私とアッシュくんとが肩を並べ、互いの感情を曝け出したところで、アッシュくんの気持ちが晴れることはきっとなかった。
 アッシュくんは授業が終わると変わらず一人で大聖堂へと向かったし、その表情はいつも、何かに翳って見えなかった。そんな彼を前に、ベレト先生も事の仔細は知らずとも、何か察するところがあったのかもしれない。先生は、私がそうするよりも早く、大聖堂で俯くアッシュくんに声をかけていたようだったから。
 ひとり教室を出ていくアッシュくんのその背を見る先生の目には、何か、静かな感情が籠められているように思えた。授業中、その視線は良くアッシュくんを捉えていた。だけどただ自身の内面にのみ向き合い続けるアッシュくんには、それが分からなかったのだ。
 一方殿下は、あの日私とアッシュくんと間で行われたやりとりについて、深く立ち入ろうとはしなかった。だけど私が彼を立ち直らせるに至らなかったことだけは、アッシュくんの様子を見るに理解できたのだろう。「……こればかりはな」と、低く、殿下は呟いた。
 殿下はそれでも、何もできなかった私を気遣ってくれる。



「……お前も無理はするな、



 訓練だって、こういうときは休んで良いんだ、って。眉尻を下げて、思いやりに満ちた優しい声音で。
 私はけれどそれに、緩く首を振った。殿下の優しさを無碍にしないよう、慎重に。



「ありがとうございます。だけど、訓練をしている方が、気が紛れるんですよ」



 それは嘘でも、かといって揺るぎない真実というわけでもなかった。殿下や先生、イングリットちゃん、有り難いことに、私の剣を見てくれる人はそのときによって変わったけれど、私は剣を振りながら、或いは打ち合いをさせてもらいながら、ふとした隙間に殿下の言葉が潜っていくのを感じている。私はずっと、それにひとり、対峙しているような気になる。「無理をするな」って、穏やかな言葉が、いつまでも耳のあたりを彷徨っている。
 「無理」って一体、何だろう。
 本当に「無理」なことを一つ、誰にも咎められることはないから口にしなさいと言うのなら、私もアッシュくんも、きっと答えは同じはずだった。「ロナート様と戦うこと」だ。だけど、それを避けることなんかできるわけがないということも、私たちは知っている。教団に剣を向けることは、決して許されることではない。例えそこに、どんな理由があろうとも。
 ガスパールの叛乱への鎮圧には、私たち青獅子の学級と共に、セイロス騎士団屈指の勇士である聖騎士、カトリーヌさんら精鋭の部隊が送られるらしい。レア様は、一分の恩赦もなく、ロナート様を討伐するつもりでいる。
 王国の一城主であるロナート様がそれに対抗しうる兵力を持つとは考えにくく、勝敗など、火を見るより明らかだった。
 私たちは抗うこともできぬまま、一日一日が過ぎ去るのを待っていた。情報の漏洩を防ぐ目的があったのか、作戦決行の日を知らされることのなかった私たちは、いっそ息を潜め粛々と刑の執行を待つばかりの、罪人に似ていた。
 いくら主に祈れども、その日がやってこないなんて、そんなことはなかったのだ。
 それは花冠の節らしく、どんよりとした厚い雲が空を覆う、どこか肌寒い日だった。ベレト先生の招集を受けた私たちは、身支度を調えてガルグ=マクの門に並ぶ。私はそこに、アッシュくんの姿を見ていた。その表情は私の居る場所からでは窺い知ることができなかったけれど、その背が丸まっていないことだけが、唯一の救いだった。
 節の初め、お父様へガスパールの現状を尋ねる手紙を送ったけれど、結局、私たちがガルグ=マクを発つその日まで、返事がくることはなかった。








