お隣のローベ伯領の北部にあるガスパール城はうちの領地の南部と隣接していて、ローベ伯とお父様との会談の場として使われることが多く、私とお兄様は良くガスパールへと向かうお父様に付き添ったものだった。勿論、お兄様は後学のためであり、私は……そう、息抜きに。
 城主であるロナート様は私たち兄妹にもとても良くしてくださった。特に私が退屈しないよう、庭園で小さなお茶会を開いてくれたり、書庫に連れて行ってくれたりした。いつも心を配ってくださる方だから、私もすっかり懐いていたのだ。
 アッシュくんと私は、十歳のときに知り合った。彼はロナート様に引き取られた、平民の子どもだった。
 私は最初、彼か幼い彼の弟妹が紋章を持って生まれたのかと思った。紋章を持つ子供の産まれなかったおうちでは、紋章持ちの平民を養子に迎えることが度々あるって話をその頃の私は耳にしたばかりだったから。それで私は、大人達が席を外したとき、アッシュくん本人にこっそり聞いてしまったのだ。



「あなたも私のお兄様みたいに、紋章があるの?」



 って。今思えば、傲慢で、酷く無神経な子どもだったと思う。だけど、アッシュくんは薄く緑がかったその瞳を瞬かせて、小さく首を傾げたのだ。その目が、私には、薄く膜の張られた光の玉のように見えた。



「もし仮に紋章があったとしたら、僕はここにはいないですよ」



 想像していたよりも、ずっと思慮深く、一方であまり抑揚のない声だった。幼い私はそれに気を取られて、余計に彼の言ったことを理解するのに時間がかかってしまう。
 ええと、要するに、この男の子に紋章はないってことだよね。もしもあったらここにいない、っていうのは……そうか、それこそ紋章があるならば、一領地の城主であるロナート様にではなく、後継者のいないローベ伯に引き取られていたっておかしくないのだ。いちいち尋ねなくたって、ガスパール城の城主の養子であるという時点で、予測できたことだった。それに、もし紋章の有無がかかわっているというのなら、それに関係の無いきょうだいが揃って養子になると言うのは考えにくい。
 だけど十歳の私には、そういう風に一から順序立てて想像することは、まだ少し難しかったのだ。目から鱗とはこのことで、私は口と目を丸くして大きく頷いた。



「そっか、それもそうだね」



 納得する私に、アッシュくんはちょっと、びっくりしたように目を見張らせた。頭の回転の良くない子だと思われたのかもしれないけれど、初めて出会ったときから今に至るまで、アッシュくんは私を馬鹿にしたことは一度もない。
 アッシュくんは、こういう考えを提示できるくらいに賢い子だから、ロナート様に引き取られたんだ。見所がある、ってことなんだと思う。何がきっかけで、ということは詳しく教えてもらわなかったけれど、本当のご両親は流行病で亡くなっているらしいとお兄様経由で聞かされたから、そういうことなんだろう。私は以降、アッシュくんに彼がロナート様に引き取られるに至った経緯を直接尋ねることをしなかった。
 アッシュくんの表情は、季節が一つ進む度に和らいだ。養父であるロナート様や、義兄であるクリストフ兄様のように、柔らかい声で私の名前を呼んだ。








