「殿下と二人で訓練を?」
イングリットちゃんの声は綺麗で良く通るから、殿下不在の教室で響き渡ったその声に私は慌ててしまった。
思わずあたりを見回せば、教室に居た何人かがこちらに視線を向けていて、益々狼狽してしまう。殿下の名誉のためにも、いや、全然そういうんじゃないんですよ、と主張したかったけれど、そうやって色恋沙汰と関連づけてしまうのは私だけだったのだろう。フェリクスくんを始めとしたほとんどの生徒は、特別興味は無い、と言わんばかりに私からすぐに視線を逸らした。私一人が勝手に慌てて、ちょっとばかみたいだった。
だけどそんな中、アッシュくんとはしっかり目が合って、そのまま気遣うように優しく微笑まれた。どうにも居たたまれない気持ちになってしまうのは、やっぱりそれが他の誰でもないアッシュくんだからだ。いや、居たたまれない、っていうよりは、落ち着かない、の方が適切だろう。この学級の中で、唯一私のことを入学前から知っているアッシュくんには、ガルグ=マクでの私の行いを見られているというそれだけで、何だか気恥ずかしさのようなものが芽生えてしまうから。
やりにくい。でも、それは多分お互い様だ。アッシュくんだって、私がいて気まずいことの一つや二つあるだろう。多分。
アッシュくんが読んでいた本に目線を戻したのを受けて、私もそろりと視線を戻したとき、イングリットちゃんが何か思い出したように「ああ」と短く呟いたので、私の意識は完全にそちらへと戻ることになる。
「なるほど、それでは、昨日不在だったのですね」
「えっ……もしかして、何か私に用事でもあった?」
「いえ、大したことではないんです。街へ行くのに声をかけたかっただけで……」
「ええ〜! 私も行きたかった!」
「ふふ。ですが殿下との訓練があったなら、優先すべきはそちらでしょう」
「う、んん。で、でもそれはそれ、これはこれで……」
思いがけず殿下との話に戻ってしまって、思わず声が尻すぼみになる。
昨日の殿下との訓練は密会でも逢引きでもないのだから、恥ずかしがるようなことでも、勿論隠さなくちゃいけないことでもない。殿下からしてみたってそうだろう。殿下はただ単に、同級生に死なれるのは嫌だ、という理由で私に剣術を教えようとしてくれているだけだ。その真っ直ぐな瞳に、言葉に、いろんなものを奪われたように思ってしまった、なんて、殿下からしてみたら知ったことではない。
「お前が死ぬくらいだったら」
そのとき殿下の声と、ともすれば泣いてしまいそうだったその双眸が思い起こされて、わあ、と声をあげたくなった。
昨日の記憶と、それに付随する感情と、それから顔に出してはいけないと働こうとする理性が殴り合って、表情がめちゃくちゃになる。「例え俺に資格などなくとも、お前の命を少しでも守れることをしたいと」脳内をぐるぐるとめぐる言葉に、どうしたら動揺しないでいられるだろう。顔のいろんな部分が熱くなる。イングリットちゃんに見られたくなくて俯いた。だって、今の私、おかしいもん。
椅子に座りながら、顔を覆って俯く私に、けれどイングリットちゃんは「ですが、良かったです」と短く言うから、ちら、と目だけを上げる。
「殿下との訓練であれば、随分ためになったでしょう」
「そ、それはもう……! ……殿下には、だいぶ退屈だったかもしれないけど……」
ちょっと口ごもってしまったけれど、机に肘をついて、口元を覆ったままそう返した。
一日で既に薄く皮の生成された膝を、下衣の下で擦り合わせる。相手が私じゃなかったら、殿下にとってももっと有意義な訓練になったのは間違いなかった。殿下が私の申し出を快く受け入れてくれているのだと分かっていても、やっぱり貴重な時間を割いてもらったという申し訳なさは、簡単には抜けない。
殿下は最初の宣言通り、ずっと私の剣をいなし続けた。時折微かな力を込めて押し返したり、私に力が入りすぎているときは受け流したり、そういう緩急を、彼は慎重につけてくれた。動かない木人を相手にするより遥かにやりやすく、一日でものすごく、力がついた気がしたのだ。……気のせいかもしれないけれど。
