「、昨日は約束を果たせず、本当にすみませんでした……」
教室前の中庭で出会って早々、きちんと頭を下げて謝罪するイングリットちゃんに私はすっかり慌てててしまった。「そんな、気にしないで。私も先に帰っちゃったし……!」と首を振った私を、イングリットちゃんは申し訳なさそうに、整った眉を八の字にして見つめている。
「言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが」と切り出したイングリットちゃん曰く、ベレト先生が見つからず散々探し回った結果、用件が思った以上に長引いて、気がつけば陽も暮れてしまっていたのだとか。一応全て終わった後で教室に顔は出したけれど、陽の落ちた教室に私はおらず、また寮の部屋も灯りが消えていたため、声をかけられなかったのだとイングリットちゃんは説明する。
殿下に宥められるままイングリットちゃんを待たずに部屋に戻ったのは私だし、泣き疲れてそのまま寝台に潜って眠りこんでしまったのも私だ。どちらかというと、謝るなら私の方だろう。
「私の方こそ、先に帰っちゃってごめんね。……また付き合ってもらえたら、嬉しいな」
イングリットちゃんの目を見てそう言ったら、イングリットちゃんはややあってからくすぐったそうに笑って「はい、喜んで」と言ってくれた。その瞳の中に映る自分の目が、思ったよりも腫れていなかったことにほっとする。もしわかりやすく目をしょぼしょぼさせていたら、イングリットちゃんは私を心配して、真っ直ぐに理由を尋ねてくれただろうから。
全部をイングリットちゃんに打ち明けるには、まだ、自分の感情を多う膜の輪郭がぐにゃぐにゃして心許なかったのだ。
私は殿下が好きだ。
好き、っていうのは、人として、っていうのも勿論そうなんだけど、それよりももっと特別で、個人的な感情。要するに、男の人として好き、ってこと。
それを自覚した結果困ることといったら、私が必要以上に殿下を意識してしまうことだった。
視界の端にいれば追いかけてしまうし、そのくせうっかり目が合いそうになったら、分かりやすく逸らしてしまう。声が聞こえると耳を欹ててしまうし、訓練をお願いするときは、今までの五倍は緊張する。生活に支障を来すところまではいっていないと思うけれど、自分の感情を自覚しただけでこんなに生きづらくなるとは思わなかった。
殿下は、「級長として」私を思いやってくれただけに過ぎないのに。
だけど、自分の中のどろどろしたものを殿下の前に並べたとき、私は身体の内側に抑え込んでいたものが浄化されていくように思ったのだ。ロナート様のこと、この前の戦いでのこと、私の足首を掴んでいた事象たちは、過去のものとなって昇華されようとしている。忘れるわけではない。あれらは今、私自身と渾然一体となりかけている。傷ごと飲み込んで、私は自分の皮膚にそれを刻み付ける。失った人の魂を、自分が奪った命を、きちんと背負うように。
皆も、恐らくこうして前に進んでいるんだろう。漠然とだけど、そう思った。人を殺すことが避けられないのなら、せめてその死体の数の少ない未来であるようにと、きっと誰もが願っている。殿下も、きっと。
訓練の授業中、ぼうっと見ていたら、殿下と目が合ってしまった。殿下は少ししてから、薄く微笑んだ。胸がいっぱいになるような感覚に、やっぱり好きだと思う。それを伝えるつもりは、全然ないのだけど。殿下と同じ学級で学べて、傍で見ていられる。こうして笑いかけてもらえるだけで、私にはもう、充分すぎるくらいだから。
殿下はいつも燦然と輝いていた。いっときでも、この手を握ってもらえたことが嬉しかった。例えそれが級長としてであろうと、私を引きずりあげてくれた手の感触を忘れずにいられたら、それだけで良いと思った。
そうして日々を過ごしながらも、私たちには考えなければならないことがあった。レア様暗殺の裏で実行されようとしていること、その場所だ。
女神再誕の儀に関してや、ガルグ=マク大修道院について先生の元に集まった様々な情報を比較し精査した結果、浮かび上がったのは聖廟だった。
聖廟というのは、ガルグ=マク大聖堂の奥に存在するお墓だ。そこには予言者であるセイロス様が眠る棺があって、普段は誰も入ることができないのだけれど、女神再誕の儀であるその日だけは一般開放されることになっている。
セイロス教会にとって最も重要と考えられるそこを、敵は狙っていると考えられる。そう先生は言った。
「だけど、どうして聖廟なんでしょうか。だって、公開されると言ってもセイロス様の棺が開くわけでもないですよね?」
「うん。あの棺は、何でもものすご〜く強力な魔法で封印されているって話だもの。それに他に狙われるような貴重なものなんかも、なかったと思う」
思わず口にした私の疑問を、アネットちゃんが補足してくれるのは心強かった。
私も例年、この日はガルグ=マクに足を運んでいたものだから、敵の狙いが聖廟である、ということに、つい首を傾げてしまったのだ。
聖廟は大聖堂の奥にある扉の先、長い階段を下りたところにある、殺風景な場所だ。夏でもびっくりするくらいひんやりしていて、開放されるって言っても、そこまでわざわざ行く信徒も珍しいくらい。私も、儀式が行われる女神の塔や大聖堂と違って、聖廟には一度しか足を運んだ記憶がない。まだ小さかったから、こわい、早く帰りたい、と我儘を言って、両親や兄様を困らせたのだ。
一人で当時のことを思い出して勝手に恥ずかしくなっていたら、ベレト先生が「目的は分からないが」と私たちに緩く首を振った。
「だが、他に考えられるものがない。場当たり的に対応するよりは、少しでも可能性が高いところを見回るべきだと思う」
食堂、宝物庫、書庫に温室、それから武器庫。先生の言う通り、それらが狙われていると考えたとき、聖廟以上に説得力のある場所は、今のところないのも事実だ。先生の真っ直ぐな目に押されるように、皆と一緒に、深く頷いた。
敵の目的は分からないし、あの聖廟で戦わなければならないかもしれない、と思うと、途端に身が引き締まる。わざわざロナート様に叛乱を起こさせてまで存在を明らかにさせた密書だ。敵も恐らく、なりふりは構わないだろう。そんな人たちを相手に、私なんかが敵うのかな。私はまだ実戦の経験がほとんどないし、戦場で戦ったのだって前節が初めて、あれだって、訓練をつんでいない民兵が相手だったからせり勝てただけだ。
「当日まで、気を引き締めよう」
それでも殿下がそう言葉にしただけで、不安がっているばかりではだめだと思えてしまうのだから、我ながら単純だ。
不安でも、怖くても、がんばらなくちゃ。皆の、殿下の足手纏いにならないように。殿下がマグドレドでの戦いのように、後方にいなくても済むように。先生が助けにこなくてもいいように。祈るように胸の前で手を組んだ。震えているのが分かって、思わず唇を噛んだけれど、簡単には収まってくれなかった。
青海の節、二十六日。
女神再誕の儀となるその日の気温は高く、空は突き抜けるように青かった。