闇夜での戦いは経験があるが、霧の中で敵を相手取ることは今までほとんどなかった。ここまでの濃霧となると、余計に。



「……本当に、全然前が見えないのね〜」



 少し前を歩くメルセデスがそう言ったのに対し、さらに前方にいるアネットが「こんな霧、あたしも初めてだよ」と不安の混じった声で言うのを耳に入れながら、文字通り手探りで戦場を進む。
 経験してみて分かったが、これは随分神経を使う。なまじ視界が白んでいる分、人間の影が薄らぼんやりと見えるせいで判断が鈍るのだ。が不意に視界に入り込んだ路傍の木や、味方に反応してしまうのも無理はない。この中で戦えと言うのなら、気配や物音だけで判断しろと言われた方が、幾分かましだろう。
 今のところ、敵兵はカトリーヌさん率いる騎士団の精鋭と、前線の先生たちが抑え込んでいる。お陰で気を付けなければならないことと言えば、足元で事切れているガスパール兵の遺体を足蹴にせぬようにすることくらいだった。王国の民の魂の安寧を、心の中だけで祈るが、言いようのない虚しさが募る。
 噎せ返る血の匂いは霧に乗って、肌に纏わり付くように周囲を漂っていた。無意識にか、小さく咳をしたは、剣を手にしたまま、途方に暮れたような顔で、前を行くメルセデスの背を追っている。俺はその横顔を、ただ見守っている。








 戦場にいるのだという実感は、足の裏からじわじわと浸食して、やがて私の頭のてっぺんまでを浸していた。
 霧の中響く、味方のものか、敵兵のものなのか判然としない悲鳴に身体はびくりと跳ねて、そうしているうちに段々と神経がすり減っていく。時折弓矢らしきものや、魔法による光が遠くでぼんやりと見えたけれど、それらは全て先生やカトリーヌさんが防いでくれているらしく、私たちは本当に、前方に薄ら見える先生たちの後を追うだけだった。
 握りしめたままの剣は自分の体温で温くなっていくばかりで、その刀身は今も何の汚れも知らないままいる。それに安堵していいのか、申し訳なく思えばいいのかも分からなかったけれど、足元で事切れている死体の様子を見て、それが敵兵のものであるらしいことにほっとする私は、どうしたってロナート様の味方ではないのだろう。それはもう、きっとどうしようもないことだった。



「……もう、霧、晴れないのかな」



 独り言のつもりだったけれど、近くを歩く殿下が「晴れそうもないな」と低く返してくれたことで、何だか心が軽くなった。そうでなければ私は孤独と恐怖に押し潰されて、そのまま消えてしまいそうですらあった。
 目を見開いたままの兵士の死体と目が合って、逸らしそうになったのを、ぐっと堪える。どうかこの人達の魂が、安らかに。祈り終わるよりも先に、ロナート様の優しい眦が脳裏を過ぎる。
 例え教団に刃を向けたロナート様がゆるされることがなくても、この霧の広がる戦場のどこかにいるロナート様に、せめてもう一度会いたい。








 先生には自ら志願したが、誰か一人はその役を負わねばならないとして、後方の味方を支援する適役が自分であったとは、初めから思っていなかった。
 先生は指揮を執らねばならない以上前線を離れることが難しく、ガスパール城を前に視野が狭くなっているだろうアッシュも適任とは言い難かったし、一方で前線においてこそ活きるフェリクスにはそも頼むべきではない。
 だが、そうやって一人一人選択肢から外していったところで、俺よりもずっと、その場に相応しい人間は他にいたはずだった。俺はそのうちの誰かにら戦いに不慣れな生徒を任せ、いつも通り、武器を持って先陣を切るべきだった。先生の逡巡に付け込むのではなく。
 が心配だったのだ。
 勿論、だけではない。無謀なことをしないだろうかと、彼女と同じくらいアッシュのことも気に掛けていたつもりだ。だが、アッシュのことは前線に立つ先生が留意してくれる。ならば俺がを守ろうと、そう思ったのだ。そこに他意はないはずだった。
 しかしイングリットやドゥドゥー、シルヴァンだったら、もっと上手くやれたのではないだろうか。霧の中から現われた兵の中に民が混ざっていることをよりも早く察して、動揺する彼女を戦場から退避させる判断が、できたのではないか。
 過ぎたことを思い悩む癖が、今もまだ抜けない。








