殿下とは、あの一件以来、直接顔を合わせることはなかった。
 勿論避けていたわけではない(大聖堂へ行かないことを避けるというのなら、避けていたことにはなってしまうんだろうけれど。)殿下は帝国軍の部隊がガルグ=マクに接近するまでの二週間、大聖堂から殿下が出てくることがなかった。そのために、きちんと会う機会がなかっただけなのだ。
 安堵と心配は、大体同じだけの分量が私の中でぐるぐるに渦巻いていた。本当のことを言うとそれは日によって(或いは時間帯によって)微かに変動するから、どちらか一方が優位になることもあったんだけど。私は殿下を心配する一方で、大修道院内でばったり出くわす可能性が限りなく低いことに、安堵してもいたのだ。だって、殿下の前でどんな顔をしていいか、私には分からなかったから。
 気まずくはあったけれど、一方で、その姿を見ることができないということに不安も募っていた。食堂や寮、ガルグ=マクで生活する上ではどうしても利用する必要がある場所にすら現われないというのは、単に私と行動する時間帯が違ったというだけなのかもしれない。それでも殿下の目撃情報がほとんどなかったことを思うと(それが意図したものなのかそうでないのかは別として)殿下自身が完全に外との関係を断っていると考えるのが自然であるように思えた。一日に一度は必ず殿下の様子を見に行くというドゥドゥーくん曰く、食事自体は摂っているようだということだったから、その点に関してのみ言えば必要以上に不安がることもなかったのだけど。
 日に何度かのお祈りを欠かさない敬虔な信徒であるメルセデスちゃんは、けれど大聖堂で殿下の姿を毎日見かけていたと言う。



「メーチェ、その……殿下は、どんな様子なの?」



 心配そうに眉根を寄せたアネットちゃんが尋ねたのは、帝国軍の襲来が予想されていた日の、数日前のことだった。その頃にはガルグ=マクの城郭にはもう完全に住民の姿がなくなっていて、大修道院も随分ひっそりとしていた。私たちは寄り添うように教室に集まって、教室で、小さな輪を作っていたのだ。多分、不安だったんだと思う。これまでも盗賊を退治したり、反乱を企てたロナート様や西方教会の人たちと戦ったり、ってことはあったけれど、「帝国」っていう強大な敵が眼前に迫っているっていうのは、やっぱりどうしたって怖かったから。
 メルセデスちゃんは「そうねえ……」と呟いて、少し考え込むような仕草で首を傾げる。慎み深い、穏やかな声だ。その目が何もかもを慈しむみたいに、そっと細められる。遠くを見るような眼差しだった。まるでそれ自体が女神様へのお祈りみたいに、メルセデスちゃんは一度小さく頷いてから言う。



「……ディミトリは、いつも一生懸命に祈っているわ。きっと、今もお祈りしているのね」



 他には何も眼中に入らないよう。
 微かな笑みを浮かべるメルセデスちゃんの目はどこか物寂しげだった。メルセデスちゃんだけじゃない、アネットちゃんも、イングリットちゃんも、私も、誰もが殿下の力になれない無力感に苛まれていた。
 私はもう、だから、完全に蚊帳の外だった。恋人であることがおしまいになったのだから、当然だ。私たちはもう、一級長と一生徒に過ぎなかった。ただの同級生以上の親密さでもって殿下の身を案じることなんて、もうしてはいけなかった。



「心配ですね。……本当に」



 イングリットちゃんは、私と殿下の間に落ちた見えない塊の正体を、察してくれていたのだと思う。
 様子を心配をしこそすれ、イングリットちゃんが私に直接殿下の様子を尋ねることはもうなかった。私たちは二人、ドゥドゥーくんやメルセデスちゃんが話してくれる殿下についての話を、いつも神妙な面持ちで聞いていた。何か奇跡が起きて、殿下が前の殿下に戻ってくれたらいいのに。こうしている今も教室に現われて、「一体何の話をしていたんだ?」って、沈痛な面持ちでいる私たちを前に笑って、そうして話しかけてくれたらいいのに。そう願う私の表情は、イングリットちゃんと同じ類のものだった。
 そうであってほしかった。





 


 先生は殿下を助けてくれるって言ったし、私もそれに救われた気持ちでいたのは事実だけれど、例え先生が殿下に対し何らかの行動を取ったからと言ってすぐに事態が改善するはずがないことくらい、きちんと理解していた。
 殿下の憎悪は根深いものだ。
 四年前、目の前で家族を、仲間を惨殺された。たった一人生き残った殿下はその日、殿下自身を形作っていた全てを失ったのだろう。血の海に取り残された、まだ少年の面立ちを強く残していただろう殿下の孤独は、もう殿下本人にしか分からない。
 殿下は、きっと、ずっと復讐の機会を待っていた。鍛錬をし、情報を集め、そのための準備を整えた。いつその時が来てもいいように。
 そして今がそのときなのだ、間違いなく。
 エーデルガルトさんを仇と断定したその理由を、私は推し量ることしかできないけれど。



