青海の節となる今節は、女神再誕の儀がある。
女神の住まう星が再びフォドラに見えるこの日を祝うため、フォドラ中に住まう敬虔な信徒が大聖堂に足を運び、祈りを捧げるのだ。普段ならば賑々しく、お祭りのようになるこの催しも、今年ばかりは事情が違う。だって、レア様の暗殺計画を示す密書が見つかってしまったのだから。勿論、表向きは教会も、例年と変わらぬように努めるはずではあるけれど。
それでも殺気を隠しきれないセイロス騎士たちから、緊張感はひしひしと伝わってくる。それを受ける私たちもまた、あちこちに神経を張り巡らせている。
騎士団だけでなく、レア様に危険が及んでいるということは、既に士官学校に在籍する全ての生徒たちの知るところとなっていた。
外部の人間の出入りが増えるに従って、よからぬことを企む人間が大修道院に潜り込む危険性は大きく、それを踏まえ、騎士団だけでなく私たち士官学校生もまた修道院の警護や見回りに駆り出されることになった。そのため情報が共有されるに至ったのだろう。「暗殺」という言葉がもたらす衝撃は大きい。ガルグ=マクを覆う不穏な空気は、私たちの周囲にもずっと、濃く漂っている。
だけどこの件について殊更過敏になっていたのは、私たち青獅子の学級に所属する生徒であったことは間違いない。
ファーガスで起きた叛乱に端を発する以上、それはどうしても仕方の無いことではあったのだけど。
「……敵の狙いは、そもそも本当にレア様の暗殺なのだろうか」
今節の課題について話し合いを設けることになったある昼下がり、殿下がぽつりとそう言った。話し合いに加わるというよりは、殿下の背後に控えるように立っているドゥドゥーくんが目を見張るのが、視界の端にとまった。
敵の狙い。
殿下の言った言葉を、脳内で反芻させる。
レア様暗殺に関する文書を私は実際にこの目で見たわけではないけれど、どうにも疑わしいのは確かだ。だって指揮官であったロナート様が隠しもせずにそれを持っていたなんて、いくらなんでもあからさますぎるから。
そもそも今回のロナート様の挙兵は誰の目から見ても無謀であることは明らかだった。いざ戦いが始まると、霧の中ということでセイロス騎士団は予想外の苦戦を強いられることとなったけれど、それでもロナート様たちガスパール側に勝ち筋はなかったと思う。ガスパール兵にできたことは、主君の、ロナート様の、多少の延命に過ぎなかった。
ロナート様は挙兵した時点で、その死を避けることは難しかった。
つまり、自分が処断されること、そして死後所持品を検められることを前提として、ロナート様はその密書を持っていたのだ。それは、やっぱりどうしても不自然なことであるように思えた。
その時、不意にお腹のあたりがむかむかした。もう体調はすっかりよくなったはずなのに、と手を当てる。そうしているうちに徐々に収まる不快感に、こっそり息を吐く。イングリットちゃんを挟んだ隣には、アッシュくんが神妙な面持ちで殿下の話を聞いている。
「意味を、お聞きしても」
その時控えめに言葉を挟んだのは、ドゥドゥーくんだった。殿下は彼に小さく頷くと、神妙な面持ちで口を開く。
「罠……とまでは言い切れないが」
けれど殿下が言葉を一度止めた瞬間、隣の金鹿の学級で何かあったのか、壁の向こうからわっと笑い声が響いて、思わずびくりと肩を震わせてしまった。皆も驚いたのだろう。先生も、その視線を隣へと向けている。
出身地別で分けられる以上学級の色っていうのはどうしても出てしまうものだけど、レスター諸侯同盟出身の生徒たちで構成された金鹿の学級は、他の二つの学級と比べれば抜きん出て明るい、という印象があった。良い意味で緩いというか。外から見ていると、次期盟主と言われている級長のクロードくんが良い影響を与えているようには思う。それは今みたいに、授業中であっても突然響く笑い声が証明している。うちや、黒鷲の学級とは全く違う毛色の、面白い学級だ。少なくとも、私はそう思っている。
隣の学級の賑やかさが徐々に収まって、自然とそちら側の壁に向けられた皆の意識が戻るのを待って、殿下は再び口を開いた。慎重に言葉を選び、声量を絞ったそれは、殿下の生真面目さを象徴しているようだった。
「……暗殺計画の裏で、何か別の思惑があるのではないだろうか」
先生は何か口を挟むでもなく、殿下の隣で、その瞳をゆっくりと瞬かせていた。殿下と私たちの導き出す答えを見守っているようだった。そういうとき、先生は他の誰よりも、ずっと先生らしかった。
一方中心にいる殿下は、窓からの陽光をその背に受けている。表情が翳って見えたのは、外の白い光に対して、部屋が少し、薄暗いせいかもしれない。何か物事を考えるとき、殿下の目はいつも軽く伏せられる。
「別の思惑か……まあ、それも考えられますね。何か貴重なものを盗み出そうとしているとか?」
「確かに……暗殺計画、なんて言われたら、どうしてもそちらに目が行ってしまいますし。可能性はあると思います」
「でも、それだけ貴重なものと言ったら、何があるかしら〜?」
メルセデスちゃんの発した言葉に、アネットちゃんやフェリクスくんが狙われるに相応しいだけの価値を持つものとして、考え得る可能性を口にしていく中(例えば書庫や宝物庫、教団が保管している貴重な武器など)、私は殿下のことをただ、言葉もなく見つめていた。
最近の殿下は、少し、何か思い悩んでいるように見える。いや、思い悩むというよりも、抱えたままでいる、の方が正しいのかもしれない。私のことや、教団を取り巻く不穏な状況について、思考を割き、気を遣う殿下は、もう少し自分のことにも敏感になっていいはずなのに。
