私たちの学級は戦後の事後処理の手伝いをする、という話だったのに、蓋を開けてみれば私たちは戦場に投入されることになってしまっていた。
困惑はしたし、それは私の中で今も大きく渦巻いているけれど、同時にこの状況では仕方の無いことだとも思う。私は物分かりの良い人間でなければならなかった。アッシュくんがそう振る舞っているのだから。
時季外れの霧に紛れるように、ロナート様は兵を城周辺に配備。ガスパールの兵は騎士団による攻囲をすり抜ける形で逆にこちらを包囲しようとしていると言う。想定していたよりも兵の数が多いらしく、霧の中という不慣れな状況で、先行した騎士団も苦戦しているらしい。
ベレト先生は「視界が悪いのは向こうも同じだ」と言っていたけれど、でも、ロナート様たちには地の利がある。もしかしたら霧の発生を見越して、何か罠を仕掛けていたり、或いは動きやすくするために事前に辺りの木に目印を、なんてことをしていてもおかしくないんじゃないだろうか。そうイングリットちゃんに漏らしたら、イングリットちゃんは「そんなことを思いつくなんて……。、あなたには軍師の才能があるかもしれません」と瞠目するので、慌てて首を振った。不安が募って口にしてしまっただけに過ぎないし、そもそもこんな思いつきを話すだけの軍師なんて、いたら困る。
「そういう可能性もある以上、一応先生に伝えておいても良いかもしれませんね」
「えっ」
イングリットちゃんは、私の背後にベレト先生を見つけたのだろう。私が引き止めるよりも先に「先生!」と走り出してしまった。それに振り向いただけでついていくことが出来なかったのは、イングリットちゃんの姿があっという間に霧に飲み込まれてしまったせいだ。まだ敵兵と遭遇していないとは言え、これにはぞっとしてしまう。霧って、こんなに見えないものだっけ。この中で戦うって、すごく大変なんじゃないだろうか。
カトリーヌさんの馬に乗せてもらった頃から発生し始めた霧は、晴れるどころか、益々濃く、私たちの周りに纏わり付くように漂っている。少し離れれば、人はぼんやりとした影になって、木とも見分けが付かない。
孤立しないようにと先生は言った。けれど戦いが始まったとき、果たして周囲の仲間の動きにまで気を配っていられるだろうか。思い出すのは大樹の節、盗賊団に襲撃されたあの夜のことだ。慣れない山道で、どこへ向かえば良いのかも分からなかった。闇に目が慣れるまでは相当の時間を要し、賊からの攻撃を避けるのに必死で、私は縮こまってばかりいた。怪我をしなかったのは、奇跡だ。勿論、殿下や戦ってくれた皆の功績でもある。あの時の混乱を思い出すと、今でも恐怖が蘇る。ふと気がつけば、私の手は震えていた。武者震いなどではなく、不安によるものであることは間違いなかった。
「」
その時背後から声をかけられて、声にならない悲鳴をあげる。
勢いよく振り返った私は、霧の中、ぼんやりと浮かび上がる人影を見た。背は私よりも頭一個分ほど高く、その肩口から級長を示す外套の影が伸びている。「殿下っ!」少し間を開けてから姿勢を正した私に、殿下はちょっとだけ、笑ったようだった。
「少しいいだろうか」と前置いた殿下は、私が頷くのを待つ。さっきまでの緊張感とは別種のものが、私の頭のてっぺんから爪先までを浸していた。あれだけ一緒に訓練をしてもらっているというのに、私は未だに殿下と接することに慣れずにいた。
殿下のはっきりとした目鼻立ちは、きちんと向き合うと霧の中でも良く見えた。その眉がそっと下がるのを、私は息を潜めながら見届ける。
「……その、大丈夫だったか?」
「え? だ、大丈夫……とは……?」
「街道でのことだ。お前が遅れているとは気がつかず、すまなかった」
何のことか分からず目を瞬かせてしまったけれど、ここに至るまでの道中のことを心配されていたのだと気がついて、それはもう、物凄く動揺してしまった。ある一つのことに思考を割くと、他の部分への注意や関心が薄くなる。悪い癖だ。騎士団の方にも迷惑をかけてしまったのだから、きちんと覚えていないといけないのに。
「いえ、そんな、カトリーヌさんに馬に乗せていただけたので! むしろ、その……皆について行くことすらできず、恥ずかしいです……」
