炎帝をエーデルガルトとみとめてからの日々は、もう、細部が滲んで曖昧だ。
俺の耳元で復讐を叫ぶ声は日ごとに増え、足を掴む腕はそこかしこにあった。彼らの命を奪った元凶がそこにいるのだ。それで冷静でいられるはずもない。俺だってそうだった。
あの女がセイロス聖教会に対して宣戦布告を行ったとき、俺は、何もかもそのためだったのだと思った。父を、継母を、友を奪われたのは、あの女が目指した世界を作るための足掛かりだったと。目の前で失われた彼らの命は踏み台だ。そう知ったとき、腸が煮えくりかえるほどの怒りを覚えた。
食べ物は今まで以上に、粘つくような感覚だけを持って口内に留まる。無理矢理飲み込んだことで吐くことも多くなったが、ドゥドゥーが気を利かせて運んでくれる食事だけは、何とか流し込んだ。無理をしなければ、戦えるときに戦えない。夜はほとんど眠れなかったが、大聖堂に居る間だけは、けれど、なぜか少しは平常を保っていられた。俺の耳に囁く彼らを安心させるために、ずっと祈っていたからかもしれない。大丈夫です、俺があの女の首を必ず持ち帰ります、そう言えば、俺の背は春の光が落ちるように温かくなった。それ以外の声は、ほとんどもう、聞こえなかった。
俺の思考は浸食されていく。
瞼を閉じれば四年前の光景が焼け付くように浮かぶから、瞬きすらもせぬよう、じっと息を潜めたままいた。寝台の横から血まみれの腕が伸びる。大聖堂の天井から落ちた光の溜まりの中からそれは這い出る。復讐をしなければ。早く殺さなければ。そうでなくては彼らは報われない。俺はいいのだ、それで俺が終わろうと。なあ、だから、早く死んでくれエーデルガルト、お前はお前の命でその罪を贖って、死ね。
その呪いの隙間に、何か白い栞のようなものが挟み込まれる瞬間が、けれど時折、確かにあった。俺はその正体を薄々察していて、俺がまだ俺でいられるうちに、それを手放さなくてはならないと思った。
終わりにしなければ。
お前が俺に引きずり込まれて汚れる前に。お前が俺から零れたいらぬ呪いを抱かぬように。俺はお前に、そのままでいてほしかった。武器もまともに使えないまま。人を殺すことをいつまでも躊躇っていてほしかった。スミレの花を咲かせられないのだと困った顔をするお前が好きだったから。何の傷もない手の甲が好きだった。例えそれで生きていける世ではなくても、それでも、一つの命を奪う度に傷つくお前が正しくあってほしかった。俺が進むその先を、お前はもう見るべきではなかった。
の部屋を訪れたとき、彼女は、困惑した目をしていた。記憶にある彼女のものよりも、その目は光がなかった。頬は少し痩せていて、唇は乾燥して、かさついていた。可哀想なくらいだった。俺が無理にお前を傍に置いていなければ、きっと苦しい思いをさせることはなかったんだろう。その肩越しにも、彼らの腕はあった。「その時だ」と彼らが言っているようだった。だから、俺は、ああと、頷いたのだ。お前は俺と一緒に来なくて良いんだ。この轍を追うのはやめてくれ。そう伝えるために。
その時がどんな顔をしていたか、俺はもう、良く覚えていない。
「ディミトリ、撤退だ」
背後から肩を掴まれた瞬間、目の前の光景が突然、鮮明な色を伴って俺の前に現われた。
ガルグ=マクの城郭都市、大修道院へと続く大通りの片隅だ。多くの店が並ぶこの通りは、今、戦いの痕跡を強く残している。軒は落ち、建物の壁は一部が崩落。魔道砲台が地面に空けた巨大な穴の付近では、身動ぎの一つもしない兵士達が呻き声も立てずに横たわっている。
積み重なる帝国軍の屍を前に、握った槍の具合が悪いことに気がついた。いつの間にかあと一歩で柄が折れるところまでいっているらしく、ほとんどぐらついている。これで良く戦っていたものだ。不意に視界が半分失われて、思わず目元を拭えば、それは俺のものではない誰かの血だった。そうしながら振り向いて、俺を真っ直ぐに見据える先生の顔をじっと見つめ返す。俺のものと違って、先生は、いつも綺麗な面立ちをしている。
