青海の節に入ってからというもの、士官学校はレア様暗殺の噂で持ちきりだった。フォドラの秩序とも言えるセイロス教会の、その大司教の身が危険に晒されているという異常事態なのだから、当然のことだろう。
単純に不安がる生徒、レア様を心配する生徒も大勢いたけれど、そんな中、密書の出所であるロナート様の行いを嘲弄する声がぽつぽつとあったのも事実だ。ガルグ=マクに混乱をもたらすことになったロナート様は、思考の停止しかけた人間が持つ、行き場のない負の感情を押し付けられてしまう。その声は特別多いわけではなかったけれど、私の耳は、わざわざそれらを選んで留めてしまうようにできていたらしかった。
しかし例えそれらを無視できていたとしても、私の足はいつまでも泥濘にあっただろう。
今回の件を整理しようとしたとき、まずはガスパールで起きたあの叛乱が土台となる。レア様の暗殺を隠れ蓑にして行われようとしている「何か」を考えようとするだけで、ロナート様の存在が私の胸を掠めていく。その度私は無意識に、息を止めている。
叫び出したくてもそれができないのは、私よりももっと苦しい思いをしているであろうアッシュくんが、表向き平生を装っているからだ。
アッシュくんは、皆との話し合いの最中、ロナート様の名前が出ても、もう顔色一つ変えはしない。きちんと話し合いに参加して、自分の意見を出す。訓練にも精力的で、暗殺の裏に隠された敵の目的を探ろうと日々懸命だ。まるで、そうすることがロナート様の弔いになると信じているみたいに。
だけど、傷ついていないはずがないのだ。
ふとした瞬間、アッシュくんはその横顔を曇らせる。自分以外の誰かが注目を浴びているとき、その目線を微かに下げる。光の加減によっては、その目には隈が見えた。時折どこか遠くを見る。思い返すように、懐かしむように、その目はいつも、静かな哀しみをたたえている。
アッシュくんが無理に笑っているのに、私に「大丈夫ですか」と尋ねてくれるのに、一体どうして私が自分の傷を他人に見せびらかすことができるだろう。
ロナート様がいない。私にとって、血は繋がらずとも、第二の父のような存在だった人。お兄様が亡くなったときも、優しく慰めてくれた。これから長い年月をかけて、私にできる恩返しをしていくつもりだった。それがもうできないなんて、嘘だ。
殿下は、痛ましい顔をして私を見ていた。私を同情しているのは、その瞳だけで分かった。喉が一気に渇いて、何も吐き出せなくなる。すかすかの声すらも出ない。喘ぐような息だけが、口の端から零れていく。
「むり」
殿下の吐き出した言葉を、何度も繰り返す。噛みしめるように、自分自身に言い含めるように。
殿下は何も言わない。私が自らの頭で考えて言葉を紡ぎ出すのを待っているみたいだった。その真っ直ぐな瞳から逃れたくて、視線を彷徨わせる。机の中に見える、入学時に借り受けた年季の入った教書は、数年、数十年分の諸先輩方の記憶や思い出を吸い込んでいるみたいに、重々しい沈黙を放っている。過去の持ち主たちもまた、私のように思い悩み、苦しんでいたのだろうと思ったら、不意に喉の奥が痛んだ。
「……無理」
殿下には、以前にも「無理をするな」と言われた。花冠の節。ロナート様が兵を挙げたと知らされた後。アッシュくんをまともに慰めることもできなかった、無力な私に向けて発せられたものだった。
あのときの私にとっての「無理」はロナート様と戦うことで、それが避けられなかったのは、現在の状況が示す通りだ。言葉遊びになってしまいそうだけど、ならば私の今の状態は「無理をした」であって、「無理をしている」ではないはずだった。
だけど、殿下は「無理をしているだろう」と言うのだ、私に。
私は、だから、努力していた。そう見えないように、ずっと。
