何日か休んでいた授業や訓練を再開したとき、自分が存外今までと変わらずに剣を振れることに驚いた。
 訓練用の剣はすっかり手に馴染んでいて、いくら振ってみても、誰かと剣を重ねてみても、何の問題も違和感もない。人を、それも民兵を殺してしまったことについて未だ一人抱え込んでいる時点で拒否反応が出てもおかしくないと薄ら思っていたものだから、実を言うとこれにはほっとした。だけど同時に、こんな風に授業の進行を妨げずに済んで安堵している自分のことが、人非人みたいだとも思った。私って、ちょっとおかしいのかもしれない、って。
 いくら今までと変わらずに剣を振れているとは言え、乱れた心は剣に出る。授業の手合わせではあっという間にイングリットちゃんに五本を取られてしまった。服についた土を払ってからすごすごと訓練場の端に引き上げたとき、ベレト先生がイングリットちゃんに何か声をかけているのが視界に入った。五本全部取っても、まだ指導すべきところがあるなんて、剣の道って険しい。
 一本も取ることができなかった私は一体何を言われるのだろうと身構えていたのに、ベレト先生は私には「君はまず、もう少し集中した方が良い」と短く言い残すだけだった。まあ本当にその通りなんだけど、その集中の仕方が、今の私にはちょっと良く分からなかった。神妙な顔で「はい」と頷けば、先生はそれに返すみたいに、深い瞬きを一つした。








 青海の節に入ってからと言うものの、何だか気もそぞろだ。ぼんやりしてしまうのは一度熱を出したせいだと思っていたけれど、それについてはもうすっかり良くなったはずだし、原因が分からない。
 考えなくてはいけないこと、やらなくてはならないことがいっぱいあるんだから、こんな風ではいけないのに。そう自身を叱咤しても、調子は戻らない。たくさん動いたときとか、誰かと話をした後、考え事をした後は、特にくたびれる。先日ドゥドゥーくんと温室で話をしたあとも、疲労がすごかった。温室の暑さにやられてしまったんだと思ったけれど、あの日は特に色々考えていたせいかもしれない。レア様の暗殺計画の裏で何が置きようとしているかについて、私は真剣に答えを探そうとしていたから。
 それ以外でも、物凄く神経を尖らせて気を付けなければ授業は上の空になってしまうし、上手く集中できたとしても、一度それが切れてしまうととんでもない疲労感に襲われた。長く泳いだ後のような倦怠感が、いつまでも残っていた。



「……しかし、全く敵の目論見がわからないよなあ。一体何が狙いなんだ?」

「ええ。せめて確証がなくとも、絞り切れれば良いのですが……」



 シルヴァンくんとイングリットちゃんの会話を耳にしながら、私は長椅子に座り、ぼんやりと中庭を眺めている。最近の皆は、口を開けば再誕の儀について、或いは敵の狙いについて議論している。隙あらばそのことについて思考してしまうのは、私も一緒だったのだけど。
 敵にとって危険を冒してまで成し遂げたいこと、手に入れたいものがガルグ=マクにあるのは間違いない。単純に考えたら、お金だろうか? でも、教会に寄進されたお金が大修道院の外で管理されていることを考えれば、それが目的、ということではないのだろう、多分。
 そもそもその「敵」とは一体何なのか。自分たちは何を相手にしているのか。それが何か判明しさえすれば、自ずと選択肢も絞られてくるだろうに――。
 私たちの話し合いは、いつも核心に触れられず、その周辺を旋回している。もし掠めていたとしても、今はそうとは分からないのが難儀な話だった。



「しっかし残念だ。祭事の日は授業もないし、一日遊んでいられると思ってたのになぁ」



 終わりのない会話を断ち切るように、シルヴァンくんがそう言った。そうすれば、イングリットちゃんが自分を咎めるのを心得ているようだった。そうして器用に話の方向を選ぶシルヴァンくんは、私からは、とても器用な人に見えた。








 その日、イングリットちゃんはベレト先生に呼び出されていた。授業の後は一緒に訓練をしようと約束をしていたので、「多分、すぐ終わると思いますので」というイングリットちゃんの言葉を受けて、訓練場には行かずに教室で彼女が戻るのを待っていた。
 授業後の教室は、あまり人気がない。たまにアネットちゃんが居残って勉強したりしているけれど、今日は書庫に行ったみたいだ。両隣の教室には誰か残っている人がいるのかもしれない。でも、どれだけ耳を澄ませても、虫の音や、これから私たちが行く予定の訓練場から響く音や、本来は声であるはずの何かが聞こえるばかりだった。
 いつイングリットちゃんが戻って来ても良いように、身体は出入り口の方へと向けておく。外から教室に差し込む光は濃く、直線上に伸びるその線を見ていると、何だか気が遠くなってくるようだった。柱や天井といった建物の影が切り取った光の形は、永遠にそこにある箱のように見えた。
 頭に靄がかかったみたいで、ぼんやりする。レア様の暗殺、ロナート様の叛乱、敵の目的、先日お父様から届いた当たり障りのない手紙、訓練、無念、ロナート様の、クリストフ兄様の。そういうのを全部、この光の箱に入れようと念じていたとき、不意に光が消えた。びっくりして顔をあげてしまったけれど、何てことはない、それは教室の入り口に殿下が立ったためだった。



「殿下」



 あんまりにも静かだったから、教室には誰もいないと殿下は思っていたのかもしれない。証拠に目が合ったとき、ものすごくびっくりした顔をしていたから。殿下は「か」と微かに掠れた丸い声で私の名を口にすると、ややあってから「……ええと、課題でもしているのか?」と問いかけた。
 課題。ああ、そうか。ぼんやり待っていないで、そういうのを片付ければ良かったんだ。
 実際、ハンネマン先生に提出しなければならない、紋章学に関する課題があった。軽く首を振って、イングリットちゃんを待っている旨を説明してから「殿下は、紋章学の課題はもう終わりましたか」って尋ねたら、困った様子で「いや」と否定された。意外、と思ったのが、顔に出ていたのだろう。



「お前が思ってくれているほど、俺は優秀な人間ではない」



 笑う殿下の伏せられた目を縁取る睫毛が、光に透けている。
 イングリットちゃんが戻ってくる様子は、まだなかった。話が長引いているのかもしれない。それか、ベレト先生が呼び出したのを忘れてどこかに行ってしまったのを、イングリットちゃんが探しているか。どちらにせよ、折角思い出させてもらったのだから、少し課題を進めておくべきかな、そう思ったときだった。殿下が「」と、もう一度私の名前を呼んだのは。
 殿下は私の顔を、じっと見ていた。下がった眉の下、理知的な青い瞳はほとんど瞬きもなされない。殿下の瞳に真っ直ぐ見つめられると、私はどうしたらいいのかわからなくなる。とりあえず、背筋だけは伸ばして、真剣な顔をした。それだけで、気が遠くなりそうだった。
 殿下は、ずっと同じ場所で立っている。教室に入るでも、出て行くでもなく、ただそこにいる。本来そこにできるはずの光の箱を、私がそこに詰め込もうとしていた感情ごと、飲み込もうとしているように思えたと言ったら、殿下は首を振るだろうか。
 そんなことは、ないのだ、きっと。
 躊躇うように一度床に落とされた視線は、やがて私へと戻ってくる。そのとき、そこに直前まで微かに残されていた煩悶の色は消えていた。私はそれが、彼の覚悟であるように思えた。



「…………このところ、無理をしていないか、ずっと」



 その言葉に、私はただ、殿下を見上げたままでいる。


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