クロードくんの言っていた通り、戦場に出ていた士官学校生への撤退の指示は、それからすぐに出された。帝国軍の本隊が城郭都市に到達し、尚もこちらに向かって進軍する様子が、騎士団によって直接確認されたのだ。
 私たちから見たら圧倒的な兵力を持っているように見えたエーデルガルトさん率いる帝国軍は、囮。クロードくんのその言葉を嘘だと思いたかったけれど、それはもう疑いようのない事実だった。
 皇帝であるエーデルガルトさん自身が大将として戦場に立ったことで、私たちはそれを本軍と誤認した。彼女を倒しさえすれば勝機はあると、持ちうる全ての力を投入して戦った。結果こちらは兵力や武器の消耗を強いられただけでなく、今、それまでと比べるまでもない帝国本軍との兵力差を前に、戦い続ける気力まで失っている。そしてそれがきっと、エーデルガルトさんの――帝国の狙いだった。
 私たちは負けたのだ。
 帝国に一分の傷を負わせることもできないまま。








 混乱とざわめきと、悲鳴の中を、私は前の人の背を追いかけるように、懸命に進んでいる。
 クロードくんと別れたのは、つい数分前。戦いの爪痕が生々しく残る城郭都市の外へと続く道を抜け、戦場から離脱し始めている生徒たちの集団に紛れこむことができた、その直後のことだった。



「撤退だ! 急げ! 生徒たちは早くガルグ=マクを離れろ!」

「怪我人がいる、誰か手を貸してくれ!」

「おい、武器はないか、俺に寄越せ」



 戦える者は武器を持て。そうでない者は急ぎ避難せよ。
 昼にも聞いたその言葉は、もう、そのときとは意味が違っていた。それは今、ガルグ=マクに残っている人間を無事に避難させるため、帝国軍の足止めができる者はその相手をして時間を稼いでほしい、って、そういう意味合いを持っていた。
 私たち生徒の大半は、フォドラの貴族子弟だ。想定外の争いの種を生むのを嫌って、制服を着ている私たちに対して帝国は無駄な殺生を避けると考えて良いだろう。そもそもファーガスやレスターに限った話ではなく、ここには帝国貴族の子息もまだ残っている。万が一にも彼らを傷つけてしまえば、その責任は重い。「そういうのを見越してフェルディナントたちをガルグ=マクから出さなかったってこともあるんだとしたら、レアさんたちも相当曲者だけどな」そうクロードくんは独りごちるように呟いた。



「ま、兎に角、だから大丈夫だ。よっぽどのことがなければお前は逃げられるよ。……無事にラルミナに帰れる」



 前方を歩く生徒たちに置いて行かれないよう早足で歩きながら、クロードくんの言葉を思い出す。舗装もまともにされていない道は土が軟らかく、気を付けないと、滑ってしまいそうになる。



「だけど目立った行動はするな。何があっても振り向くな。後戻りはするんじゃない。武器なんか持たなくていい」



 自分のことだけを考えて、生きろ。
 クロードくんは私にそう言った。
 真っ直ぐな目だった。私の両肩に手を置いて、言い聞かせるみたいだった。あの時の手の感触が、今も私の肩には残っている。
 クロードくんは私の頭を一度ぐしゃりと撫でると、「じゃあな」って短く言って、武器を持って、攻め込んでくる帝国軍の防衛に向かってしまった。風に靡いた黄色い外套は、黒くなった血が、ずっとこびりついていた。
 それから私はクロードくんに言われた通り、本当に、前だけを見ている。息を潜めて、名前も良く分からない、恐らく黒鷲の学級に所属していた男の子の背を追って、砂埃の中を駆けている。先生とも殿下とも、イングリットちゃんともアッシュくんとも、青獅子の学級の誰とも会えないまま、一人で、ひたすらに逃げている。
 この列の中を捜しても、誰も、どこにも居ない。もしかしたらクロードくんと同じように、皆は帝国軍の足止めを、今現在もしているのかもしれない。他の生徒を安全に逃がすために。エーデルガルトさんと戦った後の、疲弊した身体で。そう思ったら、どうしたらいいのかわからなくなった。私だけが、いつも安全な場所にいた。
 大聖堂が遠ざかっていく。街が破壊される音は、それでもまだ何かに邪魔されることなく届いている。