一日だけ休んだ後は、頑張って食事を摂った。訓練の再開には少し日を開けたけれど、翌日には授業に出た。皆がロナート様の名前を出して話し合うのを、じっと黙って聞いていた。敵の目論見を、皆と一緒に必死で考えた。正しいアッシュくんのようになりたくて。無理をして、努力をしてそうしていることすら、直視しないようにしていた。訓練だってそう。だけど、今私は、心中でそれを認めてしまったのだ。
誰にも指摘されなければ、きっとこのまま頑張れるはずだったのに。
頭の端が痺れている。瞬きをしたとき、自分の眼球が酷く熱を持っていることに気がつく。
「…………マグドレドでの戦いから、ずっとお前のことが気に掛かっていた」
椅子を引く音がした。殿下が隣の席に腰を下ろしたのだった。殿下は私の方に身体を向けて、言葉を重ねていく。
「俺にも、血は繋がらないが恩義のある人間がいる。だからお前にとってのロナート卿が、どれだけ大きな存在であったかは分かるつもりだ」
「……はい」
「……だが、とロナート卿との関係を、その日々を詳しく知るわけではない以上、軽々しくお前の痛みを理解できるとまでは、言えない」
殿下は一度、呼吸置いた。私が顔を上げるのを待っているように思えた。それでも、今何かをすれば、少しでも動いてしまえば、目の縁に溜まった涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。瞬きを堪えながら殿下を見る。「」と噛みしめるように私の名を呟く殿下の瞳は、いつも、透明な膜があるみたいに、きれいだ。
「それでも、ただ傷ついたお前を見ているだけなのは、辛い」
は、と息を吐いた。瞬きをしたら、涙がぼろりと落ちた。瞬間栓が外れたみたいに、喉の奥から嗚咽が漏れる。「……で、殿下」どうしたらいいかわからなくて、首を振った。そうしたって涙は止まらなかった。「うぇ」と漏れる泣き声が、私たちしかいない教室の隅に、行き場もなく落ちていく。
ぼやける視界の、白んだ光の中に、ロナート様の手の甲が見えた気がした。皺の多い、骨張った手。あの温度も、感触も、私は覚えているのに、もうどこにもない。
「……お前が教室で、傷ついた目をしていることを知っている。アッシュを見て、その顔色を窺っていることも。アッシュが前に進んでいるならば、自分が囚われるべきものではないと考えているのも」
殿下の吐き出す言葉たちは、傷だらけの私の背中を労るように優しかった。「……違うか?」と、確かめるように微かに首を傾げられて、もう、言葉にならなかった。だって、全然、ちがくないのだ。本当に。なにひとつ間違えてなんかいない。
私が生きた十余年の、生ぬるい日々は、いつも私の皮膚に寄り添うようにいた。それらを殿下は、丁寧に触ってくれる。壊さないように。
「……一人で抱え込まず、なんでも話してほしいんだ。俺は級長だし……いや、そうでなくても、お前の心が軽くなるなら、何でも聞こう。アッシュやイングリットに話しにくいことがあるならば、いくらでも」
お前さえ良ければの話だが、と、殿下はどこか泣きそうな顔で笑う。
だけど、殿下に聞かせられるような綺麗な話ばかりではないのだ、私の抱えたものなんて。ゆるゆると首を振る。そうした果てに、幾重にも布をかけて一人で抱えていようと思ったものを、私はどうして口にしてしまったのか。ロナート様のことだけじゃない。いつまでも、私の内を巣くうもの。
これは懺悔だった。
「民兵を殺してしまいました」
たったそれだけで、殿下が浮かべていた笑みは消えてしまった。言わなければ良かったと思ったのに、私の胸は微かに淀みを失っていた。ロナート様のことと同じくらいの粘度を伴って、いつも私の内側にこびりついていたもの。それは赤黒くて、ぬめぬめしていて、とても醜かった。
