アッシュくんはロナート様挙兵の報を受けて以来、私たちの誰とも距離を置くようになっていた。
授業はきちんと出席するのだ。座学ではきちんと筆を取り、訓練もそつなく、それどころか私よりもずっと上手くこなす。だけど鐘が鳴り先生が去ると、彼は言葉もなく、ふらりと姿を消してしまう。どうやら大聖堂にいるらしい。誰も寄せ付けることなく、たった一人で。
そっとしておくべきだろうと殿下は言う。十歳でロナート様の養子となったアッシュくんにとって、ロナート様は第二の親と言っても過言ではない。それなのに、(彼の様子を見るに、という想像の話ではあるけれど)アッシュくんは今回の挙兵については何も聞かされてはいなかったようなのだ。
しかも後詰めとは言え、今節の課題として、私たちもその鎮圧に向かうことになってしまった。
それは要するに、アッシュくんがロナート様を討伐する舞台に向かわなくてはならない、ということだった。
「その心中は、察するに余りあるよ」
放課後の訓練場で、殿下は私にそう言った。
休日とは打って変わって、訓練場は活気に満ちている。休憩がてら殿下と並んで壁に背を預けていた私は、打ち合いを終えて乱れたままの呼吸の中、右耳だけで殿下の声を拾う。筒に入れて持って来ていた水を一口飲んで、それからちょっとだけ呼吸を整えた。酷く疲れていたのは、私自身、身体を動かしていなければ打ちのめされてしまいそうで、いつも以上に無我夢中で剣を振っていたせいだ。
殿下は私ではなく、訓練のために武器を振る生徒たちの姿を視界に入れている。その眼球は、けれど、何か一点を見つめているだけのように見えた。だけど、空虚とは違う。殿下の目には、いつも光が宿っている。
「…………はい」
自分の中から言葉を探して、探して、それでようやく取り出したのがそれだったのだから、嫌になる。
私だってアッシュくんが心配だった。他の誰かがそうするよりも、アッシュくんとは旧知の仲である私が彼に声をかけるべきなのだろうとも思った。だけど、「べき」ってなんなんだろう。その考え自体が、酷く傲慢なんじゃないか。アッシュくんは私に心配されても、煩わしいんじゃないか。そんな風に考え込んでしまって、ベレト先生から挙兵の話を聞いて三日が経った今も、私はアッシュくんに、湿った視線しか送れずにいる。
自分の感情が、少しも間違えることなく言語化できて、些細な屈折なく届けられたら良いのに。だけど、それもただの自己満足だ。隣の領地に住んでいた。ロナート様にもとても良くしてもらった。だけど四年前、ガスパールに降り注ぐ災禍を、私たちは何もせず眺めているだけだった。今だってそうだ。そんな私が、一体アッシュくんに何をしてやれるって言うんだろう。
そんなことを悶々と考えていたから、私は殿下が私の名前を呼んでいることに気がつくのに、随分時間がかかってしまった。はっとしたのは、殿下が私の視界に収まる形で顔を覗き込んだからだ。
「?」
喧噪の中でも、聞き取りやすい良く響く声で、殿下は私の名前を呼ぶ。
「はっ、はい!」
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です。疲れも取れました、いつでも再開できます!」
訓練のことかと腰に下げた訓練用の剣の柄に振れながら頷く私に、けれど殿下は「いや、そうではなくて」と微かに首を振る。それをきちんと理解するよりも先に言われたのだ。「アッシュだけではなく、お前にも思うところはあるだろう」って。
それに思わず、頬を張られたような気になってしまった。
殿下の青く澄んだ瞳の中で、私は口を半開きにさせたまま、じっと殿下を見上げている。そこに映る私は、なんだか、酷く間抜けな表情をしていた。殿下の前でして良い顔ではない。思考に挟み込まれるようにそう思うのに、取り繕うことができない。
思うところ。だって、そんなのたくさんあるのだ、たった一言では到底、言い切れないくらいに。