あれだけ走り込みや素振りで体力をつけたと思っていたのだけど、それでもまだ皆についていくには足りなかったらしい。この戦いのことで思い悩み、足が重くなっていたとは言え、申し訳なくなる。だけど殿下は小さく首を振った。「天候も足場も悪かったからな。無理はない」と、思いやるように続けてくれる。
私たちの間に、細やかな沈黙が落ちるよりも早く、殿下は小さく息を吐いた。
「……当分、霧も晴れそうにないな。この中での戦いとなると、なかなか骨が折れそうだ」
「そうですね。……本当に」
視界が不自由になる分、耳とか鼻でどうにかしないといけないんだろう。でも、やっぱりどうしても自信がない。視界不良というのも勿論あるけれど、実戦で、本物の剣を持って戦った経験が一度もない私が戦場に立つなんて、やっぱりどう考えても時期尚早だ。私のしている訓練なんて、殿下たちが普段しているものと比べればお遊戯みたいなものなのだから。
それに、戦いの相手は――。
殿下の瞳を捉えていた目線は徐々に下がって、最後にはとうとう、足元に落ちた。自分の履いている靴の先すらも、霧は飲み込もうとしていて、怖くなる。腰に差した剣が、ずしりと重く、その存在を主張している。もっと霧が深くなってしまえば、私はこの手の震えを誤魔化せただろうか。殿下にみとめられることなくいられただろうか。そんなことを考えてしまうのだ。
「……怖いか?」
そう尋ねられて、思わず顔を上げる。
霧の中と言っても、他の皆の気配は私たちの周囲に確かにあった。だけど私を真っ直ぐ見つめる殿下は、まるで一切を気にしてなどいないようで、私は一瞬、思考を奪われる。だけど、本当に、一瞬だけだ。
想定外の戦闘に、視界を奪う霧。武器の扱いにはまだ不慣れで、戦場でまともに剣を交えたことなど一度もなく、その上相手は、家族同様と言って良いほどに信頼のあったロナート様である。
殿下が一体、それらの何について「怖いか」と尋ねているのかは、私には分からなかった。だけど、例えそれがどれに対してであっても、答えは変わらない。私は怖い。怖くてたまらない。
けれど素直に頷くことはできなかった。例えここがガスパール城制圧のための拠点の片隅であったとしても、士気を下げるような真似はしたくなかったし、自分の弱さを自覚したくもなかったのだ。
「大丈夫です」
ゆっくりと首を振った私に、殿下は、だけど、ほんの少しだけ困ったような、泣きそうな顔をする。
「そうか」
空気を多く含んだ声が、殿下の口からそっと漏れた。私の明らかな嘘を、殿下は恐らく見抜いていて、だけど、追求せずにいてくれた。それが、有り難かった。
肩を並べる私たちは、ガスパール城のある方角へと目を向ける。霧に包まれたその城壁を、脳内で描く。
「……戦いになったら仲間と離れないよう、前にも出過ぎないように。いつ戦闘に巻き込まれてもいいよう、剣は常に構えておくと良い」
「はい」
「避けられる戦闘であれば、避けること。助けを求めることは恥ではない。こんな状況下ならば尚更だ」
「……はい」
「俺もなるべく、お前の傍にいる」
え、とあげかけた声は、ベレト先生の合図によってかき消された。俄に空気が張り詰める。その中にいる私は、戦への緊張半分と、殿下の言葉に対する動揺を半分ずつ抱いて、目と口とを丸く開けている。
霧の広がる状況であるため、配置にも気を配った末の、先生の判断、ということなのだろうか。隊列が乱れた場合に供えて、戦えない人間の傍に武器の扱いに長けた人物を置く。前節のザナドで起きた「事故」を思えば、それは必要な措置であるように思えた。申し訳なさと安堵で、喉の奥が震える。恐怖はちっとも小さくなってはいないのに。
「――進軍する」
辛うじて見える先生の背を追う。この地のどこかでは、既に騎士団とガスパール兵との戦闘が始まっているらしい。
ガスパール城へと向けて歩みを進めるさなか、そっと殿下を見上げたら、彼はもう、私のことを見てはいなかった。槍を構え、葉擦れの音すらも聞き逃すまいと息を潜め、その目を注意深く周囲へと向けていた。美しい瞳だった。私は殿下のそれが、どうしてか、孤独の淵にある人のものであるように思えた。