 気を抜いていたつもりはなかった。
 だけど、結果的に不意をつかれたのだから、私の注意が足りなかったのだろう。直前に木と人影とを見間違えたのも良くなかった。視界の端で何かが動いたのに、まず風に揺れた枝か何かではないかと考えてしまったのだ。
 だけど、そうではなかった。
 突然、メルセデスちゃんの短い悲鳴が聞こえた。「メーチェ!?」彼女の名を呼ぶ、アネットちゃんの声も。「敵襲だ」殿下の言葉が、耳をすり抜けていく。視界を覆う霧は私に最低限の情報しか与えてはくれない。ただ、目の前の影が何かを振りかぶって、それが私の爪先を掠めたのだけは確かだった。悲鳴なんか、あげる余裕もなかった。ただただ血の気が引いていた。握りしめた剣の、宙に浮いた切っ先が、私の震えを教えている。舌打ちと共に、地面に深く突き刺さった斧を抜こうとする、誰かの腕が見える。敵。敵襲だ。殿下の言葉を脳内で反芻させながら、だけど私は、身動きが取れない。








 一つ大きな間違いをしたというならば、それは明らかに、陣形の脇腹をつく形で突然現われ矢を放った兵士に気を取られ、たちから注意を逸らしてしまったことだ。
 敵を薙ぎ払い振り向いたときには、メルセデスが敵に切りかかられた腕を押さえているのが見えた。切っ先が掠めたのだろうか。鮮血がその腕から滴り落ちているのを見て、背筋が粟立つ。



「メーチェ、メーチェ!」

「アネット、メルセデスを頼む」



 敵は再び霧に紛れたが、目を閉じれば新しい血の匂いは風上からこちらに向かって流れていた。当たりをつけて数歩踏みこめば、思った通り、大きく剣を振りかざした兵士の姿がある。虚を突かれたことで次の行動に移るのに、一瞬の逡巡が生まれたのを見逃さなかった。その脇腹を握った槍でそのまま抉る。ガスパール兵は低く呻き、やがて泥濘んだ地面へと頽れた。
 完全に息絶えているのを確認して、短く息を吐く。
 神経は周囲に張り巡らせていたつもりだったが、ここまでの道中が順調であったこと、敵兵の攻撃がこちらに及ばなかったことが油断となったのは間違いなかった。「メーチェ、良かったぁ……」幸いにもメルセデスの傷はさして深くはないらしい。「驚かせてしまってごめんなさいね、アン」アネットの魔法で塞がっていく皮膚を視界に入れて、安堵する間もなく視線を動かす。
 もしかしたら、気付かぬうちに前線との距離が開いてしまっているのかもしれない。事切れた死体から槍を引き抜き、の安否を確かめるために彼女を探した、その瞬間だった。



「ぶ、武器を下ろしてください……!」



 視界の不明瞭な霧の中、震える彼女の声がしたのは。








 その腕は、私が思っているよりも細かった。
 日に焼けた肌だ。生きるために必要なだけの筋肉のついた、まだ若い男の人の腕。こういう腕を、私は見たことがある。自領で、或いはお父様やお兄様にくっついていった先の領外の街で、私たちを出迎える民のそれに、この腕は酷く良く似ていた。
 仰々しい鎧は着ていない。ただ皮で出来た胸当てをしているに過ぎないその人は、兵士であるようには到底思えなかった。その身体は武器を持つにはやや細く、頼りなかった。慣れない剣を構えた私よりも、その人の方がずっと震えていた。だけど、覚悟を決めた目をしていたのだ。戦慄く唇が動く。口内の鮮やかな赤は、霧を彩る血のようですらあった。
 何か訓練を受けた兵士では、決してなかった。



「あんたらに、ロナート様を殺させてなるものか……!」



 彼は、民兵なのだ。
 思い当たってしまった瞬間、私はもう、どうしたら良いのかわからなくなってしまっていた。
 もしかしたら、いや、もしかしなくたって、民兵はこの人だけではなかったのだろう。私が通り過ぎていった遺体の中にも、本来ならば守られる立場である領民がいたに違いない。
 負け戦に投入するには想像以上に多かった敵兵の数。セイロス聖教会を相手とする以上、傭兵もロナート様につくとは考えにくい。そんな中、ローベ伯から兵を得ることもせずにロナート様がセイロス騎士団を手こずらせるほどの頭数を揃えることができたのは、そこに彼を慕う領民がいたからだ。



