「あらあら、、顔が真っ青よ〜」
その言葉に、そろりと目線を向けた。私を心配するメルセデスちゃんの声は穏やかで、戦場であってすら、それは陽だまりみたいに落ちていく。
だけどそんな柔らかさに触れても、私の頭のてっぺんから爪先の、至る所が強張っていた。五感が妙に冴え渡って、気を抜くと自分がぐったりしていることに気がついてしまう。私は、色んなものと自分とを遮断したかった。だけどここは戦場だ。遠く響く断末魔の悲鳴に耳を塞ぎたくても、まさか聴覚を遮断するわけにもいかない。
心配してくれるメルセデスちゃんに大丈夫、ありがとう、ってお礼を言って、高低差のある地面同士を繋ぐ、傾斜の緩い階段を見上げた。今の主戦場はこの先だ。だけど今居るこの辺りでも戦闘があったのだと、重なる死体が教えてくれる。目線を下に落としたとき、とうに命のぬけた空っぽの瞳と目が合ったように思えて、どきっとした。私たちの学級の、あるいは先生の、誰かが奪った命だった。
「……っ!」
真新しい傷の残る賊の遺体の傍を息を止めて駆け上がったけれど、私が振り向いたとき、メルセデスちゃんは階下で足を止めていた。敬虔なセイロス教の信徒であるメルセデスちゃんは、死者への祈りを欠かさない。それを見たら何だか居たたまれなくなってしまって、私もこっそり彼らの死を悼んだ。「どうか安らかに」主の御許へいけますように。メルセデスちゃんと同じように祈れば、少しは救われる気がした。
私の後頭部を、谷間からの風が撫でていく。運ばれてくる血の匂いを気にしなければ、それはとても心地よい温度の、柔らかいものだった。だから、どうしても空気に紛れ込むその血なまぐささが目立ってしまう。私は悲しくなる。虚しくなって、こんなときなのに、女神様に祈りたくなる。だけど、今そんな風に心を痛めることは、していられなかった。
目線を前線へと向ければ、殿下たちは、既に盗賊団の頭領を追い詰めているみたいだった。どうやら西にある裏道から逃げ場を塞ぐように挟撃したらしい。それが成功して、最早討伐完了は目前というところだ。この任務が終わることそれ自体は嬉しく、誇らしくもあるけれど、それと比べればほんの細やかな分量で、何も手伝えず申し訳ない、と思う。
私は今回全く役に立つことはなく、この剣だって鞘から抜くこともなかった。しかしもし私が皆の行軍速度に追いつけていたとしても、まともに武器を振るえていたか怪しい。やっぱり、ガルグ=マクに戻ったら打ち合いに混ぜてもらえないか先生に相談してみよう。勿論好んで戦いたいと思っているわけではないけれど、何をするにしても、そういう力は必要になってくると思うから。
「」
その時、不意に名前を呼ばれて顔をあげた。視界に居たその人の存在にびっくりして、思わず目を丸くしてしまう。
私の名前を呼んだのは、ベレト先生だったのだ。前線で殿下たちと共に敵将を追い詰めているとばかり思っていたけれど、どうしてこんなに後方まで下がって来ているのだろう。こちらに向かって走る先生は、腰の鞘から剣を抜く。あれ、と思ったとき、今度は背後から「!」と呼ばれた。メルセデスちゃんのそれに被さるように、先生は私に向かって、低く言う。
「そこから離れるんだ、」
「えっ? は、はなれ?」
背中から聞こえたメルセデスちゃんの悲鳴のような声もそうだったけれど、珍しく語気を強めた先生に、益々混乱してしまう。わけが分からなかったけれど、言われた通りに一歩足を踏み出したその瞬間、背後から髪を掴まれた感触があった。メルセデスちゃん、のわけがない。
「いっ?」
悲鳴が口から漏れる。乱暴に引っ張られて、視界が空を向く。その瞬間、遠くにいた金色の髪がこちらを振り向いた気がしたけれど、何か、私の欲が見せた、一種の願望だったのかもしれない。
耳元で、「一人くらい道連れにしなきゃ、やってられるかよ」という、知らない男の苦悶に満ちた声が聞こえた。きっと、今私が駆け抜けた階段に切り伏せられていた賊の中に、死ねずにいた人がいたのだ。それで、隙だらけだった私を殺そうとしている。追い詰められた敵はなりふり構わない、って言うベレト先生の言葉が不意に蘇って、ぞわりと背筋が粟立つ。
背中に何かが当たる。ぐ、と力が込められた気がして、血の気が引いた。口がぱくぱくと動いて、だけど悲鳴は引っかかったみたいに、ちっとも出てこない。きっとこれは、剣先だ。刺されてしまう、そう思って息を止めて、身構えるように目を強く瞑った。
だけど直後、髪を引っ張られた衝撃のままその場に尻餅をつき、仰向けに転んだ私の身体のどこにも、それ以上の衝撃は加わらなかったのだ。
いくら待っても。
「がっ……!」
低い唸り声とも悲鳴ともつかないその声は、私の頭上から降ってきた。何かが落下して転がる音がしたけれど、後になって考えれば、これは賊の手から離れた剣が地面に落ちた音だったのだろう。