「…………撤退」
繰り返すその声は、本当に俺のものだろうか。
「エーデルガルトが退いた今しかない。帝国の本軍が来るまでに、退避を」
「…………」
出来れば、力量のある君に殿を務めてほしいのだけど、できるだろうか。そう続ける先生は、やけに冷静だった。本当にそうなのか、それともそうせざるを得ないからそうしているのか、今の俺には分からない。いや、実際のところ、俺はこの人の考えていることなど、本質的には理解できていないのだ。視野が極限まで狭まっている今、どうしてそれを判断できようか。
先生の背の奥に、ドゥドゥーが、イングリットがいる。他の皆は、恐らく既に撤退を始めているのだろう。は、と思いかけて、笑いそうになる。そうだ、あいつはいない。この戦いから遠ざけ、クロードに任せたのは、俺じゃないか。今頃はもう、とっくに避難しているはずだ。安堵しているはずなのに、胸が軋む。
口の中が熱かった。知らないうちに砂が入っていたらしい。吐き出しかけて、飲み込む。そうしなければ、叫んでしまいそうだった。
エーデルガルトの首を奪えなかった。
手の平は、あいつの振るった斧を受け止めたときの手応えが今も残っている。殺せるはずだった。それほどの力量差があるようには思えなかった。なのに、あと一歩のところで、逃がしてしまった。
囮だろうが、なんだろうが、あと一歩踏み込んで殺しておくべきだった。それで俺があの斧に腹を抉られようと、頭を割られようと。どうしてそれができなかったんだ。
帝国の本隊は、間もなくこのガルグ=マクを制圧する。
囮の役目を終えたエーデルガルトは、そこにもういない。
退避する学生たちの波に逆らいながら走る。木々の隙間から見える空には、まだあの白い竜の姿があった。魔獣の鳴き声はけたたましく、私は何度か戦ったそれらを思い出して足が竦みそうになるのに、それでも立ち止まっちゃだめだ、って、ずっと走っている。戦場へと、戻る。
こうして引き返していても、避難する士官学校生の列の中に殿下の姿はなかった。イングリットちゃんや、他の皆も。やっぱり戦っているんだ、って思ったら、緊張と恐怖とで頭がぎゅうとなる。目の端がちかちか光って、上手く呼吸ができなくなる。泣きたくなる。
「急げ、逃げるんだ!」
「立ち止まるな! 走れ!」
騎士の怒号が近づく。戦場特有の熱がその先にあるのを私は感じ取っている。目に見えない線がここにあって、そこから先に越えたとき、私の命は保証されない、それが感覚として横たわっていた。だけど、それが一体何だって言うんだろう。
木々を抜けたとき、開けた視界の先から吹いた風が髪を浚った。その強さに、一度咄嗟に目を閉じる。ガルグ=マクの城壁付近は、なだらかな斜面の下に広がる城郭都市を臨むことができる。それを見て、背筋が粟立つ。
帝国の先遣隊が到達したのだろう。眼下に広がるガルグ=マクの街並みは、先よりも破壊されていた。巨大な魔獣の腕が、建物ごと人を薙ぎ払っていく。帝国兵の攻撃を必死でおさえながら、逃げ遅れた生徒を守る騎士の姿がある。屍はあちこちに転がり、血の臭いが辺りを覆っている。
撤退を始めていると言っても、そこはまだ明らかに戦場だった。あてもないままに彷徨くなんて、きっと自殺行為だ。クロードくんや先生、見知った人に見つかれば、きっとすぐにまた避難の列に押し込まれるに違いない。
それでも、捜す他なかった。私は殿下の無事を確かめたかった。もう一度話がしたかった。声が聞きたかった。
伝えたいことが、たくさんあったのだ。例え自分本位だと叱られても。
そうしなければ、これからの未来を、ガルグ=マクの外で生きていける気がしなかった。