どうかしたか、って尋ねられて、思いの丈をそのままぶつけられることができるくらいに器用な人間だったら良かった。
唇を引き結んで、こちらを見つめている先生の双眸からそっと視線を外す。見慣れた机の木目に懐かしさすら覚えるのは、例え戦況がどうなろうと、もうガルグ=マクにいられる時間が残り少ないことを本能で察していたせいなのかもしれない。やがて顔を上げたのは、先生に視線を戻すためではなかった。私は殿下が座っていた、今は空白の席を言葉もなく見つめている。
先生の前に、私の中にある恐怖や不安を一つずつ並べて見せることができたら良かった。殿下のことや、これから始まる帝国との戦いのこと、言葉にするには形の定まらない、私の心のあちこちにこびり付いた泥たちを、一つ一つ先生に溶かしてもらえたら良かった。だって先生はきっと、ちゃんと受け止めてくれる。納得のいく答えに私を導いてくれる。
だけどそうしようとすると、自分の意思とは裏腹に、口が上手く動かないのだ。
それは多分、覚悟ができていないから。
「」
私たちの間に長く続く不自然な沈黙を破ったのは、先生の方だった。
先生は私のことを、気に懸けてくれていたんだろう。促しても何も切り出そうとしないものだから。顔を上げれば、先生はほとんど表情らしい表情のない顔で、私のことを見つめている。
「……これをハンネマン先生に返しに行きたいんだが、手伝ってくれるだろうか」
そう言う先生の手元にあったのは、紋章学の授業でハンネマン先生が使用していた、数冊の本だった。
先生が気を利かせてくれたことは、流石に分かる。
だって先生の言う「ハンネマン先生に返さなければならない本」なんかたった三冊程度だ。その返却に関することを全て私に頼むなら兎も角、自ら返しに行くっていう先生を私が手伝う必要なんか一切なかった。それでも形だけはと思ったのかもしれない。そのうち一冊を手渡されたから、つい笑ってしまった。先生はそんな私を見て、微かに眉尻を下げて、目を伏せ、そうと分からないくらいに小さく笑った。少なくとも私には、そう見えた。
教室を出ると、柔らかい風に頬を撫でられる。青々とした芝生は数日前よりも生き生きとして、それに紛れるように小さな花がいくつも咲いていた。この時期ラルミナではまだそこかしこに溶けきらない雪が残っているけれど、ガルグ=マクは日に日に春に向かっている。
訓練場から響く武器のぶつかり合う音も、飛竜を使って空を舞い、周囲を哨戒する騎士の姿も、すっかり人気のなくなった大修道院も、すれ違う人が大なり小なりピリピリしているのだって、私はちっとも慣れていない。だけど先生は、いつもと変わらない様子で真っ直ぐ前を見ていた。風に揺れる髪は、室内で見るよりもずっと明るく、色素が薄い。
「二週間後なんて、すぐですね」
教室では重たく開かなかった口が自然と動いたのは、外の空気を吸ったためなのだろうか。
私の歩幅に合わせて歩いてくれる先生は、目だけで私を見た。それから、私たちの間には細やかな沈黙が落ちる。なんと答えるべきか迷っているが故のの沈黙というよりは、この空白は、先生だからこそ生まれるものであるように思えた。
二週間後、帝国軍はガルグ=マクに到達する。その時私たちは、物資の限られたガルグ=マクで、退路もないままに戦わなくてはならない。勝ち目がどれだけ薄くても。
それなりの空白を置いた後、先生はやがて「ああ」と短く言った。
「……ガルグ=マクを守らなくてはならないと思うよ」
私の抱える、紋章の歴史について記された本は、これまでのガルグ=マクで教鞭を執っていた先生たちの歴史が垣間見えるほどに古く傷んでいる。私たち生徒が今所持している、代々先輩方から受け継がれている教書も大切に扱われているとは言えそれなりに年季が入っているけれど、これはそれに輪をかけて古いものであるように見えた。染みついたこれらの痕跡は尊ばれなければならないと、確かに思う。
落成から間もなく千年、その間何度か修繕が成されているものの、それでも大聖堂は長くフォドラを見守り続けて居たし、それよりはずっと短いとは言え、士官学校も創設されて二百年という歴史がある。それが帝国の攻撃に晒されていい理由なんて、一つもないのだ。守らなくてはならない、先生の言う通り。そのためだったらほんの僅かな力しかなくても、何だってしたいと思うのだ。
戦うことが、怖くてたまらなくても。
「は、不安?」
先生の声に、顔を上げた。