「……おい、なんだあれ?」



 逃げる生徒の誰かが口にした声に目線をあげれば、お伽噺の挿絵で見たような、白い竜がガルグ=マクの空を舞っていた。あれも、帝国が全てを奪うために準備したものなのだろうか。驚いているはずなのに、なんだかもう、頭が上手く回らない。それでも目を凝らそうとしたとき、「魔獣だ! 魔獣が出た!」と、私たちが逃げてきたその背後から、悲鳴混じりの声がした。周囲が混乱と恐怖に飲まれるのがわかった。帝国軍の兵力は、最早、無尽蔵に湧き出てくるようだった。私たちを絶望させるために。
 列を成して歩いていた生徒たちが、我先にと駆け出していく。ガルグ=マクから、一秒でも早く、一歩でも遠く、遠ざかろうとしている。私はそれでも、動けなかった。だってまだあそこには、きっと皆が、殿下がいる。
 どうしてこんなことになったんだろう。
 エーデルガルトさんのその喉元にまで、刃は届いていたはずだった。戦場には腹心のヒューベルトさんも、イエリッツァ先生――死神騎士の存在もあったらしいっていうのも聞いた。彼らを撤退に追い込み、東西の砦を奪い返したことで援軍を得た先生たちの士気は高かった。エーデルガルトさんを倒せば、それで何もかもが終わるはずだった。なのに、最後の最後でこれなのだ。全て、ひっくり返されてしまった。
 勝利が目前であると思い込んでいたからこそ、私たちは絶望した。そうでなくても、信じられなかった。だって、こんなことがあって良いんだろうか。セイロス聖教会が帝国に屈するなんて、フォドラの均衡が失われるなんて、あって良いのか。
 木々の隙間から見える帝国軍は、遠目からには山肌を流れる黒い川に似ていた。それは濁流のようにガルグ=マクに流れ込み、ありとあらゆる全てのものを飲み込もうとしていた。いくら天帝の剣を持った先生が、レア様がいらっしゃっても、それはもう、止められないもののように思えた。立ち止まった私は、逃げる生徒たちの流れを滞らせていた。振り向くな。そう言われていたのに、後ろを見た。夕陽に照らされたガルグ=マクは、流れた血の色すらも薄い。
 なんで一人で逃げなくちゃいけないんだろう。
 私は、怪我の一つもしていなかった。剣を汚してもいなかった。誰かのために、まだ戦えた。



「…………殿下」



 それが殿下のためだったら、どれだけ良かったか。
 今私がここで、言いつけを守って、素直に走って行けば、私は無事にラルミナへと戻れるだろう。ラルミナにはお父様もお母様もいらっしゃる。セイロス聖教会が帝国に屈したとき、ファーガスの西方にある地を任されたお父様がどういう判断をされるかは分からないけれど、領民が苦しむことのないよう、最善の選択をなされるはずだ。私はそれを、お兄様の分もお支えする。どんな結果であれ、遠く離れた地で、一年を共に過ごした皆との思い出を胸に生きる。
 それは、間違いなく一番正しいことのように思えた。殿下――いずれ陛下とお呼びしなければならなくなるだろう――への思いを抱えたまま、貴族の責務を全うする自分を、私は簡単に想像できた。だけど、それでも息ができなくなるのだ。嫌だ、と思ってしまうのだ。殿下とこのまま会えなくなることが。エーデルガルトさんを殺すことのできなかった殿下が、一人絶望の底に沈んでいく姿を想像するしかできないことが。
 結論づけるよりも先に走り出した私は、すぐに誰かにぶつかった。名前を呼ばれた気がした。ドロテアさんの声だったように思えた。それでも立ち止まらなかった。戻りたかった。殿下に会いたかった。もう何の力にもなれなくても。
 このままでおしまいなんて、嫌だ。
 せめて最後に、殿下と話がしたかった。
 それでお別れになったとしても、良いから。


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