翌日には身体の不調はすっかり良くなっていて、もう授業に出ても問題はなさそうだった。逆に、普段よりも身体が軽かったくらいだ。「ですが、数日は訓練などは休むんですよ。無理をしてはいけませんから」とイングリットちゃんに忠告されなければ、そのまま走り込みに行ってしまったかもしれないくらいには。
 習慣なのか、それとも前日まるまる眠り込んでいたせいなのか、或いはその両方か。授業が始まる時間よりもずっと早くに目を覚ました私は、ただ自室で過ごしているのも億劫になってしまって、部屋を出た。机の上に置かれた花瓶のスミレは、まだ艶々とした花弁を、手の平を広げるようにして咲いている。








 授業が始まるまでの間、教室で本でも読んでいようかと思っていたのだけれど、寮の前を歩いているところで声をかけられた。まだ早朝の、どこかひんやりとした空気に良く馴染む、低く抑揚のない声だった。





「先生」



 信徒の方の姿は遠くに見えるけれど、普段のガルグ=マクと比べれば、人の気配のずっと少ない朝だ。「おはようございます」とお辞儀をすると、先生は首肯したかそうでないか分からないくらい小さく頷いて、「おはよう」と返してくれる。本来だったら授業を受けなければならなかったはずの一日が欠けていたせいか、ちょっとだけ緊張してしまった。
 先生が生徒の多く行き交う寮の付近にいるのは、事情がある。というのも、本来だったら士官学校の教師として在籍している人物、それこそマヌエラ先生とかハンネマン先生、イエリッツァ先生たちは、それぞれ専用の部屋が与えられているのだけれど、大樹の節の途中から急遽採用されることになったベレト先生は、とりあえずという形で、生徒たちの使う寮の一階の部屋で寝泊まりしているのだ。そのうち部屋が準備されたらそちらに移るのかな、と思っていたけれど、今のところその兆候はない。
 こんな早くから活動しているなんて、先生は随分早起きなんだなと思ったら、「随分早起きだね」と同じ事を言われて、思わず面食らってしまった。



「身体は、もう大丈夫?」

「はい、すっかり! 昨日一日中眠っていたので、ものすごく元気ですよ」

「……そう。それは良かった」



 良かった、って言いながら、先生はちっとも笑わない。
 ベレト先生は(こんなこと私が言うのも失礼な話なのかもしれないけれど)どことなく浮世離れしている。先生から教わるようになって二節と少しを過ごした今も、未だに笑った顔も怒った顔も見たことがないのだ。ここまで喜怒哀楽の全部が極端に薄い人とは、初めて出会ったな、と改めて考える。感情の、どこか一つが妙に突き出ていたりする人は、たまにいるんだけど。そうして先生を観察したとき、濃い緑色の双眸が私を真っ直ぐ見返していて、なんだか恥ずかしくなってしまう。作り物みたいに、先生はきれいだ。
 そうやって余計なことに気をとられていたせいなのかもしれない。先生がほとんど付け足すように「ディミトリが、は数日は授業に出られないかもしれないと言っていたから」と呟いたのを、すぐには理解できなかったのは。
 逸らしたばかりの視線を戻し、ぱっと顔を上げれば、普段と変わらない先生の、感情に乏しい表情がある。「殿下が」と漏らした私の声は、先生には届かない。



「もう元気になったなら、安心した」



 喉の奥に、何かが言葉になる前の段階のものが引っかかっていた。それはあまりにも大きくて、口にするには、きっとたくさんの時間が必要だったんだと思う。けれどベレト先生はそんな私に気がつく様子はない。
 数日は授業に出られないかもしれない。
 頭の中で、その言葉がぐるぐると反芻している。そうすると、必然的に思い出されるのが一昨日のことだった。私が民を殺してしまった日。殿下は血の海の中で動けずにいる私を引きずって、近くの木陰に座らせてくれた。顔の返り血を拭ってくれたのは、殿下だった。その手が酷く優しかったことは、ところどころ穴の空いた記憶の中で、陽だまりのような細やかな温度を伴って、今も微かに残っている。
 胸の内側が、震えたような感覚になった。私の知らないところでも殿下はそんな風に気遣ってくれていたのだと思ったら、言い様のない感情に飲み込まれてしまいそうになったのだ。
 不意に頬が熱くなってしまったような気がして、手を添える。そんな私を見ても、先生は眉一つ動かさない。それが今は、本当に有り難い。



