本当はザナドから戻ったらすぐに大聖堂にお祈りに行こうと思っていたのだけど、いつの間にか夜半になってしまっていたらしい。
 汚れた制服を洗ったり、身体をきれいにしているうちに疲労が最大値に達して、知らないうちに眠りこけていたのだ。目が覚めたときには食堂も灯りが消えていて、仕方ないから自室にあった乾燥させた果物をもぐもぐ食べた。口内にじんわり広がる優しい甘みに、生きているんだなあ、とぼんやり考えた。
 栄養補給をしながら、椅子に座った私は自分の周辺に散らばったものを一つ一つ眺めていた。寝台に丸まった掛布、物書き用の机。書きかけの手紙は不用意にも出しっぱなしで、室内によっぽど強い強風さえ吹き込まなければそこに食べかすが落ちることもなさそうだったけれど、もしものことがあったら嫌だから、ちょっとだけ椅子を下げて、距離を取った。いや、そもそも手紙を片付ければよかったんだけど、何だかそれすらも億劫で。
 床と椅子の脚が擦れて、ぎぎ、と音が鳴る。自分の体重がきちんとそこにかかっていることを実感する。咀嚼し、嚥下したその後で、自分の手の平をまじまじと見つめて、それからそっと撫でた。
 それはきちんと、人の体温を持っていた。








 部屋を出て大聖堂へと向かうまでの道中の私の足元から、影が伸びていた。それは私から離れることなく、きちんとくっついて私を追いかける。誰も見ていないのをいいことに、ちょっとだけ駆けてから、「ほ」と飛んだ。大聖堂と大広間とを結ぶ橋の真ん中で、私の足音は思ったよりも大きく響いていた。
 やっぱり私は生きていた。
 それが何だか、不思議なことのように思えてならなかった。九死に一生を得たからだろうか。私の頭皮はもうちっとも痛くなかったけれど、あのとき背中に突き立てられた剣先は、今も未だありありと存在感を持っていた。実際に貫かれたみたいに、お腹のあたりが熱い気がした。



「こん……ばん……はぁ……」



 扉の向こうを覗き込みながらそう言えば、私の声は高い天井に反響した。
 大聖堂には誰もいなかった。昼間は大勢の信徒の方や、大司教であるレア様の補佐を務めるセテス様、その妹のフレンちゃん、さらには信心深い生徒が祈りを捧げていて、厳かな雰囲気を保ちながらも活気があったけれど、今は生き物の気配はなく、ただ静かだ。
 燭台にぽつぽつと灯りが灯り、採光塔にはめ込まれた玻璃硝子から微かに差し込む月明かりが導のように大聖堂を照らしているおかげで、大聖堂内は完全な闇とは決して言えなかった。光の線に導かれるように、私は大聖堂の主祭壇の前まで歩いた。夜の空気の染みこんだ大聖堂は少し肌寒く、頬のあたりの皮膚が少しだけ強張るのを感じる。
 きれいだ。
 柱に守られるように置かれた聖人の像、弧を描く天井も、主祭壇の、普段とは趣の違う雰囲気も。
 祭壇が自分の身体の中央に来る位置で足を止めた。丁度、月明かりの差し込む場所だった。そこで頭を垂れながら、ゆっくりと手を組む。普段しているお祈りよりも、たっぷりと時間をかける。
 女神様、女神様。
 どうか、ザナドで失われた多くの命が、安らかに眠れますように。
 そんなことを祈りながらも、心のもっと奥深いところで、自分の神経が逆立って、ぎゃあぎゃあ喚いているのを感じている。怖かった、すごく嫌だった、自分が生きていることが信じられなかった。強くなりたかった、でも、強さを求める一方で私は人を殺す覚悟がまだできていないのだということを、薄らと自覚している。自分に戦えるだけの力がないことに安堵して、だけど私はその分生まれる負債を殿下やイングリットちゃん、戦える皆に押し付けている。みんなだって、好きで命を奪っているわけではないのに。葛藤に苛まれて、嫌気が差した。武器なんていらないくらい、世界が平和になればいいのにって思った。それがどれだけ甘い願いでも。
 自分の内心に向かい合っていた私は、だから、声をかけられるまで、背後の気配や、その足音に気がつかなかったのだ。





「ひっ」



 びっくりして、ちょっとだけ飛び上がってしまう。慌てて振り向けば、そこにいたのは、ディミトリ殿下その人だった。どうしてこんな時間にこんなところにいるんだろう。完全に不意を突かれて、本当はひっくり返ってしまいそうだったけれど、耐える。



