、もしかしたら、彼女が教会で暮らしていた、っていうのも関係しているのかもしれない。
私も子供は好きだけど、メルセデスちゃんみたいにあの子に気を割く余裕が、今の私にはなかった。
「……さて」
子供の姿が見えなくなった頃、仕切り直すように、殿下が咳払いをする。
「儀式は間もなく始まる。打ち合わせ通りにいこう」
その声は、すかすかになっていた私の隙間を一つずつ埋めていくように柔らかかった。
打ち合わせ通り。つまり、大聖堂の地下にある聖廟に狙いを定め、全員でそこに向かうということだ。
もしも敵の目的となる場所を間違えていたら大ごとだから、万が一に備えて私たちは情報収集を続けて居たのだけど、他の可能性の芽を潰せば潰すほど、敵の狙いが聖廟以外にないのではないかという結論に至る。畢竟、今の私たちは確信を持って聖廟に赴くことができるのだけど。
「問題はない」と続けるベレト先生のその力強い言葉にも背中を押されはするものの、それでもやっぱり緊張は収まらない。手汗も酷いし、気を付けていないと、膝が震えそうになる。戦いになったらどうしよう、って思ってしまうのだ。
訓練はした。剣は体調が良くなって以来毎日振っているし、先生にも最近は「うん、良くなっている」って言われるようになっている。物凄く調子が良い日に限って言うならば、イングリットちゃんからもかろうじてではあるけれど一本取ることもできるようになった(その一本っていうのも、五本中の一本の話だ、勿論。)殿下にも、そういうときは褒めてもらえる。
でもその「物凄く調子が良い日」が今日である可能性はそんなに高くないだろうし、訓練ではなく実戦となると話は別だ。今からこんな風に緊張していたら気力も体力も無駄にすり減ってしまうのは分かっているのだけど、どうしても落ち着かない。
「君達、まだここにいたのか」
「皆さん、ごきげんよう」
偶然この辺りを通りかかったついでだったのか、セテス様とその妹であるフレンちゃんが教室を覗いたのは、丁度そのときのだった。「他の学級は、もう各自動いているようだが」と言うセテス様の言葉通り、両隣の学級から人の気配はない。
セイロス教会の頂きに立つレア様を補佐する立場にあるセテス様はやっぱり威厳があって、同じ空間にいると妙に空気が引き締まるように思う。いつもと全く変わらない様子でセテス様と話をするベレト先生が、異質なのだ。
セテス様自身、レア様暗殺の件に関しては実現性が乏しいと踏んでいるらしく、動揺している様子は一切なかったけれど、それでも首謀者を捕らえ、実情を暴きたいとは考えていらっしゃるのは間違いない。
「気が緩んでいる生徒もいるようだが……。ベレト、我々が女神の塔で儀式を執り行っている間、君が生徒たちを指揮するのだぞ」
「ああ、まかせてほしい」
ふと顔をあげたとき、セテス様の後ろに立ち私たちを見守るようにいるフレンちゃんが視界に入った。フレンちゃんはどこまでも愛らしいまま、穏やかに微笑んでいた。それが私にはなんだかすごく眩しくて、とうといもののように思えた。
一般の信徒たちは皆、大広間を通り抜けて大聖堂へと向かう。
橋を渡って大聖堂の建物を正面にしたとき、左手側奥にあるのが女神の塔で、右手側奥にあるのが白の塔なのだけど、今回儀式が行われるのは、セテス様も仰っていたとおり、女神の塔である。
大聖堂にて祈りを済ませた後、そこで行われる儀式に参列する信徒もいるけれど、そのまま大聖堂を見学をする人の方が圧倒的に多いのは例年と変わらないらしい。おかげで聖廟へと続く扉に向かうのには少し苦労してしまった。
他の二学級もそれぞれ別の場所を警戒しているとは言え、制服を着込み、列を成して聖廟へと向かう私たちは少し周囲から浮いて見えただろう。だけど一般の信徒の方の不安を煽ってはいけない。私たちは意識的に物々しい雰囲気にならぬよう努めたのだけど、どうしても気は急いていた。
聖廟に到着した後は、階段下に待機。入り口を見張り、怪しい者が居れば後を追って捕まえる。
殿下の説明を心中で反芻させながら、皆に続き階段を下りた。何度か足がもつれてしまったのは、やっぱり、未だ緊張しているせいだ。「わ」と殺しきれなかった声を聞いたのか、前を歩いていたイングリットちゃんが振り向く。
「、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫! ちょっとつんのめっただけ」
それだけだから! と、心配してくれているであろうイングリットちゃんに、なるべく力強く見えるように大きく頷いた。
腰に下げた剣は重く、その存在を主張している。イングリットちゃんはまだ眉を下げていたけれど、やがて「ならばいいのですが……」と呟くと、視線を前方へと戻した。
もしも、というか十中八九敵は聖廟にやってくるだろう。そう考えると落ち着かないけれど、でも捕まえるだけでいいんだったら、よっぽどましだ。そう考えるようにする。マグドレド街道での戦いは、どうしても最終目的が「ロナート様の処断」だったから、気が重いどころではなかった。けれど捕まえるということを前提にするなら、戦いになる前に敵を捕縛してしまえば良いのだ。
だけど、と考える。
こんな風に大事になってしまった以上は、最終的に私たちが捕まえた人たちは教会によってその責を問われることになるだろう。つまり、恐らく、良くて投獄、悪くて処断だ。そう考えたら、やっぱり気持ちが小さくなってしまった。皆と一緒に、頑張って前に進もうと思ったのに。
ああ、どうしよう、こわいな。憚らずに思ったとき、前方を進んでいた殿下が学級全体を見回すように振り向いた。だけど、彷徨っていた視線はすぐに、私で止まったのだ。思い違いではなかった。殿下はそのまま、私を安心させるみたいに小さく頷いた。それはまるで、私の不安に応えるみたいだったのだ、なんて言ったら、あんまりにも都合が良すぎるな。
敵の狙いは果たして聖廟であったことに間違いはなかったのだけど、私たちは一つ、計算違いをしていた。
彼らは儀式が始まるのを待たずして、聖廟に忍び込んでいたのだ。
階段を下りきった先に広がる光景を前に、私たちの戦闘にいた殿下と先生はそれぞれ武器を構えた。聖廟最奥にある棺の封印を解こうとする仮面の魔道士が振り向いたのを、私は彼らの背中越しに、ほとんど息を止めたまま見ている。