この不可解なまでに濃い霧は自然発生などではなく、敵の魔道士の術によるものだった。
魔道士を討ったことで霧が晴れたのを契機に、カトリーヌさん率いる騎士団と前線を与っていた先生たちはそのままガスパール城へと前進。視界が晴れてしまえば「雷霆のカトリーヌ」の右に出るものは居なかっただろう。無論、先生やフェリクス、ドゥドゥーたちも彼女らを後押しする働きをしたのは間違いないだろうが。
敵の陣形には無数の穴が空き、やがて前線は城へと押し戻されるような形になる。奇策のお陰で釣り合いの取れていた戦況は、あっという間に傾いた。それは、態勢を整えるために進軍を一時停止していた俺達後方の部隊からでも見て取れた。
木々の隙間から覗くガスパールの城が騎士団により陥落したとの報せが後方に届いたのは、霧が消失して程なくした頃だ。
視線をへと送る。彼女は民兵を殺めた後、「少し休んでいろ」という俺の指示に素直に従い、木の根元に座ったまま考え込むように膝を丸めていたが、その報せにはきちんと顔を上げた。酷い顔色だった。屈託なく笑い、いつも懸命であったの振りまく健全な明るさは、損なわれていた。それに追い詰められたように思ってしまう。今一番苦しいのは、間違いなく彼女の方だったろうに。
ロナート様が。確かにその唇が、そう動いていた。けれど細やかなその声は風にも乗らず、彼女の周りだけに落ちていく。
陥落というのは、つまり指揮官が降伏したか、完全に部隊が壊滅させられたかのいずれかだ。だが今回の場合、教団は初めから反逆者であるロナート卿の討伐を主張している。例えロナート卿が敗北を察し武器を手放したところで、斬首は免れない。いや、それを言うならば、彼は最初から、これを負け戦だと知っていた。その上で蜂起したならば、例え敗戦の色が濃くなろうとそもそも投降などするはずがない。
彼は既に、その命を失っている。も、それを良く分かっていたのだ。
顔についた返り血は拭き切れたが、髪や衣服についたものはそう簡単にはいかない。の髪は生来のものより変色し、重く濡れていた。その双眸から涙が落ちるのにさほど時間はかからなかった。頬を伝うそれが、彼女の膝へと零れ落ちていくのを、俺は息を潜めて見ていた。絞り出される悲鳴のような泣き声が、水分を多く含む、湿った地面へと落ちていく。
。声にならない声が、喉で生まれず死んでいく。
「……殿下、先生がお呼びです」
俺を探しに来たドゥドゥーにそう声をかけられなければ、俺はもしかしたら、自分の役目も立場も忘れて、ずっと彼女のことを見ていたのかもしれなかった。手を伸ばしても届かないほどの距離を保ち、慰めの言葉の一つもかけられないまま。
メルセデスとアネットが、の傍に駆け寄るのを視界の端で見る。しゃくりあげて泣くの心情を、本当に分かってやれる人間は、俺ではなく他にいる。嫌になる。気の利いたことも言えず、後ろ髪を引かれるまま目を閉じねばならぬ自分に。それでも、与えられた役目は果たさねばならなかった。ドゥドゥーを一瞥すると、見えない糸を断ち切るように、一歩踏み出す。泥濘んだ地面は、悲嘆を吸い込みきったように心許ない。
「……行こう」
霧の晴れたガスパールの大地には、無数の死体が積み重なっていた。
俺が手にかけた剣士も、恐らくは民兵だったのだろう。あれは隙がありすぎたし、少なくとも武器の扱いや間の取り方を知る一介の兵士であるならば、初撃でメルセデスが深傷を負うはずだった。そうして思考していると、それが自分の中に重く沈殿していくような感覚になる。既に幾層にもなったその上に、それは静かに重なっていく。俯きながら小さく息を吐けば、一歩後ろを歩くドゥドゥーが目敏く「どうかしましたか、殿下」と俺に声をかける。それになんでもないと、言えたら良かった。
「……本来ならば、守らねばならぬ命だというのにな」