「殿下!」



 上擦った声で呼べば、殿下はやっぱり、ちょっとだけ困った顔をして私のことを見た。「すまない、驚かせた」殿下の声は、私のものよりも静かに、大聖堂の天井に反響する。一瞬、ほんの一瞬だけ、お化けでも出たのかと思ったなんて、絶対に言えない。



「ぐ、偶然ですね……! 殿下もお祈りにいらしたんですか?」

「……ああ、いや、俺はさっきまで訓練場にいて」

「訓練っ?」



 今日は盗賊団の討伐であんなに大変だったのに、さらに訓練を? しかも、こんな真夜中まで。驚愕の目で見上げる私に、殿下は気がつかないのだろう。「切り上げて部屋に戻ろうとしたところ、が歩いて行くのが見えたから追いかけてしまった。……すまない」と続けた。
 どうして謝られるのか分からなくて、大きく首を振る。だって、こんな夜中に自分が級長を務める学級の生徒がふらふらと出歩いていたら、そりゃあ気に掛かるだろう。悪いことをしているんじゃないかとか、きっと心配させてしまったのだ。



「こちらこそ、ご迷惑を……! これからおやすみするところだったでしょうに、すみません……」

「いや、俺は大丈夫だ。……それより、祈っていたのか」



 殿下の目が、そっと無人の祭壇へと向けられる。
 王国出の私たちは、そもそもの国の成り立ちもあるのだろうけれど、信心深い人が多い。ガルグ=マクに来てからというもの、お祈りのために大聖堂へ行けば必ずと言って良いほど青獅子の学級の誰かと出会ったし、彼らは作法もきちんとしていた。
 殿下の問いかけに、はい、と頷く私の返事を待たず、殿下はそっと目を閉じ、微かに頭を下げた。それは、私のものよりもずっと短い、けれど深い祈りだった。私はそれを、瞬きもせずに見ていた。殿下の金色の髪が、月光に晒されて、光の粒子を放っていた。
 こんなに美しく祈る人を、私は初めて見た。



「…………寮に戻るのだろう?」



 目を開けた殿下は、私に向き直る。



「歩きながら、話でもしないか」



 お前と話がしたかったんだ。そう続けられたら、殿下に見とれてしまっていた私は頷く以外の返事を準備することができなかった。








 夜もとうに更けたガルグ=マクの石畳の上に、私と殿下、二人分の影が伸びている。
 大聖堂と大広間を繋ぐ橋の丁度真ん中あたりに来たとき、つい先ほどの自分がここで大きく跳躍したことを思い出してしまって、あとちょっとのところでわあっと叫んでしまうところだった。だって殿下が訓練場から私の後ろを追いかけていたと言うのなら、それだって見られていたってことだ。そんなだから、殿下だって大聖堂まで声をかけられずにいたのだ。羞恥と申し訳なさでいたたまれなくなる。ああ、きっと、子供みたいなやつだと思われたに違いない。



「今日は、大変だったな」



 その時、不意に殿下が切り出したから、ぱっと顔をあげた。
 殿下は背の高い方だから、私は首を思い切り持ち上げなければ彼の顔を見ることができないのだけど、そうして視界の真ん中に殿下が収まった瞬間に彼と目が合うものだから、びっくりしてしまう。月光の下、殿下の瞳は、慎み深く穏やかな光を放っている。



「い、いえ。大変だった、と言ったら、私なんかより殿下たちのほうが」

「いや、だが命の危険があったのは、だろう」

「う、そ、そうですね、それを言われてしまうと弱いのですが……でも、やっぱり……」



 最後の最後で死にかけた私よりも、ずっと前線で武器を振るっていた殿下やイングリットちゃんたちの方が、よっぽど気力や体力をすり減らしていたと思うのだ。だけどこれを言ったところで水掛け論になるかな、と殿下を窺えば、殿下は真っ直ぐこちらを見つめているものだから、ぐ、と言葉を飲み込んだ。顔に出やすい私は、何もかもが漏れ出ているのかもしれない。殿下がふ、と息を吐いて笑うのを、私はただじっと見ている。
 訓練場の前へと続く廊下を、私たちはどちらからともなく曲がる。人の気配はどこにもなく、ただ視界の端で、燭台の灯りだけがちらついていた。僅かに澱んだ空気に、こっそり咳払いをする。
 そうしている間、並んで歩く私たちの真ん中には、ちょっとした沈黙が落ちていた。お互いの足音と、細やかな呼吸音、謁見の間へと続く階段前を通って外へ出れば、夜行性の鳥の鳴き声がすぐ傍で響く。植樹されている木々を住処にしているとは考えにくいけど、私たちの見えないところで羽ばたいているのだろう。左手に続く三つの教室は真っ暗で、人の気配はなかった。訓練場もすっかり灯りが落ちていて、まるでこのガルグ=マクに、私たち二人だけが取り残されたみたいだった。
 それは、何だか不思議な感覚だった。まるで夢の中にでもいるかのような。現実の私は未だ自室の寝台の中にいて、眠りこけているんじゃないか、って。
 そんなことをぼんやりと考えていたとき、殿下はそっと口を開いた。私の覚えている実感のなさの輪郭を、優しく撫でるような声だった。



