劣勢と呼ぶのも烏滸がましいほどの戦況だった。
ガルグ=マクに到達した帝国本軍との力量差は明白で、最早戦況が覆ることは万に一つも無い。あれほどの数の魔獣を放たれたのだ。後はいかに死傷者を出さないようにするかという一点においてのみ、俺達の力が及ぶかどうかというところだった。
未だガルグ=マクに残っている士官学校生の撤退、及び騎士の戦闘を手伝うこと。
先生にそう命じられて、死体から奪った槍を手に帝国兵の足止めをした。エーデルガルトはもうこの戦場に居なくとも、帝国兵は俺にとって、憎き敵に相違なかった。俺の耳元で、彼らも殺せと言っていた。
混乱の中、先生やドゥドゥーたちとは分断されてしまったが、彼らについては心配する必要はないだろう。それよりも、は無事逃げられたのだろうか。帝国兵を屠る度、そんなことが脳の片隅にちらついて、それを振り払うように次の兵を薙ぎ払った。羽虫を振り払うように人を殺す俺は、殺人鬼と何が違うと言うのだろう。を心配して、俺はまだ人間のつもりでいるのかと思ったら、少し笑えた。
殿下が初めて私の名前を呼んでくれたときのことを、私は、今も鮮明に覚えている。
まだ士官学校に入学したばかりのある日だった。野外訓練を数日後に控えた昼下がり、手合わせをしていた殿下の折った槍が、私の腕を直撃したのだ。
「すまなかった。俺の不注意だ。……他に怪我はないだろうか、」
膝をついて、心配そうに私を覗き込んだ殿下はどこか沈痛な面持ちをしていた。
大丈夫です、って言わなければいけなかったのに、声が出なかった。王国の田舎貴族にすぎない私の名前を殿下が覚えていたことに驚いたせいでもあったけれど、殿下の目があまりにも真っ直ぐで、どうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。
殿下の使っていた槍が折れて、その柄が私の腕を直撃した、なんて、そんなのただの事故でしかなかったのに、殿下は真摯だった。治療のおかげですぐに塞がった傷を、じっと見つめてくれた。私なんかのために、地面に膝をついてくれたことが申し訳なかった。ファーガスを背負う殿下は、やさしかった。困ったような顔で、眉尻を下げて笑う人だった。
切り離さなければならないと分かっているのにそれができなかったのは、俺達の過ごしたガルグ=マクの終わりを察しているせいだ。
自分の感情を表に出すことを躊躇わないあの横顔が、瞼の裏に張り付いている。俺は彼女を傷つけた。きっと何か、もっと良い方法はあったんだろう。俺達は何か、決定的なズレがあって、それを修正できないままここにきた。摺り合わせることのできない価値観がここまで俺達を苦しめたなら、俺は一度、きちんとお前と向き合うべきだったのかもしれなかった。
もう何もかもが遅いけれど。
目の前で、騎士が肩を切られる。ざわりと背筋が粟立つ。ちかちかと点滅するように蘇る、あの日の記憶がある。四年前のことが、ずっと脳に焼き付いて消えない。今も。
叫びながら、騎士に致命傷を与えた帝国兵の背に襲いかかった。切り伏せた帝国兵が黒い土の上に倒れたのを見た時、俺は、あの日お前が見せてくれたスミレの鉢を思い出す。俺の隣で笑うお前が、俺は好きだった。
戦場と化したガルグ=マクで殿下を捜し出すのは困難だった。「殿下」と、掠れる声で呼ぶ。あちこちで小競り合いが起きていた。撤退のために後退し始める騎士を、帝国兵は追う。
砂塵の舞う中、騎士の姿はあれど、士官学校の制服を着ている人はほとんどいない。どこかで行き違ってしまったんだろうか。その可能性は、私がここで殿下と出会える可能性より、ずっとずっと高かった。もう会えないのかもしれない、そう思うと、ぞっとした。
視界の奥、高台で白い竜が鳴く。帝国兵に向かっているように見えるのは、気のせいなのか。確かめようにもここからでは随分遠かったし、巻き込まれるかもしれないことを思えば近づくのは極力避けたかった。交戦があるらしい方へと、方向を変える。