 年に一度、女神再誕の儀がある青海の節に大聖堂を訪れるのはフォドラ貴族の義務と言っても過言ではなかったけれど、私は毎年、この街道を通ってガルグ=マクへと向かっていた。去年はお兄様も健在で、お父様とお母様と、四人で馬車に乗って祈りを捧げに行ったのを、今でも良く覚えている。私たちが揃って遠出をしたのは、あれが最後だった。
 その道を、今は沈痛な思いで歩いているのだから、不思議なものだ。
 私たちの青獅子の学級に与えられた課題は、厳密に言えば叛乱の鎮圧そのものではない。元々与えられた名目としては、「ガスパール城接収の手伝い」だ。後詰めとして、騎士団が終えた戦闘の後処理をするというものだった。
 ガルグ=マクを出てから、西のエレボス領を通過する。そこからマグドレド街道を通って、ローベ領南部にあるガスパール城を目指す私たちの先頭には、セイロス騎士団がいる。
 聞いたところによると、カトリーヌさんは「英雄の遺産」と呼ばれる凄まじい力を持つ武器を扱うことのできる存在らしく、女性でありながら、その実力はレア様も認めるところなのだとか。大修道院内でたまに見かけることはあったけれど、お話をしたことは当然ない。日に焼けた肌に鎧を纏った、精悍な横顔をした女性だった。以前、「カトリーヌさんは、本当に素晴らしい騎士なのですよ」とイングリットちゃんが言っていたのを思い出して、本当だったら心強く思わなければならないはずなのに、知らないうちに息を止めてしまう。
 直接ロナート様と戦うのは彼女らセイロス騎士団で、私たちではない。分かっていても、これからロナート様は殺されてしまうのだ。そう思うと足が竦んだ。何も考えずにただ動かし続けていた足が急にもつれて、つんのめる。



「危ないっ」

「わっ」



 急に身体を支えられて、思わず声をあげてしまった。細いのに、しっかりと力の入った腕だ。白い手の甲から制服に隠された手首、二の腕、肩、少しずつ視線を動かすと、長い金色の髪が目に入る。私を支えてくれたイングリットちゃんは、安堵したようにその眉を下げていた。
 「あ、ありがとう」とお礼を言いながら、胸の内側がばくばくと音を立てているのを自覚する。入学直後の野営訓練を思い出してしまった。あの時は本当に転んでしまって、あちこちを擦りむかせて、メルセデスちゃんやアネットちゃんのお世話になったっけ。



「怪我はないですか? 

「ない、ないよ、ありがとうイングリットちゃん」

「良かった。……気を付けてくださいね。地面が少しぬかるんでいますから」

「うん、ごめんね。ちょっとぼんやりしちゃってた」



 そう口にした瞬間、イングリットちゃんの瞳が微かに哀の色を帯びた気がして、私は咄嗟に、あ、と思う。間違えてしまった、って。
 イングリットちゃんは私を心配してくれている。勿論、私以上に塞ぎ込んでいるアッシュくんのことも。普段以上に気遣ってくれるイングリットちゃんに、私はなるべく心配をかけないようにと殊更明るく振る舞っていたのだけれど、ここに来て、その秤の片側に重石を乗せすぎてしまった。
 本当は、すごく怖いの。嫌なの。逃げだしたくてたまらない。
 内側に溜め込みすぎて、破けてしまいそうだった。そうならないよう、口の端から細く長く息を吐いて、私のずっと前を歩くアッシュくんの後ろ姿を見る。アッシュくんがああして真っ直ぐ歩いているのに、どうして私が弱音を吐けるだろう。私たちは直接的ではないにしろ、これからロナート様を手にかけるのだ。それは私の身体の内側を冷たくするのに充分だったけれど、そんなものは、私はあの日、無理矢理に飲み込んだはずだった。あの高い天井の、玻璃硝子から差し込む光の下、アッシュくんの熱をすぐ傍で感じ、主に見守られながら。
 顔を曇らせたイングリットちゃんに笑顔を返す。「置いていかれちゃう、行こう」と言いながら、私は大きく足を踏み出した。瞬間、右足が水分の多く含んだ土に僅かに沈んだけれど、もう、足がもつれることはなかった。


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