ロナート様が心配だ。領民だって。アッシュくんはどうなるんだろう。いくらセイロス教会に刃を向けたとは言え、養父の討伐だなんて、こんな課題、あんまりじゃないか。ローベ伯はどうお考えなのかな。お父様だって、隣の領地で起きたことを知らないはずがない。私はどうすべきなんだろう。殿下、でも、答えなんかありますか。
思ったことの全てを詰め込んで、殿下を見た。それしかできなかった。殿下は汲み取ってくれたのだろうか。天井のくりぬかれた訓練場に差し込む夕日が、殿下の頬を飴色にする。殿下はずっと、私のことを見ている。
「殿下、私」
私がずっと噤み続けていた口を開いたのは、その表情が、あまりにも優しかったからだ。何を言ったら良いのか、きちんと整理できていなかったのに、見切り発車も良いところだった。それでも何かを吐き出さなければ、お腹の中で膨張しきった焦燥で自分が傷ついてしまいそうで、どうしようもなかったのだ。
「アッシュくんが」
虫の鳴くような声でそう呟いたとき、殿下は、ゆっくりその目を瞬かせた。アッシュくんが、と言っておきながら、その続きが出てこなかった。「いえ」と、そっと首を振る。声が、惨めに掠れてしまう。
「……どうしたらいいのかわからなくて」
あの日の教室で、ベレト先生のことをただじっと見つめていたアッシュくんが、ずっと瞼の裏に張り付いている。今も。
アッシュくんは四年前、義兄であるクリストフ兄様を失った。私が彼と出会うずっと前には、ご両親も流行病で。私と同じだけの年を生きているのに、どうしてこんなにアッシュくんが酷い目に遭うんだろう。何かしてあげられたらって思うのに、だけど、それで救われるのはアッシュくんじゃなくて自分の方じゃないか、とも思う。苛まれる。自分にできることの、あまりの少なさに。
「隣にいたいけど、そんなの自己満足じゃないかなあって思ってしまって。私には、何もできないんじゃないかって」
「お前が何もできないなんてことはないだろう」
その時初めて向けられた相槌以外の返答に、私はいつの間にか落ちていた視線を殿下へと向けた。殿下の声は、私を落ち着かせるためというよりもずっと、確信めいた何かがあった。嘘でも建前でもなく、殿下は心からそう思っている。その真っ直ぐな目が、そう言っている。
授業後の訓練場は活気に満ちていた。だけど殿下の声以外の音という音は、そのとき、私の耳にほとんど入ってこなかった。膜が張られたみたいに。どうして背筋が粟立つのだろう。殿下の髪が、風に浚われる。夕陽に透けて、それはほとんど色素を失っているように見えるのに、いつも以上にきらきらしていた。
「少なくとも、お前はロナート卿とアッシュとは、士官学校に入学する前から懇意にしていたんじゃないか? ……亡くなられた、ロナート卿の、実の御子息とだって」
見つめられたまま、私は頷く。「だったら」殿下が小さく首を傾げたのを、私はただ、見ていた。
「アッシュの傍に居てやると良い」
それが例え自己満足であろうと、根本的な解決になり得ずとも。
「俺がアッシュであれば、ロナート卿を知るお前に居てほしいと思うよ、」
殿下の瞳は、何もかもを見透かすように美しい。
訓練を切り上げ、律儀に俺に礼を言ってから大聖堂へと向かうの後ろ姿を見送る。
女性に向けるには相応しくない言葉ではあるのだろうが、その背が以前よりもしっかりしているように思えた。先生の指示通り、走り込みをきちんと行っているからだろう。剣の扱い方もそうだが、彼女は成長している。毎日、少しずつではあるけれど。
気が急いたのか、士官学校の校舎に続く角のあるあたりで、は突然走り出した。ぎょっとしたようにその背を見送る、そのすぐ傍を歩いていた学生の姿に、小さく笑ってしまう。そうしながら、自分もここ数日は、ほとんど表情が強張っていたなと思い出す。そもそも俺に笑う資格などないが、それにしたって視野が狭まっていたのは事実だ。
「…………上手く行けばいいが」
小さくなったの背に、祈るように思う。
ここ最近の二人を、俺は見ていられなかった。
ガスバール城主の叛乱に、きな臭さを覚えないと言えば嘘になる。それでも今は、あの二人の心が少しでも安らげば良いと、心からそう思うのだ。