「撤退だ」



 さっきまで城壁の付近で戦っていたはずのクロードくんにそう言われたとき、すぐにはその言葉の意味が理解できなかった。
 私は声も出せないままクロードくんの顔をまじまじと見つめ返す。撤退。そのたった一つの単語が頭に染みこむのに、いつもの数倍は時間を要したけれど、それは私だけじゃなかったらしい。「…………えっ?」って、敵兵の姿が完全になくなったことでようやく落ち着きを取り戻したベルナデッタさんが、一歩後ずさった後、困惑した面持ちでクロードくんを見上げていたから。
 クロードくんはその時一人だった。彼と共に戦っていたはずの黒鷲の学級の生徒達(フェルディナントくんや、カスパルくんだ)の姿はなく、その外套は明らかにクロードくんのものではない誰かの血で汚れていて、ぞわりと肌が粟立った。一体私たちの知らないところで何があったんだろう。他の皆は無事なのだろうか。クロードくんはそんな私の内心を読み取ったみたいに「こっちは全員無事だよ」って、紛れるみたいに吐き出した。きちんとは構っていられない、って言うみたいな、早口だった。



「……お前達も怪我はしてないな? 今すぐここから逃げるぞ」



 顔を真っ直ぐ見つめながら言われて、それでようやく私はクロードくんの言っていることを飲み込めたのだ。
 撤退って、ここから逃げるってことだ。何もかもを捨てて、敗北を認めることだ。ガルグ=マクを守る城壁の先で、殿下たちは今も戦っているのに、どうしてその背を預かる私たちが逃げなくてはならないんだろう。



「に、逃げるって……なんで?」



 私の吐き出した言葉は掠れて、自分が思っていたよりも、ずっと、弱々しい。
 大修道院の門へと続く階段を駆け上ってきたって言うのに、クロードくんは息一つ乱れていなくて、けれど、その目だけは酷く険しかった。それが私は、怖かったのだ。何かがあったはずなのに、自分がそれをちっとも理解できていないっていう状況にあること、それを自覚してしまうのが、怖かった。
 クロードくんたちが戦っていた城壁付近で、一体何があったって言うんだろう。上手く回らない頭で「それは、先生からの、指示?」とどうにか尋ねる私に、クロードくんは首を振る。「俺の独断だよ」彼が口にする言葉は、有無を言わせないくらいに低い。
 前線がこちら側に押し戻されていないってことは、先生たちは有利にこの戦を進めているはずだ。あれだけいた帝国の天馬騎士の姿がもうどこにもないのも、その証左だと思っていた。戦いの喧噪だって、さっきよりもずっと遠くなっている。先生と殿下はきっとエーデルガルトさんを追い詰めている。私は今の今までそう思い込んでいたのだ。だってそうじゃないなら、じゃあ、何なの。



「独断って、どうして? だって先生や殿下はまだ……!」



 けれどクロードくんは私の質問には答えない。私ではなく、ベルナデッタさんの名前を呼ぶ。切迫した何かが、そこにはある。



「ベルナデッタ、大修道院の中にいる連中にも退避するよう伝えてきてくれないか」

「ひ、ひぇ、あ、あたしですかぁ?」

「悪いが、頼んだぞ」



 ベルナデッタさんと話すクロードくんの背の、黄色い外套の奥を、その時私は見た。
 落ち始めた陽が、ガルグ=マクのすべてを茜色に染めている。薄い垂れ幕がかけられたみたいに光り輝く街並みは、なのに、遠目からでも、戦いのにおいを強く残している。動かない何かの塊、あれに目を凝らせば、私は息を止めてしまうだろうと知っている。風は今も血の臭いを運んでいた。あの城壁の裏では人が死んでいた。私とベルナデッタさんで奪った命がそこかしこに落ちていた。このまま勝てると思っていた。汚れた分だけ勝利に近づくのだと思わなければ、立っていられなかった。エーデルガルトさんを、先生が、殿下が倒して、そうして私たちは新しい春を迎える。セイロス聖教会はこれからも私たちを守ってくれる。未来はいつだって祝福に包まれている。そうじゃなくちゃいけなかった。ずっと平和だったんだから。
 何が起きているのか、私には分からないのだ。
 ベルナデッタさんが、言われるがままに駆け出していく。私の手首を引く誰かの手がある。「」地鳴りのような怒号が、ガルグ=マクの裾から浸食するように、せり上がる。空気が変わろうとしている。嫌だ。言いたいのに、声が出ない。



「帝国軍の本隊がすぐに来る」



 振り向いて見上げようにも、身体が言うことをきかなかった。



「独断だ、って言ったが、今フェルディナントがレアさんに報告に向かっている。……すぐに撤退の、正式な通達がなされるはずだ。今頃先生たちもエーデルガルトが囮だってことに気がついているだろうよ」



 追い詰めたなんて、そんなの有り得ない。今の俺達じゃ、エーデルガルトには勝てないんだよ、って、クロードくんは続ける。言い聞かせるような、諭すような、だけどどこか悲痛な声だった。私はクロードくんのこんな声を、初めて聞いた。
 それでも、どうして、と思うのだ、殿下の背がずっと瞼の内側にこびりついたまま、剥がれてくれないのだ。もうおしまいにしようって言った殿下が。目の届かないところに行ってくれと言った殿下が。そうしてもう、ずっと私をいないものとして扱う、その横顔が。
 それが苦しくないなんて、そんなことは、嘘でも言えなかった。だけど私の痛みがなんだって言うんだろう。大切な人たちを突然奪われた苦しみの中に、ずっと殿下はいた。その泥濘に首を絞められながら、取り繕うみたいに笑っていた。その葛藤を、苦悩を、一つも差し出さないまま、私たちは、何も知らないまま、見ようとしないまま。
 エーデルガルトさんを、だから、殿下は倒さなくちゃいけなかった。そうじゃなきゃ殿下は元には戻れなかった。殿下をその苦しみから解放する唯一のものがあるとするなら、それはエーデルガルトさんの死であるはずだった、だから、だから私は、願ったのだ、酷いことだと分かっていたけれど、誰にも言えなかったけれど、ずっと、ずっと、殿下のために、殿下が解放されるために、どうか、どうかエーデルガルトさんがいなくなりますように、って。
 そうして殿下を元に戻して。
 力任せに掴まれていた腕を引かれる。無理矢理に目を合わせられて、それで私は、我に返った。クロードくんの翡翠の両の目の中に、泣き出す寸前のような、血走った目の、まともに呼吸もできなくなった私がいる。「」って、クロードくんが私を引き戻すみたいに言う。いっそもう、殴ってほしかった。それでも諦められなくて、首を振ってしまう私を。だって、今ここで終わったら、エーデルガルトさんは、まだ。でもクロードくんは、私の腕に、一層の力をこめるだけだ。深いため息を吐いて、何かを飲み込むみたいに一度俯いて、それから、「どうしようもない」って、言うだけだ。



「逃げるしかないんだ、もう」



 エーデルガルトさんは死なない。
 じゃあ、殿下はどうなるの。
 防衛にあたっていた騎士たちのざわめきが、知らないうちに、強くなっている。撤退、って声が、大きくなり始めている。耳障りなくらいに。
 殿下、殿下、祈るみたいに思っている。
 なんで私はいつも何もできないんだろう。殿下を救える何かになりたいのに。そのためだったら、私、きっと、なんだってしたのに。


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