翌日は授業がお休みだったけれど、殿下との約束のため、私は訓練場へと向かった。
殿下も級長として、或いは次の国王として、成すべきことが多くある。そのため毎日というわけにはいかないけれど、お互いに時間が合うときは一緒に訓練をしよう、という話になったのだ。その最初の約束というのが今日だった。
訓練場までの道を歩きながら、しかし私は考えている。
昨日の夜、殿下と大聖堂で会ったのは、果たして本当に現実だったのだろうか。都合の良い私の頭が見た幻覚でも、夢でもなく?
だって、どうしても現実味がない。私にとって殿下は未だに「同級生」というよりも「次期国王」で、本当だったら肩を並べることだってありえない方だった。改めて剣を見てもらえないかとお願いしたのは自分の方だったのに、今更冷静になっているのか、そんなことを考えてしまう。私が殿下に剣を教わるなんて、やっぱりどう考えても分不相応だ。
暦が切り替わったとは言え、ガルグ=マクの空にはまだ春の名残があった。薄くたなびく雲を見上げながら、どきどきと音を立てている胸をそっと押さえる。細く長くため息を吐けば、それは足元に広がる石畳の隙間に潜り込むように落ちていく。
「緊張してきた……」
これで訓練場に殿下が来なかったら、やっぱり昨夜のあれは全部夢だったということになるんだけど。
「おはよう、」
「でっ」
授業は休みだと言うのに、訓練場には何人かの生徒がいた。その中の一人が殿下だったものだから、声をかけられると同時に飛び跳ねてしまう。
夢じゃなかった、っていう安堵と、自分が殿下を待たせてしまったという申し訳なさとで頭がいっぱいになって、「すみません!」とまず謝ってしまった。だって、まさか先に来ているなんて思ってもいなくて。だけど、本当に現実だったんだ、私、殿下にとんでもないお願いをしちゃったんだ。形になっていなかった実感がようやく自分の頭上から降り注いできて、お腹が痛くなってくる。
勢いよく頭を下げた私は、訓練場の土の上、視界に映る殿下の爪先が微動だにしないことに緊張感を覚えていた。だけど、殿下はやがて私の頭上で、ふ、って笑った。恐る恐る顔をあげれば、困った顔で私を見ている殿下がいる。目が眩んだのは、花冠の節とは思えない、真っ直ぐな太陽の光が目に入ったせいだ。
殿下。呟いたはずが、声にならない。
「来て早々に謝られるとは思わなかった」
殿下の声は、騒がしい訓練場の中でも、繭に包まれたみたいにやわらかい。
軽く準備体操と素振りをこなした後、殿下は私に「打ち込んで来い」と言った。
うちこむ。
たった一言のそれに、私は怯んでしまう。殿下に打ち込む、ということですか、と目で訴えれば、殿下は「大丈夫だ」と口にする。
「お前の剣は受けるが、俺からは何もしない。安心して切りかかってもらっていい」
「あ、安心して切りかかる……!?」
びっくりしすぎて殿下の言葉を思わず復唱した。だって全然大丈夫じゃないし、安心なんかできるわけない。確かに殿下もまた私と同じように訓練用の剣を持ってはいるけれど、それでも殿下に剣を振り上げるなんて、とんでもないことのように思えた。例え私の実力で彼に怪我をさせるようなことは、万に一つもないと分かっているとは言え。
けれど、殿下は私の目を見たまま、軽く構えの姿勢を見せる。お手本みたいにきれいな立ち姿だ。私は多分、あんな風に美しく剣を構えてはいられない。今だって、緊張で手が震えているんだから。
何も言わない殿下に観念して、私もそろりと剣を構えたとき、本当は緊張で倒れそうだった。最初は木人じゃだめですか、とか、まだ気持ちの整理がつきません、とか、素振り一万回とかしなくていいんですか、とか、言いたいことは色々あったけれど、でも、殿下に剣を教えてもらいたいと頼んだのは私だ。戦えるようにならなくちゃだめだ、次はもうあんな風に足手纏いになってはいけない、私も頑張るんだ。そういうことを思うなら、ちゃんと努力しなくちゃ。どんなに怖くても、無理だと思っても。
「い、いきます!」
そう口にして一歩踏み出したとき、安心したように、殿下が息を吐いた気がした。
踏み込んだ足は、思った二倍滑った。
擦り傷なんか魔法を使ってもらうまでもない。砂を落として傷を確認していたら、殿下はやっぱり申し訳なさそうに私に「大丈夫か?」と尋ねた。
「は、はい、それよりその……鈍臭くてすみません……」
「いや、踏み込み自体は悪くなかった。……だが次は、もう少し近距離からの打ち合いにしてみよう」
「はい……」
大きく踏み込んだ結果、思い切り足を滑らせて怪我をした、なんて、どうして私ってこうも鈍臭いんだろう。大して血も出ていないことを確認していたら、殿下も一緒に私の擦りむいた膝を見ているものだから、ぎょっとしてしまった。殿下に見せていいものではないように思えて、慌てて姿勢を正す。「もう大丈夫です、続きをお願いします!」そう殿下に言ったけれど、殿下は私の目を見つめたまま、その眉尻を下げている。
