ロナート様の持ち物からレア様の暗殺を示唆する密書が見つかったと聞いたとき、私はもう、それに大きく心を動かしたり、思考を巡らせるだけの力が残っていなかった。
 どうやってガルグ=マクへと帰還したのかも、実を言うと記憶が曖昧だ。ううん、曖昧、っていうよりも、ところどころ途切れている、って言った方が正しいのかもしれない。夢でも見ていたかのような、ふわふわとした感覚だけが残っている。イングリットちゃんがずっと隣を歩いて、たまに言葉をかけてくれていたのは薄ら覚えているんだけど。
 心配させないようにって、ちゃんと会話をしたつもりだったのに、イングリットちゃんは受け答えする私を前に、何だかすごく寂しそうな、それでいて、痛そうな顔をしていた。私はそれが、申し訳なかった。ものすごく。
 整備されたマグドレド街道は、霧がなければ見晴らしが良く、路傍の木々が纏った葉の青が、目に痛いほどだった。瞳を細めることで光の量を調整しながら、私はアッシュくんの後ろ姿を無意識に探していた。冬の空みたいな色をした彼の髪は、差し込む陽の光を受けて、微かに輝いていた。夜空の端っこの方で、控えめに光る、小さな星のようだった。
 アッシュくん。と、私は心の中だけで呼びかけた。
 アッシュくんは、あの戦場でロナート様に会えたのかな。何か話ができたかな。
 せめて、そうだったらいいと思う。そして、アッシュくんがそれを後悔していないといい。
 目が合わなかったことや、互いに声をかけることを避けていたことについては、仕方が無い。彼は彼で、現実を受け止めるのに必死だったし、私だってそうだった。お互いを慰め合うのに必要な気力が、今の私たちにはなかった。
 私たちは、とても疲れていた。ゆっくり休まなくちゃ、もう二度と立ち上がれないくらいに。
 寮に戻った後、まだ陽は落ちていなかったにもかかわらず、私はひとり昏々と眠った。夢の中にクリストフ兄様が現われたような気がしたけれど、クリストフ兄様は先のイングリットちゃんのような表情を浮かべるばかりで、私に何も言ってはくれなかった。夢の中でも、雨が降っていた。クリストフ兄様はしとしとと降り注ぐ雨の中、やがて、溶けるように消えた。
 アッシュくん。私は今日、ロナート様やクリストフ兄様が愛していた民を、殺してしまったよ。私は消えゆくクリストフ兄様の残した残滓を見ながら、そんなことを考えている。








 翌朝、私の身体はちっとも言うことをきかなかった。
 熱が出ていたのだ。「昨日雨に打たれたせいでしょうか……」と教室に向かう前に部屋を訪ねてくれたイングリットちゃんは言うけれど、同じ状況下で共に行動しただけでなく、何ならあの霧の中でもベレト先生と共に果敢に戦ったイングリットちゃんが平生と変わらない様子であるという時点で、私だけがこんな風に体調を崩すのは、私が軟弱なせいなのだろう。



「今日は、休みましょう。先生には私から伝えておきますから」

「うん……ごめんね、イングリットちゃん……」

「謝ることなどないのです。安静にしていてくださいね」



 掛布を胸元まで引き寄せてくれるイングリットちゃんの手は、ただただ優しい。
 イングリットちゃんが出て行った部屋は、人の温度が一人分減っただけなのに、随分と寒々しかった。胸の内側がすうすうと音を立てているみたいだ。まるで身体のどこかに穴が空いているかのような。物寂しいような気持ちになるのは、きっと熱があるせいだろう。寒いのだって、そう。
 授業に出られない、という焦燥は、不思議なことに、今の私にはなかった。一昨日までの私だったら、きっと焦って、無理をしてでも教室に行ったんじゃないか、って思うけど。頭がぼんやりとして、膜が張られたみたいだった。細やかな思考も難しかった。



「……さむい」



 身体の芯の方から寒気がする。頭や、身体の節々が痛かった。兎に角これが良くならないことには、他のことなんか考えられそうもなかった。
 体調が悪いときって、だけど、どうしてこんなに心細く、物悲しくなるんだろう。寝台の中で、自分の手の平をそっと見た。もう剣は握っていないというのに、まだ私の手の中にずしりと重たく、素っ気ない感触が残っているようだった。そうすると、どうしても昨日のことを思い出してしまう。
 私が奪ってしまった命。武器を持つ必要などなかった人の。
 ――ロナート様の無念を晴らすんだ。
 口の中だけでそう呟いたつもりだったけれど、言葉にならなかった呼吸の残骸のようなものが、ひゅう、と漏れるだけだった。紛らわすようにため息を吐いたら、それは思った以上に熱くて、どうしてか涙が誘発されて、ちょっとだけ泣いた。