「ロナート様の無念を晴らすんだ!」



 あなたと戦う気なんか、ないんです。口にした言葉が引っかかって、上手く出てこない。喉が引き攣った。いっそ武器を捨てて、何もかもをなかったことにしてしまいたかった。
 無念、なんて、そんなの私だって晴らしたい、だってこんなのあんまりだ。



「ぶ、武器を下ろしてください……!」



 やっとの思いで吐き出した言葉は、けれど、彼に届くことはなかった。
 無念、ロナート様の無念、そんなの、一つしかない。私だって、アッシュくんだって、わかってる、ずっと前から。
 ロナート様に良く似た面差しの、クリストフ兄様の穏やかな双眸が脳裏を過ぎる。彼はいつも光の中にいた。「あまりキリアンを困らせてはいけないよ」ガスパール城の、一番人気の無い廊下の片隅に隠れる私を見つけ出すのは、いつもクリストフ兄様だった。ラルミナに帰りたくないとごねる私を、クリストフ兄様はそうして迎えにきてくれた。



「キリアンは妹である君をとても大事に思っているんだから。……あまり表には出さないようだけれどね」



 クリストフ兄様が私に差し出す手の温度も、柔らかさも、どうして忘れることができよう。ガスパールを囲む森林に似た、濃い草いきれの香りのする人だった。この世のありとあらゆる、柔らかくて、優しい手触りのものを集めたって足りない。私の心に静かなさやけさを与えてくれる人。いつも私ではない、どこか遠くを見ていた人。適切な距離感を保って私に触れるその手は、温かかった。そこには私たちにしか分からない親密さがあった。「」いつまでも私の内側に潜り込む、低く掠れたその声を、私は今も覚えている。
 もうこの世にいないなんて嘘だ。
 青年の構えた斧が大きく振り上げられる。鈍く光るそれは、私の首を簡単に切り落とせるだろう。
 動かなければ死ぬのは間違いなかった。このまま何もしなければ。



「無念を」



 民兵の声が、いつまでも頭の中でぐるぐると反響している。目まぐるしく点滅するのは、私が送った、今までの十六年だ。それらは火花のように私の瞼の裏で瞬いて、消えていく。士官学校の出来事、お兄様が亡くなる前日に咲いた花、クリストフ兄様とアッシュくんと歩いた川縁も、ロナート様にいただいた本の、うっとりするくらいに繊細な刺繍が散りばめられた表紙も。それらは全部、今、私の目の前にある。
 手放して、終わりにはできなかった。
 斧が振り下ろされるその直前、名前を呼ばれた。殿下の声だった。剣を握った瞬間に、私たちの間に横たわっていた空気が変質した気がしたけれど、それは、霧が突然晴れるに至ったせいだろう。斧の軌道を見切ることができたのは、民兵が戦いに慣れていなかったせいだ。その目線が私の首にあったのを受けて、咄嗟に地面に手を付いて身体を低くした。足を泥濘みに取られながら、斧の刃が空を切る音を聞く。一度曲げた膝を戻す、そのままの勢いで、胸当ての下の、防具の薄い部分を切りつけたとき、耳の奥で張り詰めていた糸がぶつりと音を立てて切れた気がした。








 やがて晴れた霧の中、私は、私の目の前で仰向けになって倒れている男性を、肩で息をしながら、ただ見下ろしていた。
 その手から斧は既に離れていた。そうしてみると、それは人を殺めるためのものではないもののように見えた。
 視界は返り血で赤く、息は切れていた。吐き気が酷かった。耳鳴りがして、足が震える。私の手から剣が落ちる。その切っ先は、もう赤黒く、ぬめった体液で汚れている。ガスパールの血に、それは溶け出していく。殺してしまったと思った。汚してしまった。民を。王国を。立っていられず膝をついても、彼はもう目を開かない。
 彼は私が奪った、初めての命だった。


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