ザナドはガルグ=マクから程近い谷間を含んだ地だけれど、そこに到着するまでに特段疲労を覚えずお腹も痛くならなかった、というのは私にとって大きな進歩だろう。足場の悪い中での行軍について行くなんて、ちょっと前の私だったらできなかった。この一節の特訓の成果であることは間違いない。
荒涼とした地には、遺跡と思しき建物の、残骸と呼ぶしかない多くのものが残されていた。折れた柱に、一部の外壁が横倒しになったもの。崩れた石片はあちこちに転がって、かろうじて当時のまま残された部分ですら、ひび割れた箇所から育ちきった雑草が顔を覗かせている。
どれくらい昔のものなんだろう、緊張を紛らわすために眺めてみたけれど、雨風で傷んだそれらが一体いつの時代のものなのかを判別するのは、困難なことであるように思えた。ただ、そこここに刻まれていた浮き彫りは、今まで私が本やこの目で見てきた建築様式の特徴の、いずれにも当てはまらないようだ。少し奇妙だったけれど、女神の降り立った地であるならば、さもありなん、だろう。
女神降臨の地であるザナドは、セイロス教徒たちにとって大きな意味を持つ聖地だ。ザナドへの立ち入りは信徒であっても基本的には禁じられていて、私もそうだけど、多分、皆もこの地に足を踏み入れたことはない。
学級の皆は、だけどちっとも緊張していないようだった。変にどきどきして、落ち着かずにいるのは私だけだ。少しでも気を紛らわせられたらと視線を彷徨わせても、ちっとも鼓動が収まらないし、段々気持ち悪くもなってくる。
ああ、こわいな。
先生と殿下が何か話をしている後ろ姿を視界に入れながらこっそり胸を押さえて、深呼吸をした。身体は多少鍛えられていたとしても、実戦を迎える心構えは、全然できていなかったのだ。
「」
「はいっ」
背後から声をかけられて、思わず姿勢を正した。振り向けば、そこには槍を抱えたイングリットちゃんがいる。私が持つこともままならなかった訓練用のものよりも、余程重く、扱いにくそうなものだった。先が鉄製の無骨なそれに、どき、と胸が鳴ったけれど、そんな風に身を強張らせること自体あまり良くないことのように思えて、慌てて目線をイングリットちゃんの瞳へと向ける。
イングリットちゃんの目は、緑がかった青、と言えば良いんだろうか。くっきりとした二重の、大きな目だ。その双眸が私を真っ直ぐ捉える度、私はなんだか、妙にしゃんとした気持ちになる。
イングリットちゃんは私のことをじっと見つめたまま、そっと口を開いた。
「なるべく後衛にいてくださいね。それから、先生でも私でも殿下でも、危ないと思ったらすぐに助けを求めるんですよ」
あなたはまだ、ほとんど戦えないのですから、と。槍を握っていない方の手が、私の手にそっと重ねられる。滑らかだと思っていたイングリットちゃんの手の平は、白い、陶器のような甲と違ってまめだらけで、私はそれに気がついたとき、胸の辺りに細かな石を詰め込まれたような気持ちになった。小さく頷けば、イングリットちゃんはそっと笑ってくれる。それはなんだか、私を安心させるためであったように思えたけれど、もしかしたら、イングリットちゃん自身のための笑みでもあったのかもしれなかった。イングリットちゃんは、まるで自分のことのように私を心配してくれているのだ。実戦経験どころか、対人での訓練も間に合わなかった私を。
そろりと剣の鞘を撫でる。ひんやりとしたそれは、ただ私の体温を奪っていくだけだ。
その時ベレト先生が、「皆」と声をかけ、私たちの注目を集めた。先生によると、セイロス騎士団はこの先にある谷の先へと賊を追い込んだらしい。
野外訓練中の私たちを襲った盗賊団は、その大半が既に討たれている。
それは前節、殿下たちが危険を顧みずに囮となって賊を引きつけたその先で、ベレト先生やジェラルトさんの助力を得、反撃に転じることができたからだ(勿論、そうなる前段階においても、戦える生徒が応戦したためでもある。)さらに精鋭たるセイロス騎士団が情報を集め、こうしてザナドに追い込んでくれた。つまり今私たちが前にしているのは残党であり、あの夜ほどの脅威は恐らくないのだけれど、それでも先生は「気を付けるように」と言う。
「追い詰められた敵はなりふり構わない。さほど面倒な相手ではないが、決して隙を見せるな」
傭兵として長く戦場を渡ってきたベレト先生の言葉は、重みがある。「はい!」と皆と声を合わせて返事をした後、ベレト先生は何か、考え込むように視線を斜め上へと向けた。そこに何かあるのかな、と一緒にそちらを見上げたけれど、春めいた空には鷹の一羽も飛んでいない。不思議に思ってもう一度先生を視界に収めたけれど、先生は相変わらず、何かの声にじっと耳を傾けるみたいに、空を見上げ、そこに佇んでいた。