この戦場においては、俺よりも多く敵と武器を交えただろうドゥドゥーに、それは正しい意図を持って伝わったらしい。
「…………殿下は最善を尽くされたと、おれは思います」
ドゥドゥーの低く、耳に馴染む静かな声が、ぴんと張り詰めていた部分を解していく。気遣いに満ちた声だった。俺はその言葉にどこかはっきりと安堵を覚えているくせに、どうしても、皮肉めいたことを思ってしまうのだ。
最善。最善か。
最善であったならば、どうしてこうも気が晴れないのだろうな。
仲間は死ななかった。メルセデスの怪我も軽く、既に治療は済んでいる。だが霧によって分断させられてしまった戦場で、民兵かそうでないかの見分けもつけることができなかった。それを知っていれば、では、俺は彼らを生かすことができたのかと言えば、しかし答えは否なのだ。彼らは本気だった。が説得をしようにも、まるで聞く耳を持とうとしなかったくらいには。
そして彼女はその手を汚した。
せめて俺が代わってやれたら良かった。
厚く重い雲がガスパールの空を覆っている。の声は、今もまだ耳にこびりついている。
ロナート卿の遺体を調べさせたところ、その所持品にレア様の暗殺を示唆する密書が含まれていたと、カトリーヌさんは話した。
「罠ではない?」
そう首を傾げる先生は、ガルグ=マクを出発する前と表情がほとんど変わらない。直前に言葉を交わしたアッシュの悲痛な面持ちを思えば、俺達を導く教師という立場であるという点を差し引いたとしても、それは俺の目に、些か非情なものであるように映った。
そう感じてしまうのは、俺自身が未だ、この戦いの意義を見出せず動揺しているせいなのかもしれない。
「まあ、信憑性はないな。差出人の名前もない。……だが、放っておくには不穏すぎる」
カトリーヌさんはその書簡を丁寧にしまうと、「これはアタシがレア様に報告する。戦後の処理をしたらガルグ=マクに戻るから、アンタらは先に帰りな」と俺と先生とを交互に見た。
力の強い瞳が、一度大きく瞬く。とうに覚悟を決めた人間のそれだった。もう後には退けないことを知っている人間の。だが、その眉の力が、そうと分からぬほど微かに緩められる。その脳裏に浮かんでいるであろうものを推測できないほど、俺は何も知らぬわけではない。
彼女は自分が恨まれていることを知っている。
「いきなりの戦闘で、参ってるヤツもいるだろ。……休ませてやれよ。先生」
そう言い残すと、カトリーヌさんは騎士団に指示を出すために城へと向かって歩き出した。その後ろ姿は、戦いの名残をもう残してはいなかった。
俺達のいる丘は、眼下に城下の街を望むことができた。今し方戦闘が起きたとは思えぬほどに整然とした美しさを保っているのは、ここが直接戦場にならなかったことを意味している。恐らく、ロナート卿も騎士団も、街で戦うことを避けたのだろう。アッシュが弟妹の安否を確かめるために街へと向かっているが、人々に被害はなさそうだとほっとする。それが唯一の幸いであったとすら、今の俺には思えてしまう。
小さく息を吐いたとき、不意に先生が俺の名前を呼んだ。「ディミトリ」抑揚に乏しい、いつもの先生の声だった。けれど、冬の海に似た色の目が俺を真っ直ぐ捉えたとき、俺はなぜか、己の中の薄暗い部分に灯りを向けられたような気がしたのだ。
「そちらは問題なかっただろうか」
問題だらけだ、先生。そんなこと、とてもじゃないが言えない。
人を殺してしまったことへの自己嫌悪に打ちひしがれる少女に、では、正しい言葉をかけてくれ。
それすらも声にならなかった。もしかしたらは、数日授業に出られないかもしれないと、そう口にすることしか。
先生は俺の言葉に、ゆっくりとその目を瞬かせていた。花冠の節、その終わりに、腹に空洞を開けた人間は、少なからずいた。視界の端に、獣が見えた。