「すっごく、すっごくためになった……! 人との訓練ってすごいんだね……!」
「ええ。勿論、相手にもよるとは思いますが……殿下は恐らく、との力量差を把握して、上手く訓練をつけてくれたのでしょうね」
イングリットちゃんの声はどこまでも穏やかで、優しい。
「今度は私とも訓練場に行きましょう。殿下ほど上手く相手はできないかもしれませんが、私でよければ、いつでも相手をしますよ」
前回上手くいかなかった雪辱を果たさせてください、って、イングリットちゃんは薄く微笑んだ。折角付き合ってもらったのに、まともに槍を構えるまでにすら至らなかった日のことを言っているのだろう。でもそれって、どちらかというと私の台詞なんだけどな。
「そんなのこちらこそ、だよ。前節よりは良くなったの、イングリットちゃんに見てほしい」
言い終えるか終わらないかの瞬間、鐘が鳴った。
間もなく先生がやって来るだろう。今日は、昼までが座学で、午後からは弓の訓練らしい。それが終わったら、ハンネマン先生の紋章学。イングリットちゃんが立ち上がり、「では、またあとで」と自分の席へと戻っていく。私は笑顔で手を振りながら、教室の前方に目線を送った。
竪琴の節に与えられた課題は、例年、あるいは他の二学級に比べて少し特殊なものだった。賊の討伐なんて、本当だったら後期にやるものだって言う。だから、今節はもう少し危険のない課題になるんじゃないかな、と勝手に私は推測している。要するに、もっと一般的な奉仕活動、ってやつ。
それだったら、慌てて強くならなくても大丈夫。焦ることはない。先生やイングリットちゃん、殿下たちに協力してもらって、少しずつ力をつけていけばいいんだ。今の私はとても恵まれていて、これ以上無い環境にいるのは間違いない。急くことなく、また多くを望まなければ、「強くなって、たくさん学んで、家を守る」という私の夢は、いつか叶えられるものであるように思えた。
教室に戻って来た殿下の姿を視界の端にとめて、胸が鳴るのを感じる。殿下のためにも、強くなりたいと思う。いつか、殿下の作る王国を守るため、少しでも力になれるように、って。
何でもそう都合良く行くわけがなかったのに。
ベレト先生が教室にやって来たのは、本来の授業が開始する時刻を、少し過ぎた頃だった。
先生が遅刻をするなんて珍しい。彼はいつも、計ったように正確な行動を取る人だったから。寝坊でもしたのかなあ、なんて、ぼんやり考える。それとも、何か他に、問題があったとか? だけど先生の表情からでは、何かを探ることはできそうにない。
教壇に立った先生は、席に着いた私たちの顔を一人一人確かめるように見渡して、それから言った。「授業を始める前に話がある」と、いつもの抑揚のない、静かな声で。
それが私たちの歩む道を変えることになるなんて、思いもしなかった。
「ガスパール城主がセイロス教会に兵を挙げた」
一瞬の静寂のあと、教室はざわめきに包まれる。
「…………え」
無意識に漏らしてしまった声が、漣のようなざわめきに飲み込まれた。ガスパールは王国南部のローベ伯領、その北部にある、一地域だ。王国出身の生徒のみで構成されたこの青獅子の学級が混乱に包まれるのは当然のことだった。だけど。
ガスパール城主。ロナート様。瞬時に脳裏を過ぎったのは、慈愛に満ちた表情を私に向ける、初老の男性だ。日に焼けた、精悍な面立ち、その瞳には重ねた年齢分の思慮深さがあって、隣の領地を治める家の娘である私にも、とても優しくしてくれた。
動揺する生徒たちの奥、私のずっと前に座るその人を見る。
アッシュくん。
私の席からでは、その横顔もきちんと見えなかった。ただ、その頬が強張っていることだけは分かった。彼は動揺し、言葉を交わし合う生徒たちの中で、ひとり異質だった。アッシュくんはじっと、前を見ていた。自分にその情報をもたらした先生の姿を、養父であるロナート様の代わりにでもするように、言葉もないまま、ただ、見ていた。