エーデルガルトを殺せなかった。
 その事実は恐らく、時を経るほど俺を苦しめるだろう。どうしてあのとき殺しておかなかったと、俺はこの日の自分を責めるだろう。囮だった彼女が命を奪われるような失態をするとは考えにくかったが、それでも俺にとっては今日こそが最大の好機だったのだから。
 次の機会がいつ訪れるかは、分からない。
 ガルグ=マクを落とした帝国は、遅かれ早かれ、そのまま王国や同盟に手を伸ばすはずだ。俺達は互いに死ぬまで殺し合うだろう。その中に身を置いたとき、俺はきっと、今度こそ彼らの、俺自身の抱えた殺意に飲み込まれる。
 それはほとんど確信に近かった。帝国兵を殺し続ける今この時でさえ、腹の底から込み上がる笑いを抑えられなかったのだから。新しく芽吹いた呪いが、俺の足の裏から全身を駆け巡る。彼らの失意を、絶望を、俺が背負おう。けれど時折、こめかみの辺りがひりつくような痛みを覚えた。一瞬だけ目を閉じれば、そこにお前がいた。
 幻のお前は、いつも俺の隣で、こちらを見上げて笑っている。








 色んなものを、殿下は背負う。
 その責任感の強さは少し危ういところがあるのかもしれないと思ったのは、ダスカーで起きた反乱鎮圧の、帰りの馬車の中だ。



「今日失われてしまった彼らの命にも報いたいと、そう思うよ」



 殿下の吐いたため息が、自嘲気味な声が、私は忘れられなかった。
 せめて赤狼の節、ルミール村で殿下が見せたあの怒りに、私が向き合っていたら何か変わったのだろうか。一体どうしたんですか、って、何があったんですか、って、そう殿下を追いかけていたら、殿下は私に打ち明けてくれただろうか。ダスカーの悲劇の真相を話してくれたのかな。私にも背負わせてくださいって言ったら、殿下はそれを分けてくれたのか。
 そんなの、でも、絶対になかったね。
 殿下はきっと、最初から、私に何も話すつもりはなかったんだから。
 騎士が示したその先を、肩で息をしながら走り続ける。道中、事切れてからそう時間が経っていないと思われる帝国兵の死体が点々とあった。酷い目印だ。平生の私だったら、きっと堪えられなかっただろう。だけど、このときの私はもう、色んなものが焼き切れていた。まともでいたら、殿下を追えなかった。
 あれだけ走り回っていたのに、そこは私が引き返して来た離脱地点とは目と鼻の先だった。
 ガルグ=マクの城郭都市から離れた、林の中、木々の影がぽかりと途切れたその先に、殿下はいた。
 こんなところにまで、殿下は帝国兵を引きつけていたのだ。激しい息遣いは、けれど、殿下のものではない。
 帝国兵をその槍で薙ぎ払う殿下の頭上を、血飛沫が花弁のように舞う。血の染みこんだ青い外套は大きく翻っていた。殿下の髪は乱れて、頬は土で汚れていた。殿下の双眸は、鋭い光を放っていた。全てを食い尽くそうとする目だった。「殺しと血を好む獣の顔だ」フェリクスくんの言葉が、脳裏を過ぎる。だけど、それがなんだって言うの。
 草葉に染みこむ血が、月の光に晒される。
 立ち止まった膝が震えたのは、恐怖を覚えたためではないのだ。
 履いていた長靴が、地面と小石に擦れて、ざり、と音を立てる。殿下がこちらを振り返ったのは、そのせいだ。青い光がそこにある。殺意の滲んだ目だった。それを真正面から見たのは、初めてだった。
 周囲はもう、ほとんど暗くなり始めていた。だから殿下が、背後に現われた私を帝国兵と間違えるのも無理はないのだ。振り返った殿下が翳した槍の勢いと鋭さに、私は息を飲む。殿下が大きくこちらに踏み出す。叫び声をあげそうになる。待って、違うんです、殿下。悲鳴にならない悲鳴が、喉の奥に引っかかった。そのまま私はお腹なり首なりを抉られてしまうんだと、そう思っていた。
 だけど。
 咄嗟に頭を抱えて蹲った私の頭上で、何か、低い悲鳴が聞こえた。
 顔を上げるよりも早く、ぼたぼたと降り注ぐ温かいものがある。頬に落ちたそれが血だと気がついたとき、私はそのまま腰を抜かしてしまう。「ぐ、う……ッ」男の、太い苦悶の声を耳が拾った。次の瞬間には、私の真横にそれは崩れ落ちていた。
 刀身が剥き出しになった剣を抱えた帝国兵の、身体だった。
 首やら頭やらに落ちた血をそのままに、私は立ち上がることもできないまま、目の前に立つその人を見上げている。
 殿下。
 空には、白く丸い月が浮かんでいた。まだ陽が落ちて間もない時分では、木々の中にいても、暗闇とは言い難かった。だから、本当は、厳密に言えば、それは違った。あの春ではなかった。だけど私は思い出していたのだ。あの春の夜、野営訓練のさなか、盗賊に襲われて逃げ惑っていた私を、殿下が助けてくれたときのことを。
 あの時殿下は私を見ていなかった。だから、殿下はきっと私のことなんか覚えていない。殿下の槍が私の命を救っていたことなんて、殿下は知らない。だけど、私は思い出した。あのときの殴られたような衝撃を。月に照らされた殿下の横顔を。それが恐ろしいほどにきれいだったこと。目を奪われたこと。本当はあのときから、ずっと殿下を目で追っていた。
 殿下がいつも私の特別だった。
 あの春から。