走り続けていると、どうしても横っ腹が痛んでしまって、そっと手で押さえた。春、ザナドでのことがあってから特に体力作りには気を遣っていたのに、最近はどうにも気がそぞろで、あの頃ほど真剣には取り組めていなかったのだ。息切れや眩暈がするのは、そのせいだろう。そういう日々の積み重ねが今の私の状態を形成しているんだと思ったら、自分自身に腹が立って、情けなくて、仕方が無かった。
私は皆よりも、一歩も二歩も遅れていた。イングリットちゃんみたいに幼い頃から武器の扱いを学ぶこともなかったし、アネットちゃんやメルセデスちゃんのように、魔道の才もなかった。民を守るために、兄の代わりに、私は強くならなくてはいけなかったのに、色んなものが欠けていた。
なのに、殿下はこんな落ちこぼれの私を励まして、剣の訓練に付き合ってくれたのだ。悩みがあるときは、話を聞いてくれた。ロナート様の起こした反乱の鎮圧に向かわなくてはならなくなったときも、傍にいてくれた。民兵を手に掛けてしまった私の心の傷を案じてくれた。無理をしていないか、って、確かめてくれた。
殿下はいつも優しく寄り添ってくれたから、だから私は、身分違いだって分かっていたけど、殿下が好きだった。この思いを伝える気なんか、さらさらなかった。殿下の傍で、殿下を見ていられるだけで幸せだった。それで充分すぎるくらいだった。
だから、殿下の恋人として一緒にいられたあの日々は、人生の幸せを全部そこに詰め込んだみたいに、きらきら輝いていたのだ。
「……殿下」
喘ぐように殿下を呼ぶ。
間もなく陽が暮れようとしていた。ガルグ=マクを包む夕陽は濃く、夥しい数の死体も、流れ出た血も、空に食べられるみたいに色を失っていく。城壁に近づけば近づくほど、戦いの爪痕は生々しく残っている。遠く、大修道院の方角で、何かが崩落する音がする。
その音に紛れるように、それは私の耳に届いた。
「う……うぅ……」
人の呻き声だ。
咄嗟に辺りを見回した。事切れた死体が重なるそこに紛れるように、負傷し、肩で息をする騎士の姿を見た。建物の壁を背に、彼はもう身体を支えることもできないまま、首だけを空へ向けている。
どうせもう会えない。そう思うと、妙に頭が冴え冴えとした。
言いたいことは、少なくなかった。お前を好きでいた一年近くの日々は、俺が全てを失ってからの、この四年の中で唯一、光の粒子が舞うように美しくあったから。
ひたむきに前だけを見ているお前が好きだった。汚したくなかった。「復讐」などという言葉をお前の口から聞きたくなかった。お前が剣を手放せる世界であればよかった。笑っていてほしかった。
幸せになってほしいから、この手を放したんだ。
そう言ったらお前は怒るのだろうか。。
降り注ぐ血と肉塊の中で、お前のことを思っている。
「だ、大丈夫ですか! 今治療を……!」
ほとんど反射的に駆け寄るけれど、私に一体何ができただろう。彼は左肩に大きな裂傷を負っていた。自身の右手で押さえても、血は止まらない。薬も道具もないここで、治療ができるとは思えなかった。虚ろな目が私を捉える。首を振る彼は、もう耳を寄せなければ聞こえないほどの微かな声で囁く。
「いいから……逃げ……。……向こうに……君の、仲間が……」
その目が、木々の奥を見る。
魔法を使えたら、この人を助けることができただろうか。私が先生みたいに女神様に愛されていたら、何か手段があっただろうか。
返答も、身動ぎの一つもできないままの私の目の前で、命は失われていく。瞼が閉じるその瞬間を、私は見届けている。口の中を噛んでいなければ、叫んでしまいそうだった。知らず知らずのうちに触れていた彼の手から、力が抜ける。
無力感に苛まれそうになっても、それでも立ち上がらなくてはいけなかった。立ち止まってはいられなかった。短いお祈りだけをして、命を落とすその直前の騎士が目だけで示した方角へ走り出す。君の仲間が、と、彼は言った。ならば、制服を着ている誰かであると思うのが、自然だった。
今はただ、殿下に会いたかった。