ロナート様の実子であるクリストフ兄様が亡くなられたのは、今から四年前のことだ。
「ダスカーの悲劇」に加担した罪で、クリストフ兄様は教団に処断された。王を失い混乱する王国の代わりを、教団が務めたのだった。
私がそれを聞かされたとき、クリストフ兄様は、既にこの世に居なかった。
ガスパール城へと向かう道中、天気が崩れた。多少の小雨程度であれば雨除けの外套を纏えば済む話だったけれど、雨脚はあっという間に強くなって私たちの歩みを阻んだ。
視界が霞むのは、雨の作る夥しい数の線のせいなのだろうか。濡れた手足が冷たくて、なるべく外套の中に皮膚を隠そうとするのに、それでもどうしたって限界がある。寒いな、と、どこか朦朧とする頭で考える。ガルグ=マクで数節過ごしただけなのに、王国の冷たい雨を忘れてしまったみたいだった。誰かが歩いた拍子に跳ねた泥が足にかかった。それは体温だけでなく、私の覚悟まで奪っていくように思えた。
足が重くなってしまったのは、冷えと疲労によるもので、心がしんどいせいではない。そう言い聞かせながらも、私の歩みはどんどん他の人よりも遅れていく。イングリットちゃんが声をかけてくれたけれど、付き合わせるのが申し訳なかったから、先に進んでもらった。いつの間にか私の周りには人はなく、私の耳が拾うのは自分の吐いた息の音と、身体を叩く雨音だけになっていた。
ガスパール城までは、あとどれくらいなのだろう。
ローベ伯領には、もうずっと前に入っている。東西に細く伸びる領地だ。街道沿いの木々は、晴れ間であれば木陰でできる模様を地面に落とすはずだけれど、降り続く雨が足元をぬかるませる今、その景観も損なわれていた。時折植生が変わって、木々の葉や枝振りの色や形が変化するのに、それらが何という名前の木なのかを、私は知らなかった。
毎年馬車から眺めていたはずの景色が今自分の見ているものと一致しないのは、私がいつもおしゃべりに夢中だったせいかもしれない。終わりのない私の会話に付き合ってくれるのは、いつもお父様か、お母様だった。お兄様は呼ばれればきちんと答えるけれど、ラルミナ領への道中は、常に窓の外を眺めていた。まるでその先に、自分がこれから向き合う重大な問題が隠されていると言わんばかりに。だから、もしも私がお兄様くらい真剣にこの街道を見守り続けていたのなら(それこそ、たったの一度でも)、私はもしかしたら、今自分のいる場所に大体の目星をつけられたのかもしれなかった。
仮定の話なんか、今したって、無駄だ。
雨は私の体力を徐々に奪っていく。いっそ、このまま倒れられたら良いのに、と、狡いことを考える。そうしたら、目が覚めたときには全部終わっている。なんて、こんなのただの現実逃避だ。ずっと前から痛んでいる脇腹をそっと押さえながら、そっと目線を落とした。だから、丁度その瞬間、雨でぼやけていた自分が進むべき道の先から、何か大きな影が現われたのに気がつくのが遅れてしまったのだ。
「ああ、いたいた」
私が顔を上げたのは、馬の蹄の音と共に、聞き慣れない女性の声が、雨音の間を縫うようにして届いたからだ。
「アンタがだな?」
セイロス騎士団を示す鞍のつけられた白馬に跨がったその人がカトリーヌさんであることは、外套の下から覗く、印象的な瞳と、日に焼けた肌の色で分かった。
「乗りな。課題の前にくたびれちまったら、元も子もないだろ」
差し出された厚い手の平は、ローベの雨に濡れていた。
カトリーヌさんの操る馬の前に乗せてもらった私は、イングリットちゃんが私のために馬を貸してもらえないかと騎士団員に談判したことを知った。この雨のせいで一人遅れている生徒がいるのだと説明するイングリットちゃんの話を聞いて、私の回収を引き受けたのが、丁度その時馬の手綱を引いていたカトリーヌさんだった。
「すみません、カトリーヌさん。ご迷惑をおかけして……」
「気にしなくていいさ。どの年でも、体力のない生徒ってのはいるもんだよな」
からっとした声音で、カトリーヌさんは言う。後ろからしっかり身体を固定されているため、その表情を窺うために身動ぎをすることは決してできなかったけれど、その声や口調は私が彼女に抱いていた印象以上に親しみやすい。
どの年でも、ということは、カトリーヌさんは騎士として毎年こうして落ちこぼれの学生を見ている、ってことなんだろう。別に呆れられたというわけでもなんでもないのに、申し訳なく、恥ずかしくなってしまう。いくら今の心中が穏やかではないとは言え、こんなところで置いて行かれているようではまだまだだ。「精進します……」と呟けば、それはどうにかカトリーヌさんの耳に届いたのか、応えるように身体を支える腕に力を込められた。思わず「うぐ」と声を漏らしたら、カトリーヌさんは小さく笑った。