目を閉じたままいたこの時の私には、今自分のすぐ傍で何が起きているかが分からなくて、でも、ぱたぱたと顔に落ちてくる、生温かい感触があった。それから、お腹に何か、大きな塊のようなものが降ってくる。思わず「ぐ」って呻いてしまったけれど、それはすぐにどかされて、呼吸はあっという間に楽になった。
「怪我はないか、」
先生の声だ。
こわごわ目を開けたとき、びっくりするくらいに青い空が視界いっぱいに飛び込んで来た。濃くも薄くもない、丁度良い塩梅の色彩をした春の空だった。緊張して俯いてばかりいた私は、初めてザナドの地と空とが近いことを知った。
その青に見とれてぼんやりしていた私を先生が覗き込む。太陽を背負ったベレト先生の顔は翳っていたけれど、怒っても、笑ってもいなかった。
「……大丈夫?」
改めて聞かれて、我に返る。お尻と、転んだときに擦りむいた腕と肘、それから、確かに引っ張られた髪の毛の付け根、要するに頭皮がじんじんと痛かった。でも、そのどれもが戦場で負った怪我と呼ぶにはあまりにも軽傷で、私は身体を起こしながら「だいじょうぶ、です」と口にする。濡れた顔が気持ち悪くて、腕で拭えば、それは明らかに血だった、私ではない、誰かの。
私の足元には、さっきまでそこになかったはずの男の身体が倒れている。その手から落ちた剣は汚れ一つなかった。お腹に落ちた衝撃は、もしかしたらあの人だったのかもしれない。袈裟切りにされたその傷は深く、もう彼が動かないことは間違いなかった。
先生が助けてくれた。
目を丸くしたままでいる私に、先生は少しも笑わない。
「そう、よかった」
先生がここに戻ってきてくれたから、私は怪我の一つも負わなかった。
それだけは、確かだった。
討伐は順調に完了するはずだった。
殿下を含め、青獅子の学級に所属するほとんどが武器の扱いには慣れていた。叛乱の鎮圧に携わったことのある生徒もいたし、異民族の撃退のために早くから戦い方を身につけていた生徒もいた。先生の指示は的確で、殿下が口にした抜け道の存在も利用して及んだ挟撃は成功し、ほとんどの賊は為す術もなく切り伏せられていったのだと言う。
このまま頭領を倒してしまえば終わるはずだった。
なのに先生は、盗賊の頭領を追い詰めたところで突然、弾かれたように後方を振り向いたらしい。
その時前線から私たちの姿は確認できず、一方で賊の増援が姿を現したわけでもなかった。一体何を見ているんだと殿下が声をかけようとした矢先、先生は殿下の顔も見ず、その名前を呼んだ。「ディミトリ」と。
「ここを頼む」
先生はそれだけを告げると、踵を返す形で走り出したのだと言う。殿下の制止も聞かなければ、理由を言い残すこともなかった。先生は迷いなく、主戦場から退いた。
「…………驚きましたよ、とても」
イングリットちゃんは、ガルグ=マクまでの道中を歩きながら静かにそう言う。
残された殿下たちだけで盗賊団を完全に壊滅させることができたとは言え、先生が突然いなくなってしまったんじゃあそりゃあびっくりするだろう。私たちのいないところでそんなことが、と考えながら頷いていた私は、だけど先生がいなければ死んでいたかもしれなかったのだ。ううん、と唸ってしまう。
「でも、まさかがそんな危険な目に遭っていたとは……。先生の第六感は相当なものなのですね」
「うん、私もびっくりしたあ。本当に、背中から刺されちゃうかと思ったもん」
「あなたが返り血を浴びていたのを見たときは肝が冷えました。無事で良かった。……本当に」
「ご、ごめんね、心配かけて……」
緩く首を振りながら微笑むイングリットちゃんは、いつも優しい。その笑顔を見ながら、ぼんやりと考える。
結果的に私を助けたとはいえ、だけど先生はどうしてあの時後方に戻って来たんだろう? 他に敵が潜んでいたわけでもなかったし、あの人が私に狙いを定めたのは、本当に偶然だったのに。
瞼の裏には、馬鹿みたいに晴れた青空が今もこびり付いている。直後に私を覗き込んだ、何の感慨もないベレト先生の、温度の低い瞳も。
私が前方を歩く先生の後ろ頭を見つめていたせいか、先生のことを考えていたのが、隣を歩くイングリットちゃんにも伝わったのかもしれない。
「あのとき、後方へと走り出す直前の先生は」
イングリットちゃんが不意に囁くのを、私は自分の足音で消してしまわないよう、慎重に耳をそばだて、聞いている。その時の光景を思い出すように、イングリットちゃんの目が遠くなる。
「まるで一人、見えないものを見ているかのようでした」
その言葉を聞き終えた瞬間、両肘の擦り傷が、ひり、と痛んだ気がした。
私は何もできなかったし、最後の最後で危ない目に遭って、迷惑もかけてしまった。頑張らなくちゃ、と思うのに、それでも心がざわざわする。何か熱のようなものがあった気がして、そっと顔や口のあたりに触れてみたけれど、あの人の血はもう拭かれて、指先はずっと綺麗なままだった。だけどその感触は、気のせいと言うにはずっと生々しく、いつまでも私の口の周りあたりを、べたりとした粘度を保ちながら漂っていたのだ。ずっと。
このとき殿下が振り向いて私を見ていたのを、私は知らないままだった。