エーデルガルトさんを大将に据えた帝国の軍勢はガルグ=マクの外郭を破り、今まさに大修道院を包囲しようとしていた。
 その背を険峻なオグマ山脈に守られているガルグ=マクは、有事の際の侵入経路が限られている。今はほとんど無人となった外郭都市を突破するしかないのだ。しかしその外郭都市への侵入も、半刻ほど前に許してしまった。街並みに爪痕を残しながら進軍する帝国軍との、怒号に似た戦いの音は、既に耳でとらえるのも易い。
 ガルグ=マクに攻め込む帝国の兵は、籠城の構えを取るセイロス騎士団の倍はあろうかという人数であることは間違いなかった。大修道院を取り囲む城壁を騎士団の精鋭が防衛しているけれど、恐らくそれも、そう長くは保たないだろう。
 戦いが近い。



「はぁ……」



 剣に触れるその手が震える。
 誤魔化すように鞘を数度撫でながら、周囲の緊張感に身を竦ませる私は、周囲の人の邪魔にならないよう、二重ある城壁の一番内側、その隅でじっと息を潜めていた。
 私たち士官学校生はレア様や残りの騎士団と共に城壁の内側である最終防衛線を任された。生徒全体の指揮を務めるのは、ベレト先生だ。
 総力を挙げての戦いである今回は、級長の欠けた黒鷲の学級や、金鹿の学級の生徒たちも先生の指揮下に入ることになっているのだけど、激しい戦場で指示が疎かになることを危惧したのだろう。先生は部隊の一つを金鹿の級長であるクロードくんに任せた。それが私のいる、二重防壁の最も内側を守る部隊だった。
 この部隊は、先生が直接指揮する最前線のそれと違って、ほとんどが黒鷲の学級の生徒で構成されていた。思い出すのは、部隊の編成の際、「よろしくな、先生」と笑うクロードくんの隣に、険しい顔で立っていたフェルディナントくんの横顔だ。
 エーギル家の嫡子である彼のお父様は、今、宰相の地位を奪われ、帝都で軟禁状態にあるらしい。エーギル家が領地の統治権すら失ったという話が事実なら、フェルディナントくんは今難しい立場にあるだろう。
 彼だけじゃない。黒鷲の学級には、蟄居に追い込まれたヴァーリ伯の息女もいれば、エーデルガルト派に立ったヘヴリング家、ベルグリーズ家の子息もいる。ブリギットの王女であるペトラさんも、エーデルガルトさんに味方にするゲルズ家と縁が深かったはずだ。彼らは総じて、この戦いにおいて、慎重な振る舞いをしなければならなかった。王国や同盟に生きる私たちよりも、よっぽど。
 だからこそ、先生は彼らを帝国兵と戦わせることを良しとしなかった。救護班(ドロテアさんは、どうやらそっちにいるらしい)か、前線から離れた部隊に混ざるよう、指示をしたのだ。視界の端には、それでも「あ〜あ、親父が来てないんだったら、オレも前線に行きたかったぜ」とぼやくカスパルくんの姿がある。一方で、俯くフェルディナントくんの顔の陰影は、今も濃い。
 私たちはレア様と共にこの最終防衛線を死守しなければならない。先生や殿下たちが最前線に立つ以上、そう易々と突破されることはないだろうけれど、それでも与えられた任務の重さを思うと、ほんのり吐き気すら催してしまう。私は役に立てるだろうか。明日の今頃もちゃんと生きているだろうか。いや、私よりも、殿下は無理をしたりしないだろうか――。
 まだ日は傾き始めたばかりだったけれど、日が当たらない場所にいるのと、緊張とで、体温が下がってきたらしい。壁を背にしゃがみこんでかじかむ手を擦り合わせていると、不意に私の身体に落ちる影が濃くなった気配があった。落としていた視線の先に、誰かの靴の先が映り込む。「よ」と短く声をかけられても、顔を上げるまで、私はそれが誰か分からなかった。聞き慣れた声だったっていうのにそんな判断もできないなんて、やっぱり、いつも通りの心境ではなかったんだと思う。