 歴史のある建物というのは積み重ねた年月の空気がそこここに染みこんでいるものだけど、ガルグ=マク大修道院の大聖堂は、不思議なことにそれをあまり感じさせなかった。千年も前に、この大聖堂は建築されている。柱の模様一つ、飾り窓一つを取っても、それらは素晴らしい技術の結晶であるように思うのに、どこか素っ気ないのだ。
 扉を潜って中に足を踏み入れたとき、その空気の変容に一瞬息を止めた。人々の祈りがもたらす目には見えない感情の渦が、重苦しく空気に混ざり合う。そういう風に感じてしまうことが、たまにある。こんなこと、決して他の人には打ち明けられないけれど。だけど今日は、自分の気持ちの問題も大いにあったのだろう。アッシュくんの姿は、大聖堂中央にある長椅子の端にあった。緊張で顔が強張るのを感じながら、一瞬逡巡する。思いきって歩き出した。多分、それが正しかった。
 私の歩き方はアッシュくん曰く特徴的らしく、どれだけ私が気を遣ってもそうと分かると言う。だけど、多くの人が行き交う大聖堂内の反響しやすい床において、私の足音を聞き分けることは難しかったのだろう。
 それが分からないほど彼が心身を喪失しているのではなく。
 長椅子に座り頭を下げたまま、ぴくりとも動かないアッシュくんを前に、私はそう思い込みたかった。俯くアッシュくんの横顔を、その柔らかな毛がほとんど覆い隠していた。それは、そこに何か重大な答えがあるのに辿り着けない、という焦燥と、その答えを直視しなくて済むという安堵を、ひっそりと私に与えた。私は、臆病だった。
 殿下は、自分がアッシュくんだったら、私に傍にいてほしいと思う、と言った。
 ロナート様との共通の思い出を多く持つ私に。例え何の言葉も向けられなかったとしても。
 だけど、本当にそうなのかな。殿下はそうでも、アッシュくんも私に居てほしいって、本当に思っているんだろうか。アッシュくんの周囲は、目には見えない膜がある。躊躇しかなかった。自分がそこに触れてもいいのかわからなかった。だけど、そのとき不意に蘇った言葉があったのだ。「アッシュだけではなく、お前にも思うところはあるだろう」全てを見透かすみたいだった、殿下の言葉が。
 ロナート様。まるで私を娘のように可愛がってくださった。四年前、クリストフ兄様が亡くなって、失意の底におられたはずだったのに、それでも私やお兄様の前では優しく、毅然としていらした。私はロナート様が好きだった。こんなことを言っては怒られてしまうかもしれないけれど、素っ気なく冷たいローベ伯より、人情味があって、いつも熱心に私の話を聞いてくれて、面白い本を教えてくれて、アッシュくんを見つけてくれたロナート様が大好きだった。「アッシュを頼みます」と、一人前の大人の女性にするみたいに握手を求めてくれたロナート様の、厚く、大きな手が好きだった。
 そんなロナート様がどうして討伐されなくちゃいけないんだろう。
 アッシュくんの隣に座ろうとしたとき、こ、こ、って、踵が鳴った。アッシュくんの言う、「の歩き方」だったんだろう。アッシュくんが、そのとき初めて気がついたみたいに私を見上げた。







 アッシュくんが私の名前を呼ぶ。出会ったときよりも低く、掠れた、だけど温度のある声で。
 アッシュくんは全然泣いてなんかいなかったのに、どうして私の視界がぼやけるんだろう。手の甲で目元を拭いながら、アッシュくんの隣に腰を下ろす。アッシュくんは私の隣に座るとき、いつも子供一人分の間隔を開けて座るけれど(そしてそれは彼の、私に対する気遣いであると私は薄ら知っていたのだけど)私は決してそれを真似なかった。
 拳一つ、ううん、指が一本入るかどうかくらい隣り合う位置に座って、私はしゃくりあげて泣いた。私の喉が出す引き攣った音は、大聖堂に反響して、きっと目立っただろう。だけどそれで収まるはずがなかった。私はアッシュくんの悲しみを分けて一緒に背負うどころか、隠し持っていた自分の悲しみを、ただ増幅させただけだった。
 どうしようもないのかな。
 言いたくても言葉にならない。それに、口にしたってきっと意味はなかった。
 ロナート様がセイロス教会に剣を向けたのは、事実だろう。誰かに誑かされたのでもなく、ロナート様は自分の意思でもって兵を挙げ、叛乱を起こした。ロナート様にはそうするだけの理由があったことを一番良く知っているのは、私よりも、アッシュくんだ。だけど、「何も聞かされていなかった」ただ泣き続けるだけの私の隣で、悄然とした声でアッシュくんは言う。「こんなの何かの間違いだ、って、先生には言えたんです」と。



「今、君を前にしても、心から、本気でそう言えたら良かった」



 だけどそうするには、アッシュくんは、賢すぎたのだ。
 慰めることなんて、できるわけがなかった。アッシュくんが本当に、殿下の言うように、私に傍にいてほしかったかどうかすら分からなかったんだから。
 私たちはそれからずっと、言葉もなく寄り添っていた。日が沈み始めて、差し込む光の角度が変わっても、私たちはただそこにいた。アッシュくんと同じだけの思い出があるなんて、そんなのは死んでも言えない。アッシュくんの方がずっと、この事実を耐えがたく思っているのは間違いない。だけど、近い将来に起こり得る喪失の準備を、私たちは二人で、痛みに耐えながらしたのだ。それは、私たちにしかできないことだった。それだけは確かだった。


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