「……あのとき、が傷を負ったのかと、肝が冷えたよ」



 それまできちんと目を合わせて話をしてくれていた殿下は今、少しだけ目線を下げている。私たちの足から伸びている影の、異様なまでの長さを確かめるみたいに。
 賊に髪の毛を引っ張られたその瞬間、私は殿下がこちらを振り返るのを見た。気のせいだと思っていたけれど、殿下の口ぶりからするとそうではなかったのだろう。「もしお前に死なれてしまったら、どう詫びれば良いのかわからなかった」殿下の声は低く、穏やかで、私たちの周囲を埋めていくように落ちていく。



「わ、詫びなんて。私が弱いのが悪いんです」



 だって誰がどう見たって、あれは私の力が不足していたせいで引き起こされたものだ。
 先生に守られなくても、背後からの殺気に気がついて然るべきだった。手負いの賊くらい、腰の剣で倒せなくてはならなかった。全て私の実力がないが故に招いた事態だと言うのに、どうして殿下が責任を感じる必要があるだろう。
 だけど、ぐるぐると頭の中を回るその言葉は、全部喉の奥で止まってしまった。自分がさっき、大聖堂で考えていたことと混ざりあって、思考は徐々に粘度を持っていく。怖い。戦いたくない。人を殺したくない。でも、私がそうして躊躇ったとき、私の代わりに誰かがその手を汚している。それは先生であり、イングリットちゃんであり、アッシュくんやフェリクスくんであり、殿下だ。
 武器なんていらないくらい、世界が平和になればいい。だけど、簡単にそうなってはくれない。現実逃避をして、誰かに守ってもらう日々は私にはもうないって、お兄様が私たちの前から永遠に失われたときに理解したはずだったのに。



「……あの、殿下」



 私たちの視界には、訓練場があった。灯りの灯らないそこに、今は誰もいない。殿下は、じゃあきっと一人でこんな時間まで訓練をしていたんだ。そう思ったら立ち止まっている自分の不甲斐なさに泣けてきた。
 殿下から見たら私は、王国貴族の一員でありながら、何の責任も背負っていないような女だろう。王国南部は北部の領地を治める彼らと違って、寒さもさほど厳しくなく、余程のことがなければ飢饉に見舞われることもない。紋章を持つ年の離れた優秀な兄がいる私は、大した矜持も持たずに生きていた。
 だけどもう、そういうわけにはいかないのだ。
 唇を一度噛んでから、覚悟を決めて息を吸う。



「た、大変ご迷惑かと思うのですが、その……殿下のお時間のあるときに、どうか、剣を見ていただけないでしょうか」



 言いながら、語尾に向かってどんどん声が小さくなってしまったのは、殿下に真っ直ぐ見つめられることに耐えかねてしまったせいだ。だけど、覚悟を決めるように小さく首を振る。自信のなさを打ち消すみたいに、言い直す。



「……私、みんなみたいに、強くなりたいです」



 どきどきしていた。殿下の顔をちゃんと見ることができなかった。「そ、その、たまに、で良いんです。でも、対人での訓練がしたくて……ええと……殿下さえ良かったら……なんですけど……」もごもごと言い訳のように続ける私が次に殿下を見上げたとき、だけど、殿下は眉尻を下げていた。いつもみたいに、小さく笑ってくれていたのだ。
 そんなにおかしかっただろうか、と眉を八の字にした私に、殿下は「いや」と軽く首を振る。



「実は俺も、それを言いたかったんだ」



 今度きちんとお前の剣を見てやりたいのだが、迷惑ではないだろうか、と。殿下はそう言った。
 自然と目が丸くなる。殿下の声は、夜の空気に消えずに、いつまでも私の耳に細やかな温度を放ちながら残っている。



「授業では先生から学び、そうでないときに俺と訓練する、というのはどうだろう」

「お、お願いします! がんばります!」



 勢いよく頭を下げた私に、殿下は静かに笑っていた。
 竪琴の節の、最後の夜だった。
 私たちがガルグ=マクで出会ってから、丁度二節の時が流れようとしていた。


PREV BACK NEXT