建物の隙間から差し込む太陽の光に目が眩む。先生の髪は陽で透けて、繊細な糸が風に吹かれているみたいに見えた。私が抱えていた本に必要以上に力を込めてしまったのは、先生が、いきなり私の線を踏み越えてきたからだ。
「ふ」
不安。
先生の言葉を、口の中だけで反芻する。
踏み越えられた、と言っても、それ自体は何もおかしなことではなかった。だってこれからのことについて言及したのは私が先だったし、先生の目から見た私は、教室からずっと何か言いたげだったに違いないんだから。だから先生はこうして私と一緒に歩く時間を作ってくれているのだ。私が引け目を覚えないように、手伝いという、本来だったらなかった名目を与えてまで。
そう思ったら、どうしようもなく申し訳なくなった。こんな風に先生に気遣わせるくらいなら、さっさと話すべきだった。私が抱えている不安。目前に迫った帝国軍との戦いが怖いこと。かといって逃げる気もないこと。もしも殿下が今まで通りの殿下だったら、きっとこの不安だって解消されたはずだったのにと、そう思ってしまっていること。だってそうしたら、殿下と、先生たちと一緒にガルグ=マクを守るんだ、って、覚悟を決めることができた。共に戦うことを心強くすらあったはずだった。
だから、本当に私が一番怖いのは、殿下がずっとあのままでいることだ。
「…………不安です、すごく」
勢いのままに、口にする。
「今の状況も。帝国と戦うのも。で、殿下だって」
殿下だって、一人で何かを思い詰めたまま、私だけじゃなく皆を拒絶している。
そうして言葉にした瞬間、だけど、胸につかえていた何かが音を立てて外れたような気がした。同時に、鼻の奥が痛くなる。泣きそうなんだって気がついて、仰ぐように空を見た。こんなときなのに、空が酷く青かった。雲は光を吸い過ぎて、全体が発光しているようですらあって、泣けるほど眩しい。
先生はそんな私に「うん」とだけ言った。その反応は、見方によっては淡白なものに映ったかもしれない。だけど私は知っていた。先生だって、ちゃんと殿下を心配していること。その内心を慮っていること。それを証明するみたいに、先生の「うん」には色んな感情が込められているようだったから。だから、だからこそ話がしたかった。先生と私の二人では解決できない問題ばかりだったとしても。
殿下の困ったような笑顔とか、伏せられた目とか、手の温度とか、そういうのばかりが脳裏を駆け巡る。「おしまい」になった今、これらはいずれ、私の中からすらも永遠に失われるものだ。それは、仕方ない、いずれ来るだろうと覚悟していたから。殿下がそれでも真っ直ぐ歩いて、幸せになってくれるならそれでいい。だけど、今の殿下はただ、差し伸べられた全ての手を振り払って、自ら破滅に飛び込もうとしているように見えて、私はそれが、何よりも怖いのだ。怖くて仕方が無いのだ。殿下の身体が高速の刃に切り刻まれて消えて行くのを見届けることが、私にはできない。
何の力もないくせに。
「せ、先生」
そう口にして、初めて私は、もうとっくに自分が泣いてしまっていることに気がついた。
どうしようもなかった。私では何もできなかった。何が恋人だ。何が特別だ。私なんて、殿下の力に少しもなれなかった。殿下を思いやっているつもりで実際は踏み込むのを怖がっていただけだった。その背を見守っていられたら良いって言って、殿下の隣に本当の意味で立とうとしなかった。その結末がこれなら、私はもう、受け入れなければならない。
だけど、でもそれで殿下がひとりぼっちで、このまま孤独の水に頭のてっぺんまで沈んでしまうのは、嫌だから。
あとからあとから零れる涙を手の甲で拭った。ハンネマン先生の本が汚れないように、それだけはもう片方の腕で抱えながら。「先生」もう一度口にしたそれは、酷く掠れて、もう声にならない。
「殿下をたすけて」
こんな私を何度も助けてくれたみたいに。
だって先生は、女神様に愛された人だから。不思議な魔法が、きっと使えるんだから。
だから、お願いだから、殿下を救って。
縋り付くように口にする私に先生は、いつもよりもずっと長い沈黙の後、「助けるよ」って、静かな声で言った。だから、涙腺が壊れたみたいに、泣いたのだ、私は。
「……ディミトリも、も、自分の大切な生徒だから」
ガルグ=マクから人が離れ始めて間もない、春の日だった。
ベレト先生の言葉には、逡巡がなかった。ぼやけた視界の中で、それでも先生が私のことを真っ直ぐ見つめていることだけはどうにか分かって、それだけで救われた気になった。本当に。
先生がいなくなっちゃうなんて、思ってもみなかった。