さっきまで訓練場にいた数人の学生は休憩に行ってしまったのか、もういない。いつもは賑やかな訓練場には私たちしかおらず、ただ、静かだった。僅かに湿った空気が、汗ばんだ肌を撫でていく。
呆れられてしまったのだろうか。
無言の殿下を前に、私ははっと顔を上げる。そりゃあそうだ。こんな風に転んで、訓練どうこう以前の問題であると思われたに違いない。そうでなくとも昨日の戦場では醜態を見せ、先生やみんなに迷惑をかけてしまった。イングリットちゃんもアッシュくんも、きちんと武器を持って戦えるのに、私ときたら! 前線に立つどころか、武器の持ち方すらもままならず、こうして努力しようとしても空回り。やはり、教えを乞うなんて、迷惑になるかもしれない。こんな、袋の底に穴が空いているような女。戦い方をたたき込まれたところで何も得られないのなら、有限である殿下の時間を徒に消費させてしまうだけだ。
そこまで一気に考えてしまった私は、もうほとんど、「やっぱり申し訳なさすぎるので、一人で訓練します」と口にする寸前だった。なのにそれより早く、殿下は言ったのだ。
「……お前が俺に剣を教えてほしいと言ったとき、嬉しかったんだ」
え、と喉の奥から声が漏れた。
休日の訓練場はいつもと違ってあまりにも静かで、そんな細やかな音すら掬い上げてしまう。それでも殿下の「嬉しかった」が、ずっと私の耳にぬくい温度を持って残っていた。聞き間違えでは、決してなかった。
殿下は私のことを真っ直ぐ見つめている。殿下の双眸は澄んでいて、日の光を受けて、時折穏やかな光を放った。それがあまりにも美しかった。私の表情を返事と捉えたのか、殿下はそっと続ける。一つ一つ、言葉を丁寧に探して、選んでいく。眼前に並べられたそれらは、砂の中から選りすぐられた宝石みたいに、きらきら光っている。
「……先生に頼まれたとは言え、俺は、お前に教えるのに相応しくはないだろうと思っていたから」
「ふ、相応しくない……?」
どうして、と思わず聞き返せば、殿下はちょっとだけ考えるように目線を彷徨わせた。
先生に頼まれた、っていうのは、多分前節の食堂でのことだ。ベレト先生に、戦えるようになるにはどうしたらいいのかと尋ねた日。どうすれば体力をつけることができるのか、武器を上手く扱えるようになるには何をすべきか、そういったことを質問する私の斜め前には、殿下がいた。ベレト先生は私にいくつかの助言をした後、殿下に「ディミトリも、自分が見られないとき、のことを気に掛けてもらえたら助かる」と言った。私はあのときの殿下を、良く覚えている。
殿下は私の手の甲にそっと目を落とした。大樹の節、私が怪我をした手だった。「俺でよければ」と頷いた彼は、大丈夫だっていくら訴えても、未だ、私のことを気に掛けている。今も。
「対抗戦の帰り道、訓練場に足が向かないのは、単に武器を上手く扱えないせいだとお前は言った。だが、授業でのを見て、まだ俺が怪我をさせたときのことが尾を引いているのではないかと思ってしまった。もしそうだとしたなら……俺に、お前を教える資格なんかないと思ったよ」
なんと答えたら良いか分からず、こちらに視線を戻した殿下を、そっと見つめ返す。
この沈黙を肯定と取られるかもしれない、そう思ったけれど、やっぱりどうしたって言葉が出てこなかった。だって、実際に私には、まだあの日の恐怖がこびりついているのだ。身体に響く鈍い音、自分の目の前にあった折れた槍の柄、血まみれになった右手。だいじょうぶですよ、殿下。そう口にしながら同時に、殿下が気にすることはありません。これは私の問題です、と自分の中で言い続けていた。あの日の恐怖が殿下への恐怖にすり替わりそうになる度、違うのだと首を振った。
「だが」殿下が不意に、語気を微かに強める。思わず瞬きを一つして、彼を見つめる。殿下はちょっとだけ、泣きそうだった。少なくとも私には、そう見えた。
「お前が死ぬくらいだったら、例え俺に資格などなくとも、お前の命を少しでも守れることをしたいと……そう思ったんだ」
だから、俺の我儘を聞いてもらえるか。
殿下がそう続けるのを、私は息を止めて聞いていた。
目と鼻と頬と、耳ですら、全てが熱を持っていく。私は口を丸く開けながら、そろそろと頷いた。殿下が笑ったとき、本当に泣きそうになってしまったのだけど、理由を説明できる気がしないから、口の中を噛んで耐えた。鼓動がばくばくと音を立てていた。ずるい、と思った、でもそんなの、言えるわけがなかったし、何が「ずるい」のかも、よくわからなかった。
その後再開した訓練は、ほとんど気がそぞろでどうしようもなかったけれど、わけもわからないまま殿下との打ち合いをこなすことができたので、逆に良かったのかもしれない。