押し寄せる帝国の軍勢は、とうとう城郭内部に侵入を始めた。
 担ぎ込まれる負傷者の数が突然増えたのは、前線がじりじりと後退したせいだ。帝国兵はもうこの城壁のすぐ目の前にまで迫っている。階段の下、二重城壁の外側部分に立つ先生たちの影が微かに動くのを、目の中心で追う。その中に殿下の後ろ姿を見つけて、喉から胸の真ん中にかけてのあたりがぎゅうと苦しくなった。ここから殿下の名を呼んでも、私の声は届かない。
 俯いたとき、視界に動く影に気がついた。そっと空を見上げれば、こちらを窺う斥候の天馬騎士の姿がある。弓兵から狙われにくいよう太陽を背にしながら空を舞う天馬騎士の槍の穂先から、私の足元に滴ったものを見て、ぞわりと背筋が粟立った。地面に点々と落ちた赤黒いそれは、明らかに人間の(それも、間違いなく今まで帝国兵と戦っていた騎士たちのうちの誰かの)血だったから。
 横を通り抜けた、負傷者の低い、唸るような声が耳元に蘇る。さっきまで土の匂いだけを運んでいた風は、いつの間にか血生臭さをもって私を取り巻いている。



「いよいよか」



 クロードくんが言うのを、返事もできないまま、左の耳で聞く。
 ガルグ=マクを防衛するこちらを外側から囲むように、帝国軍は配置され始めていた。既に眼下にあるいくつかの砦は奪われ、逃げ遅れた騎士が建物の陰で殺されている。店の軒が落ち、敷き詰められた石床はところどころがその武器で砕かれた。見慣れた街並みは、あっという間にその色を変えてしまっていた。皮肉なことに、それが高台にある最終防衛線から、良く見えてしまうのだ。胸が苦しくなる。城壁の影に戻ればそれは簡単に視界からは隠れるけれど、それでもそこに広がる現実は変わらない。



「…………」



 ひりつくような戦場の空気の中に、とうに私たちはいる。
 城壁の中央、その真正面から伸びる道の先に、エーデルガルトさんらしき人物の人影はあった。何人かの、将と思しき兵たちも。彼女が敷いた布陣は、こんなときなのに、壮観だった。今あの場に立っているのは、恐らくこの日のために訓練された、優秀な兵たちだ。彼らを従えるエーデルガルトさんはもう、「黒鷲の学級の級長」ではない。帝国という強大な国を背負った、一国の主だった。
 とうとうここにまでやって来てしまったんだ。――戦いになるんだ。そう思うと、無意識に呼吸が止まってしまう。
 手が震えるのをクロードくんに見られたくなくて、制服の裾を握りしめた。強く目を閉じれば瞼の裏に、先の血痕が残っている。殿下の後ろ姿が、今もある。金糸の髪。一際目を引く青い外套。真っ直ぐに空に向かった槍も、何もかも。
 それがいつのものなのかは、私にはもう分からないけれど。



「行くぞ、



 クロードくんの声は、普段の彼のものよりも、微かに低かった。
 遠く視界の片隅で、青が翻った気がした。








 記憶にあるのは、いくつかの瞬間を切り取っただけの、一繋ぎにもならない絵だけだ。
 城壁が突破されるのにそう時間はかからなかった。この最終防衛線に空からの急襲があったのは、その直後のことだった。こちらを目掛けて槍を振り下ろしながら急降下する天馬騎士を射貫いたのはクロードくんで、私は腰を抜かしかけていたところ、すぐにクロードくんに腕を引かれた。「こっちだ!」って。私がついさっきまで立っていた場所には、その直後、天馬から投げられた槍がほとんど垂直に突き刺さっていた。
 本当はそんな予定じゃなかったのに、物陰で砲台に矢を仕掛ける手伝いを任されたのは、帝国の動きが想像以上に速かったのと、私自身が剣を振るえないだろうと判断されたためだったんだと思う。
 まともに戦えないことに、惨めだとか、申し訳ないとか、そんなこと考える暇もなかった。泣きわめきながら弓砲台を操る黒鷲の学級の女の子――ヴァーリ家のベルナデッタさんだ。ガルグ=マクでもほとんどすれ違わないから、話したことは一度もないけれど。――の隣で、私はただただ、授業で習った通り、矢の準備を手伝った。地上では正面を突破してきた帝国兵の迎撃に忙しく、その分一つの失敗も一瞬の逡巡も許されないように思えた。その間も、負傷者はひっきりなしに運ばれていた。前線は、これ以上の惨状であるに違いないのに、身が竦んだ。
 先生や、殿下、イングリットちゃんたちは大丈夫だろうか。帝国に奪われた東西の砦を奪い返すために進軍を始めた、っていうのは、飛び交う怒号や悲鳴の中でどうにか拾ったけれど(というのも、東西に置いていた騎士たちを主戦場となった中央に呼び寄せるために、双方の砦を奪い返す必要があるとのことらしい。彼らの援軍がなければ、こちらはこのまま兵力差で押し切られてしまいかねなかった。)よって、先生達が動いたことで手薄になった防衛線を守るのが私たちの仕事だった。今の私は、ここで、微力を尽くす他なかった。例えできることが、お手伝いだけでも。
 ベルナデッタさんが扱う弩から放たれる弓矢は、高い放物線を描いて帝国の天馬騎士を撃ち落とした。赤い空を落ちるその影が、蜻蛉みたいだと思ってしまった。今そこで命が失われているという感覚が薄く、だけど、ここでその重さを実感してしまえば、私自身がこの戦場から逃げ出してしまいかねなかったのもまた事実だった。
 私が触れた矢が、間接的に誰かの命を奪っている。先生を、殿下を、イングリットちゃんを、皆を助けている。そう思う以外に、なかったのだ。



「ひっ……いやぁああ! こ、来ないでぇえ!」



 悲鳴で我に返る。弓砲台を落としにかかろうとした天馬騎士がこちらに降下してくるのを目掛けて、ベルナデッタさんが矢を放った。首に矢が突き刺さった騎士が軸を失い、地面へと吸い込まれていく。一つ先の壁の奥で、嫌な音がした。生々しい死の音だった。
 瞼の裏に、首に矢が突き刺さった瞬間の、吹き出た血が残っていた。夕焼けに滲んでいた。きれいだったと、そう思ってしまったとき、本当は、わあって悲鳴をあげたかった。
 だけど、隣で、は、は、って、浅い呼吸を繰り返すベルナデッタさんがいるのに、どうしてそんなことできただろう。閉じていた目を開けて、彼女の横顔を見る。目を見開いたまま胸を押さえる小さな身体の女の子は、だって、絶対に私より傷ついているのだ。「ベ」ルナデッタさん、って呼びかけようとしたとき、その大きな目から、ぼろりと涙が落ちるのを見た。どうしたら良いかわからなくて、丸まったその背を撫でた。ごめんなさいも、ありがとうも、言えなかった。あれだけいたはずの天馬が、もう空にないことだけが救いだった。
 階段下からクロードくんたちが引き返してくるのを見る。そこに殿下や先生の姿なんかあるはずないのに、私は救いを求めるみたいに、皆のことを捜している。


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