「で、んか」



 目を見開いて私を見つめていた殿下の手から、槍が落ちる。
 私たちの周囲には、殿下が奪った多くの命があった。噎せ返るほどの血のにおいがあった。私たちは、死の中にいた。
 腰が抜けたまま動けない私を、殿下は見下ろしていた。その目は、微かに瞠られているようだった。それが何度か瞬かれる。殿下の靴の先が、こちらに一歩、二歩と近づく。月が作る殿下の影が私に落ちる。殿下はそうして、膝をついた。私の前に。そこには何の逡巡もなかった。脳裏をちらついたのは、私の腕の怪我を心配してくれた殿下だ。私を「」と呼んでくれた、あの日の殿下だ。
 私の肩を殿下が掴んだのは、その時だった。
 殿下は、何も言わない。言ってくれない。私の肩を掴む手が震えていた。その眉根を寄せる殿下の目が、そうとわからないくらいに歪んでいる。殿下の両の目の中で、私は酷い顔をしていた。髪はぼさぼさだったし、口の端はいつの間にか血が滲んでいた。



「あ、あの、殿下」



 言葉はだけど、続かないのだ。
 話したいことは、たくさんあった。だってそのために、私は引き返してきたんだから。だけど、何もかもが、消えてなくなってしまった。もう少し時間をかけていたら言えたのかもしれなかったのに、それもできなかった。直後殿下が私の身体を、何も言わずに引き寄せたから。



「わ」



 殿下の胸に顔を押し付ける形に抱きしめられて、息ができなくなる。
 殿下の身体は熱くて、力の加減が上手くできないのか、骨が軋むくらいの力で抱きしめられたかと思えば、鳥に触れるくらいの細やかなものになるときがあった。それは、何かを確かめるような動きに似ていて、私は殿下の腕の力が緩くなった隙をついて、そっと首を持ち上げる。わけがわからなかった。どういうことなのか、知りたかった。



「でん」



 か、って、私がそう続けるよりも先に、殿下の掠れた声が落ちてくる方が、早い。



「………………幻覚じゃ、ないのか」



 殴られたみたいだった。
 殿下の両の目は、私のことを真っ直ぐ見つめていた。ほとんど独りごちるような、喘ぐような声音だった。
 殿下、と思う。殿下、殿下、って、それだけを思う。