先生が最後にした瞬きは、首肯に似ていた。
本当だったら、魔法や弓を扱うわけではない私は、後衛ではなく前衛で剣を振るうべきなのだろう。だけど私に、それが自分の役目であると言わんばかりに次々と賊を切り伏せていくフェリクスくんと同じようなことができるとは到底思えなかった。私は結局、後方支援が主であるメルセデスちゃんと一緒に、破竹の勢いで進軍する彼らの後ろ姿を、ただ後ろの方から見守っていたのだった。
盗賊団の頭領と思われる人物は柱だけが辛うじて残された遺跡の、遠目からでもそうと分かる場所にいる。追い詰められた彼らは既に統率を失っていたけれど、逃げ場もない以上は戦う他ないのだろう。一矢報いんとばかりに武器を持ちこちらに襲いかかってくるのを、殿下たちは躊躇なく薙ぎ伏せていく。イングリットちゃんもその中にはいて、はらはらして、どうにかなりそうだった。その「はらはら」は、冒険譚を読んでいるときとは比べものにならないほど大きいものだ。ともすると、息どころかいろんなものまで止まってしまいそうになる。
「あらあら、、顔が真っ青よ〜」
そうメルセデスちゃんに心配されるのも仕方ないだろう。だいじょうぶ、だいじょうぶです、ありがとう、そう口にしながら、同じようなことをいつだったか、前にも言ったな、ってぼんやり思う。自分に危険が迫っているわけでもないのに、戦場が生み出す独特の緊張と恐怖は、私の感覚を溶かして、曖昧にしていく。
谷間を挟んで高低差のある地面同士を繋ぐのは橋ではなく石で作られた階段で、そこにはつい先ほどまでは生きていたのだろう、幾多の死体が転がっていた。折り重なる身体から流れる血の赤さに、「ひ」と息が止まる。力なく開かれたままの瞳はもう何も映してはいないのに、その指先が何かを掴もうとするような形で開かれているのが、生々しく、恐ろしかった。
悲鳴が漏れそうになるのを飲み込んで、視線を逸らして、早足で駆け上った。だけど上りきったとき、メルセデスちゃんが彼らの前で足を止めて、そっとお祈りをしていることに気がつく。その姿を見たとき、私は、自分がまるで人でなしであるように思えてしまったのだ。
例え賊に身をやつしていたとしても、彼らは元は、私たち貴族が守るべき平民だったはずなのに。
だけど、自省するのは後でもいい。振り払うように首を振る。そうしながらも、私も心の中で祈ったのだ。「どうか安らかに」って。メルセデスちゃんは短いお祈りを終えると、私が階段の上で待っていたことに気がついたのだろう。「待っていてくれたのね。ごめんなさい、今行くわ〜」と間延びした声で私に告げると、いつもの彼女よりは機敏な動作で階段を上り始めた。
メルセデスちゃんがこの階段を上り終えるまで、と、改めて遠く離れた前線を見る。殿下たちは、既に西側の抜け道を使い二手に分かれ、挟撃のために頭領を追い詰めようとしていた。敵を倒しながらだって言うのに、どうしてもうあんなに遠くにまで行けるのか、不思議でならない。小石だらけの悪路に足を取られないための特訓も必要かなあ。そんなことを考えていたその時だった。
「!」
それはメルセデスちゃんにしては珍しく、張り詰めたような、大きな声だった。
髪を思い切り引っ張られたような痛みの直後、後ろに身体が引きずられる。階段を上りきった場所で足を止めていたせいで、そのまま大きく踏み外した。遠く離れた前線で、金色の髪が振り向いたのは、偶然だったのだろうか。
階段から落ちた自重も加わったせいだと思う。ずしんとした衝撃の直後、私のお腹から突き出る、真っ赤に染まった剣の先が見えた。何が何だか分からないのに、お腹が熱い。制服が赤黒い血液で変色する。
「え」
遅れてやって来た痛みに、目を極限まで見開く。恐らく、階段で事切れていた賊の中に、死にきれなかった人がいたのだろう。こういうときなのに冷静な自分が恐ろしかった。「一人くらい道連れにしなきゃ、やってられるかよ……」掠れた声が耳元で、いつまでも反響している。背後からこの腹を刺した男と一緒に、私は階段下へと落ちていく。
まだ階段の真ん中あたりにいたメルセデスちゃんの青白く、強張った顔を見て、私でよかった、なんて殊勝なことを考えて、そうしながら、でも、と思う。でも、私が死んだら、お父様とお母様には、本当に誰もいなくなっちゃう。そんなのって、ない。
空は馬鹿みたいに青かった。地面に叩きつけられる直前に吐いた息は熱く、妙なぬめりが口の周りに残っていた。
一度も鞘から抜くことのなかった剣は、今の私より、ずっと美しい形をしている。