「……クロードくん」



 見上げた視界の先に、クロードくんがいた。



「お疲れさん、。……ちょっと良いか?」

「あ、うん、勿論」



 クロードくんに合わせて立ち上がろうと思ったのに、クロードくんは私の隣に並ぶ形で地面にしゃがみこむから、ちょっとだけ驚いた。開いた膝に片肘をついて、その手に顎を乗せるクロードくんは、なんていうか、これから戦いを迎えるようには、全然見えなかったのだ。
 目を丸くする私に、クロードくんは小さく笑った。「顔色悪いな」って。翡翠色の瞳の中で、私はいつもよりも、白い顔をしていなくもない。



「ひょっとして、緊張してるのか?」

「し、してるよ、そりゃあ。……クロードくんはしてないの? 緊張」

「俺か? ……うーん、どうだろうな。少なくとも、お前ほどにはしてないんじゃないか?」



 それは一つの部隊の指揮を任された人間であることを考慮しての返答だったのか、クロードくんの本心だったのか、私には分からない。だけど、薄い笑みすら浮かべているクロードくんはやっぱり、全然緊張している様子がなかった。
 学級混合の部隊(それも黒鷲の学級の生徒がほとんどで、あとは私と、クロードくんだけだ)を預かったのがもし私だったら、責任感と重荷で潰れちゃうだろうに、笑みを携えたままの彼の翡翠の目は、ちっとも揺らいでいない。そういうところ、やっぱり級長なんだな、って思う。脳裏を過ぎる殿下の双眸を、瞳を閉じて身体の奥にしまいこむ。
 だけど、どうしてクロードくんが部隊を預かることになったんだろう。
 大切な役割を持つことに代わりはないけれど、この戦に勝つことだけを考えるなら、この部隊は前線と比べれば、直接の交戦は多くない。
 敵は強大な帝国軍だ。ここで上手く持ちこたえることができたとしても、籠城は長期化すればするほど不利になる。そもそも、ガルグ=マクはアリアンロッドとか、帝国のメリセウス要塞ほどの設備を備えていないのだから。だからこそ私たちは、軍を率いている皇帝――エーデルガルトさんを打ち倒し、短期決戦で戦いを終わらせる以外の道がない。
 だったらクロードくんくらいに実力のある人は、前線に行くべきだった。そういうことを、言ったのだ、何も考えないままに。



「まあ、そうだな。うちの生徒は先生が預かってくれるって言うし、俺としてはどっちでも良かったんだが」



 外郭都市にある戦線は、少しずつ内側に後退している。私たち二人のしゃがみこんだ目の前を、兵士が忙しなく駆けていく。砲台はいつでも使えるよう、既にその準備を終えている。
 戦の始まる前の緊張感と高揚が混じり合った、独特な空気だった。先生たちは、皆、前線へと向かう部隊にいた。二重防壁の、外側にある壁の方。その気配はまだかろうじて、あたりに感じられた。私だけがそこから外されたことを、酷いとは思わない。ただ、殿下のことを守れないのが、殿下がこの戦いで無理をしてしまわないか気を配ることができないのが、心残りなだけで。だから、別れる前、ドゥドゥーくんと、イングリットちゃんに、お願いした。どうか殿下をお願いします、って、こんなこと、私が言って良いことじゃ、もう、なかったんだけど。それでもそうする他なかったから。
 私は強くなれなかったから。



「頼まれちゃ、仕方ないよな」



 クロードくんが吐き出した言葉に、そっと彼の方に目をやった。
 クロードくんはそれに気がついて、ちょっとだけ眉尻を下げて笑う。風が頬を撫でる。一瞬彼が伏せた睫毛が、微かに揺れる。
 それが、殿下の笑顔に似ていたなんて、偶然だ、きっと。
 希望なんか抱くには、あまりに弱い。



「…………それは、先生に?」



 それでも私は、こういうとき、考えるよりも先に口が動いてしまうたちだった。殿下にもそうだったら良かった。いつも、いつもそうしていたら良かった。
 かさかさの乾いた声は、クロードくんにきちんと届いていたはずだったのに、クロードくんは片手に頬を乗せたまま、首を傾げるような仕草をしただけだった。そこに、もう殿下に似た笑みはない。
 私たちの間に、斜めになったクロードくんの影が落ちていた。それが私に届く前に、帝国軍が城郭内に侵入したという報告は成された。


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