「幻覚じゃ、ないです」



 目の奥が痛くなって、熱くて、視界がぼやけたことでようやく、私は泣いているんだと気がついた。声にならない声が出る。いっそ、わあって声をあげて、みっともないくらいに泣きじゃくれたら良かった。子供みたいに泣けたら良かった。
 会いたかったんです。ずっと、ずっと。話がしたかった。私たちの気持ちが平行線のまま、一生交わることはないと知っていても。そういうことを、口にしたつもりだった。だけど上手く言葉にならなかったそれらは、ほとんど嗚咽になる。ぼろぼろに泣く私の目元を、殿下の乾いた指が拭っていく。「ああ、そうか」って、掠れる声が耳元に落ちる。



「……本当に、お前か」



 殿下についた返り血が私の髪を、肌を汚すことに、躊躇はなかった。
 殿下はもう一度、私を抱き寄せた。気遣ってくれたんだろう、今度は慎重に、ずっと、一定の力でもって。殿下の腕は温かかった。獣の腕なんかじゃなかった。そこに言葉はなかったけれど、私はそのとき、確かに満たされていた。このために生まれてきたんだって思えた。涙が少しずつ溶けていくみたいだった。恐る恐る背中に腕を回せば、びっくりするくらい、それは大きかった。
 ガルグ=マクの片隅で、私たちはたった二人きりみたいだった。一生このままでも良かった。殿下の傍にいられるなら。
 だけど、そんなことはできないのだ。



「……そうか」



 やがて、私の両肩を掴んだ殿下が、そっと私を引き離す。私を見つめるその目は、かつての、私の良く知る殿下であるように見えた。そういう風であってほしい、っていう、私の願望だったのかもしれない、いや、願望だった、本当に。
 殿下の目は、落ち窪んでいた。隈は深く、頬はこけて、唇はかさついていた。他人の血を頭から被った殿下が、本当はもう、「私の知る殿下」に戻ることはないってことくらい、私は分かっていた。
 けれど、それでも殿下は、その時だけは、私を見てくれていたのだ。私の名前を、慎重に呼んでくれた。壊れ物でも扱うみたいに。物語のおしまいのときにするみたいに。丁寧に。



「――



 エーデルガルトさんを逃がした殿下は、きっとこれからも、泥の中で息をする。彼女の息の根を止めるまで。
 その背を追うことを、殿下はきっと許してくれないんだろう。私が一緒に復讐を背負うことを、殿下は、嫌う。殿下は私を血の中に連れていってくれない。私という存在を遮断して、一人で行ってしまう。私たちは、だから、これで本当にもう、おしまいだ。
 殿下がその眦を、そうと分からないくらい、微かに細めた。殿下の眉は、笑うとき、いつも困ったみたいに僅かに下がる。その瞬間、何もかもがばらばらになったみたいな衝撃があった。ひとつなぎにしていた宝物が、全部弾けて、消えちゃったみたいに。
 ああ、と思った。殿下の浮かべる、柔らかい笑顔。それを向けてもらえる度、私はいつも幸福だった。私にとって、あなたは春だった。隣で笑って、考えて、悩んで、こうして、一緒にいてくれた。
 。もう一度、殿下が私の名前を呼ぶ。顔をあげれば、血で固まった金の髪がそこにある。
 殿下が口を開くのを、見ていた。私たちをおしまいにする言葉を待っていた。世界は多分、今日で一度終わる。私はそれで、殿下がくれた言葉を抱えて、抱えて、自分の内側に押し込んで、そうして一人で生きていく。






 殿下は最後に、私の額に自分の額を押し付けた。その睫毛が、微かに震えていた。「こんな俺と共にいてくれて、ありがとう」それだけで私はもう、充分だった。








 帝国によりガルグ=マクの陥落が宣言されたのは、あの戦いの翌日のことだった。
 レア様は行方不明となり、ベレト先生もガルグ=マクでの戦いの中、その消息を絶った。アドラステア帝国はファーガス神聖王国とレスター諸侯同盟への侵攻を本格化し、フォドラの統一へと動き始めようとしている。混迷の時代が訪れることを、誰もが察している。
 ファーガスの西方部、タラヌス川の畔で白んだ空を見上げる。
 私の隣には、もう誰もいない。