そんなやりとりの中でもイングリットちゃんの気遣いに心底感謝してしまうのは、思った以上に私と他の皆との間に距離があったらしいことに気がついたせいだ。私はすっかり本来の歩く速度を見失っていたらしい。馬の濡れた鬣のその先に、まだ人の影はない。
「まあ、時間はあるんだ。焦らず進めよ」
私の中で芽生える焦燥や心細さは、この皮膚から伝わったのだろうか。笑いながらそう言うカトリーヌさんの身体は、私よりもずっと温かかった。
私たちはそれ以上何か特別な話をしたわけではない。私はカトリーヌさんのことをセイロス騎士団に属する聖騎士であるという以外は特別知らなかったし、彼女もまた私のことを、王国生まれの何者かであると認識しているのみだった。
一つ例外があるとするならば、私は彼女の号令一つでロナート様の命運が変わるかもしれないということを知っている、ということだった。そして実際、私はそれを望んでいる、心の片隅で、ひそやかに。
だけど、だからと言って私にはどうすることもできなかった。殺さないでと言う訴えも、喉の奥で引っかかって消えてしまった。私はあの優しい人に訪れる死を、受け入れなければならなかった。
ただ、カトリーヌさんの体温と、感触だけが鮮明だった。当たり前のことなのだけど、彼女は正しく人間だった。
私たちが部隊に追い付いたときには、そこはもうガスパール城と目と鼻の先だった。
降り続いていた雨は、カトリーヌさんと私が馬から下りるときにはやんでいたけれど、広がる霧で視界が悪くなっている。おかげで本来なら見えるはずの尖塔が、視界のどこにもない。
「雨があがったのは良いがこの時期に霧とは……珍しいな」
ほとんど独りごちるように呟いたカトリーヌさんに、そろりと視線を送った。この辺りは元々霧が出やすいけれど、言われてみれば、花冠の節に霧が出るということは、そうそうない。今のところさほど濃い霧でもないから、このまま晴れそうなものではあるけれど、いずれにせよすぐにはここから動けないだろう。そういう細やかな延命に、ほっとしていいのかどうかも分からなかった。
雨が上がったことを受けて、カトリーヌさんは外套を脱いだ。年季の入った、しかし充分に手入れの行き届いた鎧がその下から現われる。それに動揺してしまったのは、どうしてだろう。そっと視線を落としながら、私はカトリーヌさんに頭を下げる。
「その、カトリーヌさん、ありがとうございました。本当に助かりました。あのまま一人だったら、遭難してたかも……」
「街道で遭難なんかしたら、一生笑い種として語り継がれるぞ。それに礼ならアンタの友だちに言ってやんな。……ほら、丁度向こうにいるだろ」
指し示されたその先には、確かにイングリットちゃんの姿がある。先遣隊からの連絡を待ちながら、皆は各々休憩を取っているらしかった。一緒にいるのがフェリクスくんだったから、ちょっと逡巡してしまいそうになったけれど、それでも私は頷いて、改めてカトリーヌさんにお礼を言ってから、二人の元へと足を向けた。
イングリットちゃん、ごめんね、すごく助かったよ、ありがとう。彼女に向ける言葉を頭の中で作りながら、カトリーヌさんを振り向いたのは、どうしてだろう。
彼女はもう私から背を向けて、イングリットちゃんたちとは反対側の、晴天であれば眼下に城を見下ろせる、小高い丘の上へと向かっていた。その様子を窺ってしまったのは、その先にベレト先生と殿下、それからアッシュくんが居たからだ。アッシュくんの表情は、霧のせいもあって、良く見えない。
カトリーヌさんは、先生とこの後の確認でもするのだろう。それが終わったら、きっと私たち生徒も改めて招集をかけられるはずだ。そして、先遣隊により騎士団がガスパール城を攻囲するのを待つ。だけど、胸の内側に漣が立ったように、心がざわざわしていた。
身に纏ったままの外套は重く、地面に雨水の染みを作っていた。それはまるで何かの悪い予感のように、私の足元で、静かにその体積を広げていた。
想定以上の数の敵兵が霧に紛れ接近していると報告されるのは、その後のことだった。
それにより、当初の任務は変更される。私たちは騎士も学生もなく、この地を戦場として、ガスパール兵を迎えることになる。