「皆、聞け! すでに帝国軍は目前まで迫っている!」



 シャミアさんたち偵察隊の言っていた通り、エーデルガルトさんの率いる帝国軍は、孤月の節の終わりの日、その夕方に、ガルグ=マクへと到達しようとしていた。
 大広間に集結した騎士や近隣諸侯からの援軍、帝国と戦うためにガルグ=マクに残っていた私たち士官学校生を前に檄を入れるのは、ジェラルトさんの死後騎士団をまとめていたアロイスさんだ。



「戦える者は武器を取れ! 他の者は急ぎ避難せよ!」



 我らには主の加護がある。恐れることはない。勝利を信じるのだ、と。
 それに応える騎士たちの唸るような声は、慣れ親しんだ大広間に限界にまでいっぱいになって、やがて外へと押し出されていく。たった数節前、ここで舞踏会があったなんて嘘みたいだった。殿下がたくさんの女の子たちと踊るのを、落ち着かない気持ちで見ていたことがあったなんて。今の私は、そんな中、空気の抜けた風船みたいに縮こまってこっそり息をしている。戦の直前の空気がもたらす高揚に萎縮したせいもあるけれど、大聖堂側の扉から殿下が入ってきたことに気がついたからだ。
 美しい金糸が、扉の隙間から差し込む夕陽に照らされていた。
 士官学校の生徒たちは、誰に命じられたわけでもなく、自然とそれぞれの学級で固まっていた。エーデルガルトさんやヒューベルトさんのいない黒鷲の学級、クロードくんを中心に輪を成す金鹿の学級、それから、真ん中の欠けたままの私たち。殿下は青い外套を背に、迷うことのないしっかりとした足取りで私たちの元へと歩いて来る。その鬼気迫った表情に、自然と道が開かれていた。私たちの、誰もが殿下を見ていた。カトリーヌさんと何か言葉を交わしている先生も、横目でその姿を追っていた。
 殿下。
 喉元まで出かかった声を、口を噤んで飲み込んだ。殿下はドゥドゥーくんとフェリクスくんの間にその身を置くと、ほとんど独りごちるように「……ようやく来たようだな」と呟いた。低く掠れた声だった。



「エーデルガルト」



 その声は、大広間の片隅に、消えることなくずっと浮かんでいる。
 大聖堂で私と話をしたときよりも、はっきりとやつれていた。その瞳は暗い光を宿していて、変にぎらついて見えた。水分のないかさついた唇は、戦の前には不釣り合いな、歪んだ笑みの形をしている。
 私は、殿下がこうしてここに現われるまで、殿下と向き合うことを恐れていた。ずっと会っていなかったから。あの時帰れと言ったはずなのに、どうしてここにいるんだ、って、そう言われるのが怖かった。お前がいると困るって言われたら、今度こそどうしたらいいか分からなかったと思うから。だけど殿下は私のことを見なかった。視界の中央に、決して据えなかった。気付いていないというよりは、もう初めからいないものとして扱っているみたいだった。それにすら傷ついたように思うのだから、もう、どうしようもない。



「殿下……ご気分が、優れないようですが」



 そう気遣うドゥドゥーくんに、殿下が向き直った。私の位置からではその横顔がはっきり見えた。私はもう殿下に近づけなかった。寄り添うように隣にいてくれたイングリットちゃんが握ってくれた手を、握り返す他なかった。殿下の目は、酷く歪んでいる。



「……気分が悪い、だと?」



 何を言っているんだ、ドゥドゥー。って。
 続ける殿下の声が、この大広間の騒がしさを前に飲み込まれてくれたら良かった。そう思うのは、見ていられなかったからだ。私たちは、きっと内から見ても、外から見ても、欠けていた。歪んで変形したまま、それでもどうにもできずにいた。殿下がこうして大聖堂から出てきても、もう変わらないのだ。私たちは、とっくに核を腐らせていた。気がついていながら、どうしようもできなかった。
 大聖堂で祈る殿下の背が、浮かんで消える。「俺は嬉しくて仕方がないんだ」私たちの傷に、殿下の声は染みこんでいく。



「……父が、継母が、朋友が、あの女の首を求めている。やっと彼らの声に応えてやれる機会が巡ってきたんだ」

「殿下」

「喜ばないはず、ないじゃないか」



 ドゥドゥーくんを見つめる殿下の、見開かれた目を縁取る睫毛が震えていた。眼球の青を、私は何も言えず見つめていた。誰も、何も言えなかった。私たちはそこにある殿下の生々しい傷を見ながら、癒し方を知らなかった。手を伸ばしたのは先生だ。先生だけが、殿下の肩を引いた。現実に引き戻すみたいに。「ディミトリ」先生の低い理性的な声が、大広間の端に落ちていく。



「逸るな」



 そこにどれだけの沈黙があったか。
 殿下はじっと先生を見下ろしていた。青い外套の皺は正しく保たれたまま、陰影が深くなることさえなかった。大広間は、騎士たちのざわめきで満ちている。膨張し、行方の定まらない興奮が充満する中、私たちのいる一帯だけが、低い温度を保っていた。私たちはただ、じっと二人の行く末を見守っていた。殿下がやがて、「はは」と乾いた笑いを漏らすまで。



「わかっているさ」



 だがエーデルガルトは、俺の手で殺す。
 伏し目がちに笑う殿下はそう言った。
 最後まで私の顔を、殿下は一度も見なかった。


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