「じゃあ、また後で」



 そう一言言い残すと、先生は私の返事も会釈も待たずして、そのまま大広間の方角へと向かっていった。
 一人取り残された私は、両頬を押さえたままの姿勢で、先生の後ろ姿をただ見送るしかなかった。








 イングリットちゃんに言われた通り、今日は座学以外の授業は大事を取ってお休みをさせてもらうことにした。
 訓練場の隅にいたらメルセデスちゃんやアネットちゃんにも心配されたけれど、本当だったらもう身体を動かしても全く問題ないくらいなんだよ、と主張する。実際本当に、体調は自分でもびっくりするくらいに良かったんだけど、ガスパールで醜態を見せてしまった二人はそれでもまだ少しだけ顔が曇っていて、何だか申し訳なくなってしまった。
 青獅子の学級の皆は、比較的戦いに慣れている人が多い。叛乱の鎮圧に赴いた経験があったり、北方の外敵から領地を守る必要があったり、様々な事情があって。だけどそういうものを加味したって、皆は私と比べたらずっと強かった。私も訓練を繰り返して置いて行かれないように必死で食らいついているけれど、改めて見ていると、差は開くばかりであるように思う。休むならせめてきちんと皆の動きを見て、少しでも参考にしないといけない。イングリットちゃんに言わせたら、それすらも今日はしなくていいってことらしいんだけど、同じ空間にいるとどうしてもそういうわけにいかなかった。
 今日は弓の訓練だった。ベレト先生の指導の下、生徒が並んで弓を引く姿は実に壮観だ。
 弓を引く生徒たちの中で目を引いたのは、けれど、やっぱりアッシュくんだ。
 猟で時たま使うだけだった私の弓と違って、彼の弓を引く姿は、正しかった。一点の曇りも汚れもなかった。その矢が的の真ん中を射たとき、周りからは拍手と細やかな歓声が上がる。思わず一緒になって拍手をしてしまった。先生曰く「弓を引くのに悪い癖がついている」私は、これまで一度だってあんな風に、ど真ん中に矢を当てたことはなかったから。
 そんな風に手を叩いていたからといって、目立つことはなかったはずだ。だけど弓を下ろしたアッシュくんが振り向いたとき、不意に目が合ったようだった。心臓が跳ねてしまったのは、ここ最近の私がアッシュくんのことを一方的に眺めていただけだったからだろう。
 随分遠かったけれど、私と目が合っていることを、アッシュくんも気がついているらしい。私を視界の中心に置いたアッシュくんの口がゆっくり、大きく動く。声は、恐らく発していない。授業中だし、そもそも訓練場は音に溢れて、声なんか簡単に埋もれてしまうってことをアッシュくんも分かっているから。
 私は少しだけ背筋を伸ばして、アッシュくんの姿をきちんと視界に収めた。その口の動きの一つ一つを逃さないように、神経を集中させる。
 彼が何を言おうとしているのかなんて、全然想像がつかなかった。私たちは大聖堂で二人並んで座って以来、きちんと話をしてこなかったから。
 だけど、ゆっくりと動くその口が「だいじょうぶですか」と動いていることに気がついたとき、私は、殴られたような気がしたのだ。
 状況だけ見たら、それは一日休みを取った私の体調を気遣っているって考えるのが普通なのだろう。アネットちゃんたちがそうしてくれたように。もう身体は大丈夫ですか、って。だけど、私たちの間には六年の日々が横たわっていた。それはもう、私たちしか知らない六年だった。だってもうあの日々を知る人たちは、もう皆、先にいってしまったから。
 私の脳裏を駆け巡る記憶の輪郭が、滲んで溶けていく。
 アッシュくんの「だいじょうぶですか」は、ここに至るまでの全てに向けられたものだ。
 本当は泣いてしまいそうだった。紛らわすように少し間をあけてから、アッシュくんにそうと分かるように頷いて手で大きく丸を作る。大丈夫なのか、本当は自分でも全然分からない。背中にたくさんの矢が刺さったままみたいだ。でも、それは私の位置からでは、決して見えないものだから。
 アッシュくんは、微かに眉尻を下げた。その目には、まだ隈が残っているように見えた。
 私たちは、互いの傷を晒し合うことを選ばなかった。だけどそれは、私たちにとって、確かに正しいことだった。


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