ふと殿下が目線をあげたとき、目が合ってしまった。あんまりにもまじまじ見つめていたから、視線が煩わしかったのかもしれない。だけど殿下は私に、瞬きを一つした後、微かに眉尻を下げ、笑った。慈しむような、優しい笑みだった。私に向けられるには、勿体ないくらいの。
不意に前節のことを思い出しそうになって、飲み込んだ。どうしてかは分からなかった。ただ、民を殺してしまったあの日の後悔を、私は今も抱えていた。それをどこに持って行けばいいのか、分からないままでいた。殿下の笑みは、それを受け止めてくれるものであるように思えたのだ。
「……再誕の儀までに、各自修道院内に何か敵の狙いになりかねないものはないか調べることにしよう。気付いたことがあれば、俺か先生に話してほしい」
そう殿下が口にしたとき、殿下の目線は既に学級の皆へと向けられていて、私は少しだけ安堵する。
殿下のことを視界の真ん中において、皆と同じくらい、それか、それよりも少し小さいくらいの声で「はい」と返事をした。私は自分の抱えていたものを、そうしてお腹の奥に押し込んだ。
女神再誕の儀は、今節の終わり頃だ。その前からガルグ=マクや城郭都市は人が増え、賑やかになるけれど、何かが起きるとしたら一番人の多い当日になるだろう。
勿論一番警戒しなくてはならないのはレア様の身辺ではあるけれど、その傍らこうして他に注意を向けるのだって必要なことだ。「犯人は女神再誕の儀という最も重要な儀式を台無しにすることで、教会の権威の失墜を狙っているのではないか。……つまり、暗殺計画は実行されない。そう僕は考えているけどね」熱心に耳を傾ける生徒たちに向け、そう話すローレンツくんの横を素通りしながら、私は周囲に、慎重に視線を彷徨わせる。
この前アネットちゃんの話していた書庫や宝物庫は勿論、紋章学の権威と言われるハンネマン先生が所持する資料も貴重な品ではあるけれど、フェリクスくんの言う通り、珍しい武器なんかも奪われたら困るものだと思う。でも、裏付けというか、確証がない。殿下や先生も、きっとそう感じているのだろう。
温室に向かうために食堂の脇を通ったとき、その香りにつられてほとんど反射的に、「食べ物」と考えた。食べ物、そう、何かとっておきの、貴重な……。
「ここ最近ファーガスで大きな飢饉はない」
温室で出会ったドゥドゥーくんに思いつきを話したら、低い声でそう返された。
余計な雑草の処理をするドゥドゥーくんは、植物のお世話が得意だ。私は当番でこうして水をやりに来たのだけど、彼は良く、こうして自主的に土を弄っている。
「食糧不足に陥りやすい冬でもないと考えれば、その可能性は低いだろう」
「うーん、そっかぁ……だったらまだ、本とか資料とかの方があり得るかぁ」
そう口にしながら、用具入れを覗く。王国で起きた叛乱から始まった一連の流れである以上、敵は王国内にいると無意識に考えていたのを、ドゥドゥーくんとの会話で気がついたけれど、ドゥドゥーくんもそう考えていると分かってちょっとだけ安心する。年季の入った如雨露を手に取って、水を汲むために一度釣り池の方に向かった。なみなみと水を入れると、結構な重さになる。零さないように両手で持って、再び温室に戻る私の足元には、てんてんと水の染みが落ちていた。如雨露の、小さな足跡みたいだった。
目的の植物たちの前まで戻ると、ドゥドゥーくんはさっきと同じ姿勢のまま、薬草の葉を観察している。ドゥドゥーくんは意思を持っているものにするみたいに、優しく植物に触れる。もう少し早くそれに気がついたら、話しかけないでいたのだけど、口の方が早い私にそれは難しかった。
「あとはフェリクスくんが言ってた武器もだし……あっ、ここはどうだろう。温室は何かないのかな。珍しい薬草とか」
ドゥドゥーくんはこちらに視線を向ける。彼の邪魔をしてしまっている私に対しても、ドゥドゥーくんは辛抱強く接してくれる。
「……確かにこの温室にも貴重なものはある。だが、わざわざ危険を冒してまで手に入れようとは、少し考えにくい」
「そうかあ……」
彼の言葉は、端的で分かりやすい。言葉を濁したりしないから、話していて随分楽だ。
それから沈黙が落ちたけれど、それは初めから、そこにあるべくしてあるものだったと思えるくらい、角のないものだった。温室内の空気は熱く、如雨露が軽くなってきたのを良いことに袖を捲る。王国生まれには、ガルグ=マクの初夏は厳しい。
そうして指定の植物に水を注ぎながら、ドゥドゥーくんとの会話を改めて脳内でさらった。食べ物はない。植物っていう可能性も低い。じゃあ、もっと重大な何かだ。でも、それが私には分からない。
首を傾げていたら、ドゥドゥーくんが立ち上がったのが気配で分かった。振り向けば、彼はもう作業が終わったのか、温室を出て行こうとしている。「ドゥドゥーくん」呼びかけた私に彼が目線を寄越したとき、ちょっとだけ、どきっとした。
「またね」
私は彼が、意図してここを去るのだと知っている。
どうにか微笑んだ私に、ドゥドゥーくんは微かに頷くと、そのまま温室を出ていった。その背を見送りながら、私はまた生まれてしまったお腹のあたりの不快感に気がつく。おなか、きもちわるいな、と心の中で思う。如雨露を傾けて最後の一滴まで水をあげる私の足元には、イングリットちゃんが持って来てくれたものと同じ色の花弁をしたスミレが咲いていた。けれど、私はそれに気がつかなかった。