ロナート様の無念を晴らすんだ。そう言って振り上げられた斧が。微かに震えていたその腕が。これまで武器なんて持ってこなかったであろう、肉付きのさして良くないその身体が。瞼の裏に張り付いている。私が奪った命。話を聞いてもらえなかった。殺されそうだったから、どうしようもなかった。だけど彼は民だった。ロナート様の愛する。私たちが守るべき、民だったのだ。
「……あれはお前が気に病むことではない。それに、俺の目から見たお前は充分傷ついて」
「でも」
気遣うように口にしてくれた殿下の言葉を否定するために口から出した自分の声が、思った以上に弱々しく滲んでいることにびっくりする。は、と息を吐き出せば、それは酷く熱かった。膝の上に置いた手の甲に、音を立てて涙が落ちた。
私は殿下に、懺悔をしていた。聖職者でもない、いずれ国王になる人に、私なんかがすべきものではなかった。だけど、止まらなかった。そのことについて、殿下に、何か美しいものに代えられるのは耐えがたかったのだ。私は殺してしまった。貴族として、本来守るべき民を。そうしなければ自分が殺されるはずだったのだと言い訳をして。殺してしまった。
傷ついて、立ち止まっていなければおかしかった。罪を償わなければならなかった。
なのにどうして私は今もそれができないのだろう。
「本当に傷ついているなら、人の心があるなら、剣なんか持てなくなって然るべきじゃないですか」
言いながら、もう、視界がぼやけて何も見えなくなっていた。
だって私は今、何食わぬ顔で訓練を再開して、剣を振っている。二度と武器なんか持てないんじゃないかって思っていたのに、私は、剣を持てる。感触も、悲鳴も、頭から被ったあの人の血の温度もにおいも、私は全部覚えているのに、今まで通りいられる。そんなのおかしい。ひとじゃないって言われても、仕方ない。
それらの何を言葉にして、何を思うだけに留めたのか、私にはもう分からなかった。もしかしたら、全てぶちまけてしまっていたのかもしれない。私は今、何か取り返しのつかないことを口にしているのかもしれない。だけど霞んだ視界の中で、殿下の影がこちらに近づいたのがわかった。涙を拭い続けた、ぐちゃぐちゃに濡れた手を引かれる。ちょっとだけ痛かったけれど、すぐに力が緩められた。「大丈夫だ」と、殿下は言う。殿下の手は、私が思っていたよりもずっとひんやりしていた。
労るように、指先にだけ力が込められる。「剣なんか持てなくなって然るべきなのに、と」殿下の声が、私の中に沈んでいく。ぼやける視界の中で、どうして殿下の瞳だけは鮮明だったのだろう。
「そういう風に思えるなら、お前は獣ではないよ」
自分はおかしいんだと思っていた。
「少なくとも、お前はあの時傷ついていた。それを傍で見ていた俺が言うんだ」
無意識にか、殿下の手に、徐々に力が込められる。痛かったけれど、言葉は出てこなかった。殿下の言う一言一句を聞き逃したくなかった。「だから」と、その薄い唇が動く。
「……だからも、もう少し自分の痛みに敏感になってくれないか」
そう続けられたとき、私は頭を殴られたように思ったのだ。
殿下の言葉が皮膚から爪先から染みこんでいく。「う、え」嗚咽が漏れて、我慢できなくて、声をあげて泣いた。訓練場の方から細やかなざわめきが漏れ聞こえるだけの、静かな夕暮れだった。イングリットちゃんは教室に戻ってこなかったし、殿下はずっと私の手首を握っていてくれた。言葉にならない言葉を口にしながら泣く私に相槌だけを打って、否定せずにいてくれた。それがどれだけ心強いものだったか、きっと殿下は知らない。
我慢の利かない子供のように泣きながら、私は殿下のことが好きだと思った。私のことをおかしくないと言ってくれる殿下が。いつも気に掛けて、不必要なほどに優しくしてくれる殿下が。私の「無理」に気がついて、こうして手を差し伸べてくれる殿下が、私は好きだった。