 夢ばかり見るのは、眠りが浅いせいだろうか。
 私は青白い炎の中にいる。熱くはないのに、だけど、それが決して触れてはいけないものだと、夢の中の私は知っている。
 炎の他は何もなく、一面が闇だ。緩く渦巻く炎の中心に、大切なものとしか形容できない、今の私を形成する様々なものが落ちていく。幼い頃に読んだ絵本、お父様が職人を呼んで作ってくださった靴。お母様から頂いた髪飾りに、お兄様が使っていた剣。私はそれらに手を伸ばして、全部取り戻したいのに、動けない。あの炎に取り込まれたら、私は二度と目を覚ますことができないと、本能で感じ取っている。
 目を開けなければ。あれらに火が移るその前に。喘ぎながら強く祈る。目を覚ませ。覚ませ。覚ませ、って。
 どうにか目を開いたとき、私は文字通りぐちゃぐちゃになっていた。
 汗だくで、涙も鼻水も酷く、全身が鉛のように重い。敷布は皺が寄り、涙の痕が残っている。目が開けていられなくて、気がついた。どうやら窓からの光が、丁度上手い具合に眠っていた私の瞼の上に直射していたらしかったのだ。きっと、それで悪夢を見たのだろう。こんな時間に寝台に横になったことなんかなかったから気がつかなかった。夕陽が赤く滲み始めた空を見て、びっくりする。私はどうやら、一日中眠っていたみたいだ。
 汗をたくさんかいてしまったせいか、随分と頭が重く、気怠い。けれど頭痛は朝よりもずっと楽になっていて、熱もすっかり下がったらしかった。のそりと身体を起こして、せめて下着を替えようと服の釦に手をかける。その瞬間、扉の向こうで何か、細やかな気配があった気がした。
 思わず息を止めて、そっと耳を欹てる。
 空の具合から見ても、今日の授業はとうに終わっている。それを考慮するならば、誰か寮の二階に部屋を持つ生徒が廊下を行き来したに過ぎない、と考えるのが妥当だ。だけど、何だかそういうのとは違うような気がしたのだ。部屋の前を通過したというよりは、何か、意思を持って、一度この部屋の扉の前で誰かが立ち止まったような。
 意を決して、そろりと立ち上がる。
 一日中寝ていたせいで、足がもつれた。今さっき外したばかりの釦をもう一度留め直しながら、息を止めて扉ににじり寄る。
 こんなに明るいわけだし、流石に泥棒ってこともないだろう。でも、ここ最近は街の方で変な噂が流れている(具体的にどんな話なのかは知らないけれど。)あとは、生徒の私物がなくなったとかも。信徒でも商人でもなさそうな風貌の人が大修道院内を彷徨いているっていうのも聞いたことがあるし、ガルグ=マクも何かと物騒なのだ。
 そういうことを思い出してしまったら、急に怖くなってしまった。
 どきどきしながら、扉をこっそり、音がならないように上手く力を加減しながら、ほんの少しだけ開けてみる。もしその先に誰か不審な人がいたとしても、体当たりして引っ捕らえる、とかそういうことはできないけれど、風貌が分かれば少しは足しになるかと考えたのだ。
 だけどそこには私が思うような怪しい人影はなかった。肩すかしを食らったような、安心したような。ほっと息を吐くと、階段の方から馴染み深い足音がして、思わずそちらを見る。



「あら、。もう寝ていなくても良いのですか?」

「イングリットちゃん!」

「? どうかしましたか?」



 実は、今部屋の前で誰かが立ち止まっていたみたいだったの。そう訴えるのは憚られた。だって、今イングリットちゃんが今外からやって来た以上、もし明らかに怪しい人物がいた場合、イングリットちゃんも遭遇していると考えておかしくなかったから。
 だけどイングリットちゃんの様子を見るに、どうもそんな様子はない。ならば、やっぱり私の勘違いだったのだろう。



「でも、起きていたのなら良かった。お腹が減っていませんか? 重湯なら食べられるのではないかと、食堂の方に作って頂いたんです」

「え、わあ、ありがとう! 朝より随分良くなってるし、食べられると思う」



 イングリットちゃんの手には、重湯の乗せられた盆がある。その片隅に、そこにあるには少し不釣り合いに思える花が添えられていたのに気がついて、思わずそれを見つめてしまった。
 細い茎の先端に咲いた、紫というよりは青に近い色の、小さな花弁を持った花。あれはスミレだ。温室で良く咲いているけれど、寒さにも強いから、ファーガスの山間部でも見られる。
 イングリットちゃんが、お見舞いに持って来てくれたのだろうか。
 私の視線に気がついているのか、いないのか、イングリットちゃんは花のことには何も触れず、「入ってもいいですか?」と目を伏せながら尋ねるから、私は慌てて扉を引いた。寝台はぐちゃぐちゃだし、私自身も人に見せられるような格好では決してなかったのだけれど、イングリットちゃん相手ならば問題はない。
 イングリットちゃんは机の上に食事を置くと、部屋にあった一輪挿しにスミレを挿した。「お花も、ありがとう」と声をかけたら、イングリットちゃんは少しだけ不自然な空白を開けてから、「いえ」って、どうしてか、ちょっとだけ困ったような顔で笑った。



「いただきます」



 匙を持って、湯気の立つお皿からそっと重湯を掬う。息を吹きかけてから口に運んだら、じんわりとした熱と、ほのかな甘みが口の中いっぱいに広がった。「おいしい」思わず口にした言葉に、イングリットちゃんは、優しく笑ってくれる。
 夢見は悪かったし、髪の毛は汗と寝癖でぼさぼさだった。ロナート様が持っていたという密書のことは気に掛かるし、私が命を奪ったあの人は、今、他の兵士たちと共にガスパールの丘に埋葬されている。何も解決などしていない。胸を巣くうような、絶望に似た恐怖も、私は何一つ拭えていない。
 だけど、こうして不安に苛まれているときに傍にいてくれる人がいることが、今はただ有り難い。それだけで充分だった。


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